きっと誘い方が悪かったのだろう、と思う。遠回しなことさえしなければ、知らずにいいことを知らないままでいられたのにと、彼女は後悔せざるを得なかった。
設楽をショッピングモールに誘ったのは、他でもない彼へのプレゼントを選ぶためだった。他人への贈り物と見せかけておいて、実は貴方への贈り物でした――恋愛ドラマや小説などでよく使われる手法を、背伸びして自分もやってみたいと思ったのがきっかけだった。何より自分は、設楽が何を贈られたら喜ぶのか、いまいち見当がつかない。リスクはあるが、こっそりと彼の好みを聞き出せたら。そう、軽く思っての行動だった。
設楽はいつものように、彼女が自分の服やアクセサリーを選ぶためだと思って来たのだろう。男物のアイテムを数多く扱っている店の前に来ると、とても怪訝そうな顔をした。
「こんなところに用があるのか?」
案の定、の反応。彼女はこっそりと笑いながら、はい、と頷いた。
「実は、今日はわたしのものじゃなくて、プレゼントを見に来たんです」
「へえ……」
設楽は店内を一通り見回した後、素っ気なく尋ねた。
「相手は? おまえの父親、とか?」
「ええと……いえ。お父さんではないです」
「じゃあ、誰なんだ」
「それは……」
それなりのリスクは、ある。けれども彼女は、今のこの状況を最大限に楽しみたいということしか考えていなかった。頬を赤らめて上目遣いに、なおも怪訝そうな顔をしている設楽を見つめながら、言った。
「その、すきなひと、に」
設楽の表情が一瞬で変わった。目を大きく見開いたかと思うと、直後苦々しげな表情をして、彼女から視線を逸らす。何かに耐えるように僅かに下唇を噛んで、く、と小さく苦悶の声を洩らした、ように聞こえた。
その時、彼女はおや、と思った。予想していた反応と違う。『へえ、おまえ、好きな奴がいるのか』――とでも言って、にやにやしながら自分をからかってくるのではないかと思ったのだ。こんなに不機嫌そうな顔をされるとは予想できなくて、彼女は内心戸惑っていた。
「ふうん、そう。それで、他の男に渡す物を選ぶために、わざわざ俺と来たのか」
「あの、ええと……」
「言い訳は要らない。そういうことなら、悪いけど俺は帰らせてもらう。他の男への贈り物を、わざわざ選んでやる趣味はない」
設楽はあからさまに不機嫌な態度でそう言うと、身体を翻してしまった。早足で立ち去ろうとする設楽の背を、慌てて追う。
「設楽先輩! 待ってください、あの、本当は――」
「だから!」
設楽は大声を出しながら振り返った。その怒りの表情に、彼女はすっかり怯えてしまった。とても忌々しげで、本当は見たくもないと言いたげな顔。その表情は、初めて音楽室で会ったあの時よりも冷たく、不機嫌さに満ちていた。心臓が止まるような思いをして、その場に硬直していると、設楽はゆっくりと身体をこちらに向けて、言った。
「じゃあ、俺が好きな女のために贈り物を選ぶから付いて来てくれって言ったら、おまえは付いて来てくれるのか?」
「それは……」
設楽の口から好きな女、という言葉が出ただけで、暗い気持ちになった。仮の話だということは十分に承知している。そのはずなのだが、彼の口から直接発せられた言葉というだけで、こんなにも痛みが大きくなるとは思いもしなかった。
彼女が言葉に詰まっていると、設楽はほら見ろと言わんばかりに短く息を吐いた。
「そういうことだ。俺はおまえに都合のいいように振り回されるのはごめんなんだよ」
「……すみません……」
彼女は俯いた。涙がこぼれ落ちそうになった。既に目の上には涙が浮かんでいて、視界がぼやける。唇を噛んでこらえていると、設楽は小さく溜息をついて、髪を掻く仕草をした。濡れた目をそっと上げて設楽の表情を窺うと、設楽はやや困った様な表情をしていた。
「ああもう、わかった。付き合えばいいんだろ。それじゃ交換条件だ」
「交換、条件?」
「俺が付き合うかわりに、おまえも付き合え。俺もちょうどプレゼントを選ぼうと思っていたところだ」
えっ、と思わず間抜けな声が出てしまう。嫌な予感が背に迫っているのを感じながら、彼女はおそるおそる尋ねた。
「それって、誰宛の……」
