Missing you

「わたし、きっと先輩がいなくても生きていけると思います」
 設楽のパリ留学が目前に迫ったある日のこと。
 買い出しを済ませ、二人で夕焼け色に染まった道を歩いていると、突然隣の彼女が思いがけない言葉を口にした。
 設楽は思わず目を見開いて、彼女を振り返る。けれども彼女の視線は設楽ではなくずっと前の方を向いていて、その微動だにしない表情から感情を読み取ることは難しかった。
 驚愕の後、設楽の心は苦々しい思いで埋め尽くされた。自分がいなくても生きていける。つまりそれは、自分は彼女にとって必要のない人物であると言われたに等しい。少し前まであれだけ寂しそうにして自分に纏わりついていたというのに、この心の変わりようは一体何なのか。腑に落ちない思いもあったが、それ以上の不快感が設楽の喉元にせり上がった。
「……ああ、そう」
 素っ気なく答え、設楽はやや早足で歩き出す。彼女の顔など見たくもないと思った。かえって後ろ髪引かれる思いをせずにパリに行けるから良いかもしれない、と前向きに考えようとしたが、そう簡単に心の切り替えができるほど、設楽は器用な人間ではなかった。
 不快感の後、少しの後悔が設楽を襲う。自分は今まで彼女に、あまりに酷い言葉を投げかけすぎたかもしれない。彼女が困った表情をするのが楽しくて、または自分の天邪鬼な性格ゆえに、赤の他人なら機嫌を損ねてしまいそうな言葉を口にしたことも何度かある。今の彼女の言葉は、そうした行為の蓄積した結果なのだろうか。だとすれば原因は自分にある。設楽は苛々して、ああもう、と小さく呟くと、乱暴に髪をかき上げた。
「先輩」
 後ろを歩く彼女の声が響いたが、設楽は徹底的に無視を決め込むことにした。だが彼女の口は続けて言葉を紡いだ。
「ただ、生きていくことならできます。でも、心は死んでしまいます」
 設楽はふと足を止めて、ゆっくりと彼女を振り返った。今度は、彼女の表情がはっきりと読み取れた。目を伏せて、寂しげに唇を噛み、その場に佇む彼女。設楽は完全に体を後ろに向けて、嘲るかのようにふんと鼻を鳴らした。
「死ぬなんて大げさだな」
「大げさじゃありません。本当です」
「なんで」
「先輩がパリに行ってしまったら、わたしの生きている世界から先輩が消えてしまうような気がするから……」
 彼女はそう言って自身の二の腕を掴み、微かに震えた。音もなく静かに迫る絶望から逃れたくとも逃れられず、彼女は恐れているように見えた。設楽はゆっくりと彼女に歩み寄ると、ひしと彼女を抱き締めた。
「馬鹿だな。お前の心が、じゃなくて、まるで俺が死んでしまうみたいじゃないか」
「だって、これからずっと会えないと思うと……」
「ずっとじゃない。夏休みには帰ってくるって言っただろ? それにお前もいつか来てくれるんじゃなかったのか、パリに」
 お決まりの台詞を口にすると、彼女は急に顔を歪め、瞳を潤ませた。
「意地悪なこと、言わないでください……」
 そんなことは最初から設楽にだってわかっていた。この台詞を口にすることが、彼女にとっていかに残酷であるかということも。だからこそ今までは彼女をからかうのに使っていたのだが、今回ばかりは罪悪感が心に押し寄せた。彼女の背に回した手に力を込める。
「……悪かった」
「先輩……」
 少しの後、自分の首筋に押し当てられた彼女の顔から、温かい水が伝った。微かに洩れ聞こえる嗚咽に、設楽の心が激しく揺れる。叶うことならば、ずっとこうして彼女を抱き締めていたい。常に彼女の温もりを感じていられる場所で生きたい。寂しい、と口にするのはいつも彼女の方だったけれど、対する設楽が何も思っていないわけがなかった。彼女と出会ってから三年後、やっと手に入れた温もりをすぐに手放すことになるなんて、我慢強くない設楽にとっては耐えがたい仕打ちだった。だからこそ、彼女が困ると知っていても、パリに来いと言わずにはおれなかったのだ。
 ひくり、としゃくり上げたあと、彼女は申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい。行かないで、なんて言うつもりじゃないんです。そうじゃなくて、ただ……」
「分かってる。何も言うな」
 せめて行くまでの短い時間は、彼女と共に過ごしたい。それは彼女も同じ思いだったのだろう。彼女はそろそろと手を上げて、設楽の背を掴んだ。
 設楽もますます腕に力をこめ、彼女を強く抱き締めた。離した後も、ずっとこの腕の中に彼女の温もりが残るようにと――
(2010.7.3)
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