微睡む君に温もりを

 放課後、誰もいない音楽室の扉を開けると、途端に中に閉じ込められていた冷気がゆっくりと流れ出してきて、彼女は思わず身震いした。普段、音楽の授業以外で使われることは滅多にないから、音楽室はいつもひっそりとしている。この音楽室が活気づくのは、吹奏楽部が練習をしている日か、もしくは設楽がピアノを弾いている時くらいのものだろう。
 その設楽も、まだホームルームが終わっていないのか、ここには来ていなかった。暗い音楽室の壁を手探りに明かりを付け、扉をそっと閉める。冬を目前にした十一月、季節の区分としては秋だが、既に防寒具がないと外に出られないほどの寒さとなっていた。
 鞄を最前列に並べられた机の上に置き、彼女はピアノに歩み寄る。漆黒の艶やかな肌にそっと触れると、ひんやりとした冷たさを感じた。蓋を開けて、行儀良く並んだ鍵盤を見下ろす。
 音をなるべく立てないように椅子に座ると、途端に肩の力が抜けて、眠気が襲ってきた。昨日は氷室の数学の課題を片付けていたせいで、ほとんど眠っていなかったのだ。そのおかげで今日は胸を張って提出することができたが、授業中は酷い眠気に襲われてしまい、落ちそうになる瞼に必死に抵抗していたせいで、授業の内容がほとんど頭に入らなかった。
 出そうになったあくびを噛み殺して、立ち上がる。机の上ならまだしも、ピアノの上で涎を垂らして寝てしまう事態だけは避けたかった。
 その時、音楽室の扉が開いた。彼女が振り向くと、そこには設楽の姿があった。
「なんだ、おまえか。早かったんだな」
 そう言う設楽に、彼女は再び出そうになったあくびを噛み殺しながら、はい、と頷いた。設楽は少しの間じっと彼女を見つめていたが、やがて後ろ手で扉を閉めて、彼女の鞄の隣に自分の鞄を置くと、自分の定位置に座った。
 ピアノを続ける、という決意を自分の前で明かしてくれた日から、設楽は彼女が音楽室にいても何も言わないようになった。むしろ、彼は自分が音楽室にいることを求めているようだった。放課後、色々と用事があって音楽室に行けなかったりすると、一行の素っ気ないメール――といっても、携帯電話に慣れていない彼のメールはいつも素っ気ないのだが――が飛んできたし、次の日に会うと、昨日は来なかったんだな、と言われるようになった。行けない日は出来る限りメールを送ることにしていたが、設楽からメールが来たり声を掛けられたりすると、自分が彼に必要とされているような気がして、ふわりと心が浮き上がった。
 やがて設楽の指が動き始め、一気に彼の音楽が室内に広がる。彼女は自分の鞄を置いた机のところへ行き、椅子を引いて座った。自分はピアノのことは詳しくないが、設楽の演奏が心震わせられるくらい素敵なものだということくらいは、わかる。目を閉じて、うっとりと聞き惚れる。いつも弾いているあの曲は、いつも新鮮な響きをもって彼女の胸に落ちていくのだった。
 一度目を閉じて耳に神経を集中させ、彼の音楽を身体全体に染み込ませた後、目を開いてじっくりと音楽を鑑賞する。それがいつものやり方だったのだが、ある異変に気付いて、彼女は焦った。一度閉じてしまった瞼が、なかなか開いてくれないのだ。重苦しいシャッターのように、彼女の視界を遮ったままぴくりとも動かない。そのまま意識までもが落ちていきそうになり、彼女は懸命にこらえた。
 設楽の前で寝るわけにはいかない。彼の演奏が退屈なわけがないのに、このまま眠ればそう誤解されてしまいそうな気がして、恐ろしかった。襲い来る眠気が恨めしい。なんとか、なんとか、と意識レベルを保とうとするけれど、それよりも激しい勢いで、意識を奈落の底へと落とそうとする。唇を噛んで耐えてみたが、僅かな痛みくらいでは、その抑止にもならなかった。
 そうしてちょうど穏やかな曲調になった頃、ついに限界は訪れた。彼女の頭はゆっくりと机の上へと落ちていき、腕に受け止められる。口からは寝息が洩れ出し、設楽の紡ぐ柔らかな音達は、彼女をますます深い眠りへと誘うのだった。