「おまえと同じだよ」
言うが早いか、設楽は彼女の横をすり抜けて、先程の店へと入っていってしまった。彼女は硬直したまま動けず、しばらく呆然としていた。
こちらからサプライズを仕掛けるつもりだったのに、こんなサプライズなど想像もしていなかった。知りたくなかった、知らなくても良かったのに――こうなったのは全て自分のせいだ、と思うと、余計に胸が痛んだ。その可能性を想定していなかった辺り、自分はどれくらい浮かれていたんだろうと思うと、穴にこもったまま、一生外に出たくない衝動に駆られる。
今まで設楽と何度もデートを重ねて、徐々に相手との距離が近づいているものだと勝手に思っていた。けれども相手の心は、もっとずっと遠いところにあったのだ――自分の手が届かない、ずっと遠くに。
設楽の背を追って店内に入る彼女の表情は、深い悲しみと切なさに満ちていた。
結局あの後、お互いにプレゼントを買ったけれど、設楽とどんな会話を交わしたかはもう覚えていない。というよりは、脳内から消去されてしまったという方が正しい。嫌な思い出を捨て去りたくて、無意識に記憶の中から消去してしまうのと同じように。
プレゼントを渡そうと思っていたその日、学校に持ってきたはいいが、渡す決意ができないでいた。今のままでは、きっと他に好きな奴がいるから、と拒否されるに違いなかった。後悔しても、何もかもが遅いのだ。
だが捨てることだけはできなくて、未練がましいと思いながら、彼女は放課後音楽室を訪れていた。中からピアノの音が鳴り響いている。いつも弾いているあの曲は、すっかり頭にこびりついて離れなくなってしまった。設楽に曲名を聞いてこっそりとCDを買い、音楽プレーヤーに入れて毎日聴いていたが、聞く度に設楽のことを思い出すので、最近はどうしても聴けずにいた。
扉の前で入るかどうしようか迷い、手を伸ばしたり引っ込めたりしていると、突然ピアノの音が鳴り止んだ。驚いて顔を上げると、同時に扉が開く。設楽の顔を見た途端心臓が止まりそうになり、そのまま走って逃げ帰りたくなった。
「そんなところでこそこそ聴くな、余計に気が散る。聴くなら入って来いよ」
「で、でも」
「でもじゃない。じゃなければ帰れ。二つに一つだ、どうする?」
彼女は俯いて躊躇った。だが、ここですごすごと引き下がってしまえば、本当に全てが終わってしまう気がする。最初は気が散るからそもそも聴くな、と門前払いしていた設楽が、音楽室の中に引き入れるまでに心を許してくれているのだ。既に希望が潰えていたとしても、未だ残る僅かな喜びにすがっていたい気もする。
彼女は顔を上げて、設楽の目を真っ直ぐに見つめた。
「じゃあ、中に入ってもいいですか?」
「ああ、そうしろ」
そう言って、設楽はくるりと身体を翻し、ピアノのところへ戻った。彼女もそっと音楽室に足を踏み入れ、静かに扉を閉めた。
二人だけの空間。以前はそこに甘美な雰囲気を感じていたけれど、今はただ身を切られる思いをするばかりだ。だが今この瞬間だけでも設楽を独り占めできているのだと思うと、僅かに灯る蝋燭のような嬉しさに、身を震わせずにはいられなくなるのだった。
「設楽先輩。お誕生日、おめでとうございます」
設楽はピアノの前に座ったまま、目を大きく見開いた。
「覚えてたのか」
「はい。もちろん」
もちろん、を強調して言うと、設楽はふっ、と皮肉っぽく笑った。
「なんで俺の誕生日なんか覚えてるんだ。物好きな奴だな」
「だって……」
「まあいい。とりあえず、ありがとうって言っておく」
彼女は持っている鞄の紐をぎゅっと握りしめた。そのまま鞄を開けて、渡してしまいたい。その強い衝動を、もし拒否されたらという恐怖が必死に押しとどめていた。両方の思いが心の中でせめぎ合い、どうにも動けないままでいると、設楽は何気なく尋ねた。
「そういえば、この間買ったあれ、もう渡したのか?」
心臓が跳ね上がった。その実物はまさに今、ここにあるというのに――彼女は深く息を吐いて心を落ち着かせながら、首を横に振った。
「まだ、です。どうしても勇気がわかなくて……」
「なんだよ、それ。せっかく俺が一緒に選んでやったのに……無駄にしたら承知しないからな」
