終宵

「朝なんて一生来なくていい」
 設楽はそう言って、まだ温かいままの彼女の身体を後ろから抱き締めた。とくん、と鼓動が一つ飛び跳ねて、ますますそれは速くなる。
 設楽の留学前日――否、既に十二時は過ぎているから当日か――、二人は初めて身体を重ね合った。白く冷たいシーツの中で、互いの温もりを確認し合うかのように、汗ばんだ肌を重ねて、口づけを交わし、設楽は自分の痕跡を残すかのようにして、彼女に楔を打ち込んだ。彼女も快楽に身を任せ、設楽を受け入れた。初めてのはずなのに、自分たちはそうすることを前から知っていたような気がした。
 設楽の留学が決まったことは本来喜ぶべき事であるはずなのに、二人とも素直に喜べないでいた。付き合ってまだ二ヶ月ほどしか経っていないのに、相手は海を隔てた向こうに行ってしまう。それは悲しくて切ない出来事だった。同じ日本にいるならまだしも、海外では気軽に会いに行くこともできない。おまえも早く来いよ、と設楽には何度も言われたけれど、そして心の中ではそうしたいと何度も願ったけれど、現実はそう容易く願いを叶えてはくれないのだった。
「こっち、向けよ」
 設楽にぐい、と肩を掴まれたが、彼女は自然と力を入れてそれに抵抗してしまっていた。先程の余韻は心地よく身体を痺れさせていたけれど、同時に強烈な羞恥をもって彼女を襲いもしていた。どんなふうな顔をして設楽と向き合えば良いのか、全く分からなかった。設楽が指に力を入れてきたけれど、どうしても向こうを向く気にはなれなかった。
「なんだよ、おまえ。機嫌悪いのか?」
 彼女ははっとして、思わず首を振る。
「ちっ、ちがいます……」
「じゃあなんだよ、はっきり言えよ」
「いえ、その……」
 言い淀んでいると突然、肩を掴んでいた設楽の指の力が緩んだ。彼女の前に回されたもう一方の設楽の手が、そわそわと落ち着きをなくして彷徨った。
「あぁ……その、俺には加減がよく分からなくて……お、おまえが何も言わないから……」
「えっ?」
「い、痛かったんなら、最初からそう言えよ!」
 何を言っているのだろうと思った直後、その意味を理解して赤面した。少し冷めてきたと思っていた体温が、またも上昇していく。下腹部に思わず力を入れると同時に、うっかり数時間前のことを思い返してしまう。痛みを感じなかったと言えば、嘘になる。けれどもそれ以上に繋がれた喜びの方が大きくて、そんなことはどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「あの、ち、違います! そうじゃなくて、その……」
「な、なんだよ。だからはっきり言えよ。そうじゃないと分からないだろ……」
 離れていた設楽の手が再び戻ってきて、彼女の肌に吸い付く。もっと温もりを感じていたい。そう思うのは彼女だって一緒だ。彼女は意を決して、言葉を紡ぐことにした。以心伝心という言葉が日本にはあるけれど、言わなければ分からないことの方が、実はたくさんあるような気がする。
「わたしも、初めてだから……は、恥ずかしくて。聖司さんにどんなふうな顔向ければいいのか、わからなくて……その……」
「……なんだ。そんなくだらないことで迷ってたのか」
 一蹴されてしまって、彼女は思わず後ろを振り向いていた。
「く、くだらないことって! ひどい……」
 一度振り向いたのをチャンスとばかりに、設楽は彼女の顔に指を添える。上側の腕を掴んで、ゆっくりとこちら側に向けた。身体は天井と向かい合い、顔だけは設楽の方へと向けられる。
 設楽の瞳と再び出会って、心臓が止まりそうになった。その瞳は今、自分だけを見ている。その事実が、彼女の身体を熱くさせた。
「だって本当にそうだろ。そんなこと、俺は少しも気にしてないのに」
「でも……」
「ああもう、こんなことで俺をはらはらさせるな。だいたい今日が何の日か、おまえ分かってるんだろう?」
 急に留学のことを思い出し、彼女は俯く。泣きそうになって、慌てて目に力を入れてこらえた。設楽は腕を回し、彼女の身体を完全にこちらに向けると、思い切りぎゅっと抱き締めた。
「そんな顔、するなよ。最後くらい、おまえの笑った顔見てたい」
「最後って……そんなこと」
「ああそうだ、本当に最後じゃない。夏休みには帰ってくるつもりだ。それまで二ヶ月くらい……我慢できるだろ?」
 設楽の腕の中からそっと顔を上げて、視線を合わせる。けれども今の自分が幸せすぎて、この温もりを手放したくなくて、そう思うと、二ヶ月も離れるなんて耐えられない気がした。自信なげに俯いて、そっと首を横に振る。
「わかり、ません。耐えられなくて、毎日泣いてるかもしれないし……聖司さんに毎日電話して、迷惑、かけちゃうかも……」
「ああもう、こういう時くらい大丈夫ですって言えよ。俺まで自信なくなってくるだろ」
「だって……」
「別に迷惑なんて思ったりしない。電話くらい、好きなだけかけてこいよ。俺もかけるから」
「……はい!」
 少し心が軽くなって頷くと、設楽はおかしそうに笑った。
「急に元気になったな、おまえ」
「ずっと、気になってたんです。聖司さんに気軽に電話かけてもいいものなのかな、って」
「わざわざ訊くようなことじゃない。俺の気持ちはおまえと一緒だ」
「はい。良かった」
 再び抱き締められて、設楽の胸板に頬を押しつける格好になる。心臓の鼓動の音と、設楽の温もりとが同時に伝わってきて、この上ない幸せを感じた。
 離れたくない。手放したくない。いつまでも一緒にいたい。触れ合う肌から、蒸発しそうなくらい激しい熱を感じる。背に回された設楽の手が、何度も何度も彼女の背を優しく撫でた。その感触の心地よさに酔ってしまいそうになる。くらくらとして、もうこのままここで死んでしまっても構わない――そうとすら思える自分に、心の中で驚く。
「朝なんか来なければいい。そうすればずっと、おまえと抱き合っていられるのに」
「わたしも、ずっとこうしていたいです……聖司さんと、ずっと」
 顔を上げると、切なげにこちらを見つめる設楽の瞳。深い口づけを交わすと、心がふつり、と沸き立つ。もう少し、と瞳に欲望を宿すと、設楽はそれを悟ってか、ゆっくりと頷いた。
 そうしてふたたび、二人は快楽の海に身を沈めていった。
(2010.10.3)
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