 ゆっくりと瞼が開いて、意識が現実へと戻されていく。ぼんやりとした視界の向こうに黒光りしているピアノがあることに気付いて、彼女ははっと目を開けた。机に突っ伏していた身体を起こすと、肩に掛けられていたものが滑り落ちていく感触があった。慌てて振り向き、それを手で受け止める。掛けられていたのは紺のブレザーで、自分は着たまま寝ていたから、明らかに自分のものではないと分かった。
「……設楽先輩?」
 その持ち主は、一人しか思い浮かばなかった。結局眠ってしまったことに強烈な罪悪感を感じながら、きょろきょろと周囲を見回す。けれども既に音楽室に人の気配はなく、眠る前とは打って変わって痛々しいほどの静寂に包まれていた。
 彼はきっと自分に愛想を尽かして帰ってしまったのだろう――そう思うと、その場で思わず泣きたくなってしまった。自分が退屈だと思っていると誤解されて、彼を傷付けてしまったかもしれない。
 貫くような胸の痛みを感じていると、突然鞄の中から携帯電話のバイブレーションの音がした。慌てて鞄を探って携帯電話を取り出し、画面を見る。バイブレーションはメールが一通来たことを知らせるもので、更にその差出人は設楽であった。大きく心臓が跳ねる。
 自分に愛想が尽きた、という絶縁メールだったらどうしよう――彼女は恐怖を抱きながらも、おそるおそるメールを開くことにした。タイトルはいつものように無題のままだったので、開くまでには少々の勇気が要った。
 覚悟を決めてメールを開くと、そこには一行。

『なんで俺がピアノを弾いてる時に寝るんだよ。バーカ』

 思わず短く息を吸い込んだ。口調は軽いとはいえ、自分にがっかりしているのは間違いないと分かる一文。目に涙が浮かんできて、視界がぼやけ始める。自分のあまりの情けなさに、胸にナイフを突き立てたい気分になった。
 だが視界が完全にぼやける前に、メールに続きがあることに気付いた。その一文の下は三行ほど開けられていたが、画面の一番下に、続きの文章が隠れている。
 急いで指を動かしメール画面をスクロールさせる。そこにはいつもの彼からは考えられないくらいの、長い文章が綴られていた。

『なんてな。冗談だ、上のはあまり真に受けるなよ。
 おまえ、疲れてたんだろ? 音楽室に来た時から、疲れた顔してるなと思ってた。急に用事が入ったから先に帰ったけど、あんなところで寝て風邪引くなよ。
 上着のことは気にしなくていい。替えはいくらでもあるし。暗くならないうちに、早く帰れよ』

 視界がぼやけきっていて、最後の方はよく読めなかった。目をぎゅっと閉じると、涙が溢れてぽたりと画面の上に落ちる。設楽の優しさが、こんなにも身にしみて感じられたことはなかった。いつもは自分に文句や嫌味や皮肉を言うこともしょっちゅうなのに。
 もう片方の手に掛けられたブレザーの裾を、ぎゅっと握りしめる。心なしか、設楽の温もりが残っているように感じられた。携帯電話を一旦机の上に置き、設楽のブレザーを羽織り直す。ほのかな温もりが全身に広がり、罪悪感に苛まれてぼろぼろになっていた彼女の心が、じわじわと癒されていく感覚がした。
 直後、携帯が再び震え出した。今度は電話の着信。相手は設楽からで、彼女の心臓が高鳴った。通話ボタンを押して、耳に押し当てる。
「……もしもし?」
『ああ、起きてたのか。メールだけじゃ起きないかと思って、電話してやったんだけど』
 胸がいっぱいになる。お礼の言葉を紡ごうとするのに、どうしても喉につかえてうまく話せない。
「あの、設楽先輩、その……」
『なんだ?』
「ありがとう、ございました。すみません、わたし、寝てしまったりして……」
『まあ、気にするな。おまえ疲れてたんだろ? 昨日、あまり寝てなかったとか』
 再び蘇った罪悪感のせいで落ち込みそうになった心を、設楽がさりげない言葉で掬い上げてくれる。嬉しくなって、また涙が溢れそうになった。
「昨日、氷室先生の課題を片付けてて……」
『やっぱりな。だろうと思った。俺は用事があるから先に帰るけど、おまえも気を付けて帰れよ。日も短くなってきたしな』
「はい。あの、ありがとうございました。今度は設楽先輩のピアノ、ちゃんと最後まで聴きます」
『ああ、そうしろ。明後日は確か吹奏楽部の練習がない日だろ? 音楽室で待ってる』
「はい」
 じゃあまたな、と短く言って、設楽は電話を切った。彼女は設楽のブレザーを握りしめて、携帯電話を鞄の中に入れた。明かりを消して、音楽室を出る。外は既に暗くなり始めており、廊下は昼間の騒がしさとは打って変わって静寂に包まれていた。
(先輩の上着、温かい……な)
 顔を寄せた上着からは、微かに設楽の匂いがした。
(2010.10.30)
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