移ろいゆく緑葉に

「綺麗だな」
 秋になりすっかり紅葉したはばたき山を見つめる設楽の目は、普段他の物を見る目とまるで違っていた。実に生き生きと、それでいて秋の気候のように優しく穏やかで、彼女は思わずはっとした。設楽が自然の風景を愛する人物だというのは知っていたが、彼が紅葉に掛ける思いはまた特別なものであることを、改めて気付かされる。
 誘って良かった――心の中で密かにそう思いながら、設楽と一緒にはばたき山のハイキングコースを歩いた。
 落ち葉を踏みしめる音が、心地よく響く。視線を上げれば赤や黄に紅葉した木々、足下へと落とせばあちこちで転がっているどんぐりや、地面からひょっこりと顔を出したきのこが見られる。これほど秋を満喫できる場所はないのではないだろうかと思うほどだった。
 森林公園も木々が紅葉しすっかり秋めいてきたが、人も多くベンチや噴水などの人工物も見えるあの場所より、ここは自然そのものを肌で感じることができる気がする。実際先週設楽と一緒に森林公園に行った時より、設楽の機嫌は良いように思われた。
 ハイキングコースを歩きながら辺りを見回していると、ふと未だ紅葉していないのか、緑色の葉の付いた木が目に入った。同時に設楽もそれに気付いたらしく、視線を上げる。
「あの木、まだ紅葉してないんですね」
「ああ、みたいだな」
 どちらからともなく、その木の下へと歩いていく。
「紅葉していないのはちょっぴり残念だけど、赤や黄の中に混じっていたら、緑の葉っぱも綺麗かも」
 彼女がぽつりとそう言うと、設楽は意外にも軽く頷いて同意した。
「ああ、そうだな。色んな色の葉が見られるのはいい。どれもとても綺麗だ」
 直後ふっと設楽の口元が緩むのを見ながら、彼女は思わず安堵の溜息を吐いていた。もし『紅葉してない木があるなんて台無しだ』などと言われたらどうしようと思っていたからだ。よくよく考えれば、自然を自然のまま愛する設楽がそんなことを口にするはずもないのだけれど、設楽の反応が得られるまでは、いつもどぎまぎする。この時だけではない、いつもそうだ。
 設楽の瞳は、未だ青々として風にそよぐ葉を映していた。尖ることの多い口元を緩ませ、実に晴れやかな表情で木を見上げる設楽。その瞳には全ての自然に対する慈愛すら満ちているように感じられ、今まで知らなかった一面を垣間見た驚きで、彼女の心はとくんと跳ねる。
「設楽先輩は、秋が好きなんですね」
 表情を窺いながら尋ねると、ああ、と設楽は空気を震わせた。
「一番過ごしやすい季節だしな。美しい紅葉を見るのも好きだ」
 そう語る設楽の声は弾んでいた。まるで遠足前の子供のように。
 その時、一段と大きな風が吹いて、木々の葉が大きく揺れた。地面の落ち葉が一斉にざわめき、紅葉した葉が枝を離れて空中を舞う。
 その中で、今見上げている木からも、一枚の葉が揺られながら落ちてきた。設楽はあ、と声を上げて、無意識かそうでないのか、素早く手を伸ばす。うまく二本の指で挟むように掴んで、まじまじとその葉を見つめた。彼女も後ろからそっと覗き込む。
 その葉は、半分が紅葉しかけの茶色、半分が青々とした緑色だった。まるで季節の移ろいを眺めているような、不思議な気分になる。
「もうすぐ紅葉するところだったんですね、その葉」
「そうみたいだな。でも、まだ青い部分が残ってる」
 付け根の部分を指でくるくると弄りながら、設楽は一瞬表情を硬くし、小さく息を吐いた。
「まるで俺みたいだな。どっちにもなりきれない、中途半端な存在」
 自嘲気味に笑う設楽を見て、彼女はそんなこと、と首を振る。
「でも、設楽先輩は決めたじゃないですか。ピアノを続けるって……この間、音楽室でわたしにそう言ってくれましたよね」
 設楽は葉を指で弄るのを止めて、木々の間から漏れる太陽の光に透かそうとした。
 挫折を味わった中学時代。全てから逃げるようにはばたき学園に入学し、それから三年。ここにはピアノを止めるつもりで入学したと、設楽は語った。けれども結局、止められなかった。ピアノから離れようとするほど執着心は強くなり、引き付けられるように、彼は音楽室に通うようになったという。それまでの彼は、ピアノを続けるか止めるかの狭間で揺れていた。そしてそれを決められずに揺れ動く自分自身を、何よりも嫌悪していた。
「これから、変わればいいんだと思います。その葉の青いところが、だんだん赤く変わっていくみたいに」
 そう言葉にした後で、出過ぎたことを言ったかも知れないと、思わず口をつぐんだ。心配になって設楽の表情を上目遣いに窺うと、設楽は葉を持った手を伸ばしながら、唇の端を歪ませた。
「ふーん。なかなか偉そうなことを言うじゃないか、おまえ」
「あっ、ごめんなさい。そうじゃなくて……」
「分かってる。おまえの言うとおりだ。これから変わればいい――いや、俺は変わらなくちゃいけない」
 その口調は真摯さを帯びていた。彼女はどきりとすると同時に安堵した。設楽は設楽なりに決意を固めている。あの時音楽室で語ってくれた決意が本物であると、改めて実感できた瞬間だった。
「設楽先輩ならきっと、ううん絶対、綺麗な赤い色に染まれると思います」
「不思議だな。おまえに言われると、何故かそんな気がしてくる」
 設楽は表情を緩め、優しい視線を投げて寄越した。その瞳からは全ての迷いを振り切った清々しさを感じた。
「で、おまえは?」
「えっ?」
 突然聞き返されて、彼女は言葉に詰まる。設楽はその葉を彼女の前でちらつかせながら、唇の端に笑みを浮かべて言った。
「おまえも緑色のままなんてことはないだろ? 当然俺と一緒に赤く染まるんだよな?」
「えっと……はい。頑張ります」
「それでいい」
 満足げに微笑んで、葉を大切そうにジャケットのポケットにしまう設楽を見ながら、彼女は考える。設楽がピアノを頑張るように、自分も自分のするべきことをこれから考えて、その目標に向かって頑張る。それを紅葉と呼ぶのならば、先程表明した決意は間違っていないのだけれど。
 ――俺と……一緒って?
 無意識のうちに、心臓の鼓動が高鳴っていく。都合の良い解釈なのかもしれない。それでも今だけは、その幻想に浸っていたい。いつか自分たちの関係が、美しい紅色に染まりますように――彼女は歩き出した設楽の背を追いながら、密かに心の中で願った。
(2010.11.21)
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