そうは言うけれど、と、目を伏せながら、彼女は心の中で思った。今のままでは、どっちにしたって無駄になってしまう可能性の方が高いのに、と――小さく溜息をついた後、そういえば、と、彼女は上目遣いに設楽を見た。
「あの、じゃあ、設楽先輩は? わたしと選んだプレゼント、もう渡したんですか?」
可愛らしい桃色の花の髪留めと、シルバーのネックレス。それが、自分と設楽が選んだもう一つのプレゼントだった。設楽の好きな人のために選ぶなんて、彼女にとっては拷問に近いことであったが、自分に付き合ってくれた設楽のためにと、必死にあれこれ考えて選んだものだった。
設楽は今思い出したかのように、ああ、と天井を仰ぎ見て、息を吐いた。
「あれか。別に、今すぐ渡したいものでもなかったし」
「そ、そうなんですか?」
「それより、大事なのはおまえの方だろ。早く渡さないと、機会を失って後悔するぞ」
「それは……わかってます、けど……」
こうなってしまったら、ますます渡しづらくなるではないか、と思った。すると設楽ははあ、と深く溜息を吐いて椅子から立ち上がり、彼女の前に立った。至近距離に立たれて、はっと息を呑む。胸の中で、心臓が痛いほどに暴れはじめた。
「じゃあ、俺で練習しろ。ほら、早く」
「えっ、で、でも……」
「俺がわざわざ練習台になってやるって言ってるんだ。ぐずぐずするな。そんなことで本番、どうするつもりなんだ」
躊躇いの気持ちが胸を掠めた。けれどもぐずぐずしているばかりでは何も始まらない。ようやく決意して、床に鞄を置いた。設楽のために買ったプレゼント。こんなふうに渡すなんて当初は全く想像していなかったけれど、無駄になるよりはいい、と思った。
「それ、持ってきてたのか」
鞄から水色の包装紙に包まれたプレゼントを出した途端、設楽の声が頭上から降ってきた。彼女は無言で設楽の方を見上げ、こくりと頷く。スカートを直しながら立ち上がって、再び設楽と向かい合う格好となった。息が詰まりそうになりながら、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「あの……これ、誕生日プレゼントです。受け取ってください」
「……ああ」
設楽は淡々とした様子でそれを受け取った。その後で少しだけ表情を緩ませると、こちらを見ながら言った。
「ほら、簡単なことだろ。これだけで済む。だから……そいつにも、思い切って渡して来いよ。ほら」
設楽がプレゼントを返そうとするので、彼女は思いきってううん、と首を振った。
「それ、持っていてください。いえ……受け取ってください。お願いします」
「は? なんだよそれ」
設楽は途端に怪訝な表情になった。プレゼントへちらりと視線を落とした後、軽く首を傾げる。
「これ、他の男宛のものなんだろ。こんなもの俺が持ってても、どうしようもないじゃないか」
「でも……わたしは、設楽先輩に受け取って欲しいんです。お願いします」
必死の思いだった。変に思われることは承知している。断られたとしても仕方ない。縋り付く様な目で見つめると、設楽は小さく溜息をついた。
「そんな顔するなよ……ああもう……」
髪を掻いた後、設楽は言った。
「いやだ、って言いたいけど、そこまで言うなら受け取ってやる。ただし二度目はないからな、次こそは好きな奴にちゃんと渡せよ」
「はい。ありがとうございます」
張り詰めていた空気が、すっと和らぐ感覚がした。無意識に肩に入っていた力も抜けて、身体が楽になる。相変わらず状況は解決しないままだけれど、少なくともこれをちゃんと渡したかった相手に渡せただけでも、もう満足だった。
「おまえ……なんでそんなすっきりした顔してるんだよ。目的の奴に渡せたわけでもないのに」
怪訝そうな設楽の問いに、彼女はふふっと笑った。
「本当にしたかったことができたから、いいんです」
「本当にしたかったこと?」
疑問一杯の表情で設楽は首を傾げたが、彼女はそれ以上何も言わなかった。しばらく疑問を浮かべていたが、自分なりに納得できたのか、設楽はふうん、と言って、ピアノの椅子に戻った。
「じゃあ、俺も今度おまえに練習台になってもらうか。それくらいいいだろ?」
「えっ……」
今まで浮かれていた気持ちが、急にしぼんでいく音がした。一時的に忘れていた、設楽の好きな人の存在。それが蘇ってくると同時に、心が冷めていってどうしようもなくなった。
けれども自分は設楽にもう十分色んな事をしてもらったのだ。してもらってばかりでは割に合わない。本当は複雑な気持ちだったが、それを隠して、彼女は頷いた。
「はい。わたしにできることなら」
「ああ、おまえにしかできないことだ。――じゃあ、手を出せ。片方だけでいい」
一体何をするつもりなのだろうか。怪訝に思いながら右手を出すと、設楽はその手首を捉え、素早く彼女の手の甲に口づけを落とした。
あまりの驚きに、心臓が止まりそうになる。それはもしかしたらある種の挨拶のようなものだったのかもしれないが、設楽の唇の感触は心地よくも生々しく残り、彼女の胸を切なく甘く締め付けた。
設楽は僅かに頬を染めながら顔を上げて、意地悪そうに笑った。
「本当は口にするつもりだったんだけどな。いきなりじゃ、おまえも心の準備ができないだろ? ……なんて、冗談だけど」
「く、口に……」
それでは本当に、設楽と口づけを交わすことになってしまう――
驚きと気恥ずかしさで戸惑いながら、その甘美な響きにすっかり魅せられている自分に気が付いた。唇に、キス。未だ握られている手首の感触を手放したくないのもあって、彼女は思わず口走っていた。
「あの……わたしで良かったら、その、練習台に……」
最後の方は声が小さくなってしまい、彼女は気恥ずかしさに俯く。すると設楽は驚いた様に目を見開き、尋ねてきた。
「おまえ、自分が言ってること、わかってるか? 本当に?」
「は、はい。わたしは、その、いいです。設楽先輩になら……」
「バカ、そんなこと軽々しく言うな。そういうのは、本命の奴に取っておくべきだろ」
「でも……」
本命は設楽先輩です、と言葉が出かかって、思わず呑み込んだ。言ってしまえば全てが終わる気がして、けれどもまだ全てを終わらせる度胸は持てないでいるのだった。
自分はよっぽど思い詰めた表情をしていたのだろう。やがて設楽は息を吐き出して、彼女の顔を見上げた。
「だから、そんな顔するなよ……俺にどうしろって言うんだ」
「……すみません……」
「謝らなくていい。……いいか、自分から言ったんだからな、後で文句言うなよ」
「文句なんて……言いません」
彼女が目を閉じると、設楽が立ち上がる気配がした。ゆっくりと顔が近づいて来るのを肌で感じていると、そっ、と設楽の唇が触れた。
薄い唇の皮膚を隔てたキス。それすらももどかしくてならなかった。もっと踏み込みたくて、設楽に近づきたくて、でもそれは叶わない。思わず涙がこぼれそうになって、ぐっと耐えた。初めてのキスは思った以上に甘くて、けれども切なかった。
そっと離れる気配がして、彼女はゆっくりと目を開けた。設楽の頬がほんのりと赤らんでいるのを見ながら、自分の頬も同じように赤いのだろうか、とぼんやり思った。心臓が先程から過熱していて、頬も発火したかのように熱い。
「おまえもいい練習になったんじゃないか」
照れ隠しのようにそっと視線を逸らし、鍵盤を見つめながら設楽はそう言った。彼女は頷くことも首を振ることもできずに、じんわりと残る設楽の唇の感触を噛み締めていた。
「おまえもこういうことがあったら、いつでも俺が練習台になってやるよ。……こんなの、俺の柄じゃないけどな」
冗談めかして言う設楽の言葉が、今は自分にとってとても幸せな響きに聞こえた。
「はい、わたしも……もし、設楽先輩がわたしでいいなら」
「……おまえにしかできないんだよ、こんなこと」
彼の濡れた唇から、ぽつりとこぼれ落ちた言葉。その言葉にはっとしつつも、深くは言及しなかった。今はそれでいい、と思った。心のどこかは相変わらず痛んだままだけれど、この不器用ながらも繋がっている設楽との関係を断ち切りたくなくて、今はこの仮初の幸福に身を委ねることにした。
やがて聞こえてきた設楽のピアノの音に耳を傾けるように、彼女は幸せそうな表情でそっと目を閉じた。