「わたしにかまってください」
好意を抱いている相手に、手を前で合わせて上目遣いにそんなことを言われたら、落ちない男などいない――今まさに目の前で繰り広げられたその光景に、設楽は目を一杯に見開いた。直後、みるみるうちに顔に血液が集まってくるのを感じた。
思えば、その日は最初からおかしかったのだ。数日前、自分の家に来ないかと彼女を誘った設楽は、今日彼女の家まで迎えに行った。そこで見たのは、フリルのついた水色のキャミソールに、白いミニスカートを穿いた彼女の姿だった。
季節が夏だとはいえ、彼女は今から設楽の家に招かれる身だ。女同士なら構わないだろうが、相手が異性となると話は違ってくる。以前から彼女はどこか無防備というか、男の内に眠る欲望に鈍感なところがあるというのは気付いていたが、まさかここまでとは思わなかった。無防備にも程がある。理性というものを持っているとはいえ、設楽も一応男だ。呆れると同時に、あまりにも無防備すぎるその姿に、どこか悲しさすら覚えてしまうこととなった。
「お前、そんな格好で……俺を勘違いさせる気なのか?」
彼女をやや睨みながらそう言うと、彼女はきょとんとした表情で小首を傾げた。もしかしたら少しは気付いてくれるのではという、設楽の中に微かに残っていた希望が完全に打ち砕かれ、設楽はわざとらしく溜息をついた。自分の横顔に向けられた彼女の怪訝そうな表情が、更に哀愁をそそった。
部屋に入った時にはまだ、設楽の中に残った理性が今にも溢れそうな感情の波を押しとどめていた。しかしながら、お邪魔します、と小さな声で言いながら設楽の部屋に入ってきた彼女から、設楽は視線を外すことが出来なくなっていた。まだあまり日焼けしていない白い肌、キャミソールから浮き出た設楽のものとは明らかに違う身体の線、そしてスカートから伸びた細い足。それら全てが、設楽の中に眠る何かを呼び覚まそうとしていた。
目を閉じて何度か深呼吸した後、設楽は無理矢理笑みを作って、なるべく彼女の身体を見ないようにしながら言った。
「さあ、これからどうする? ……そうだな、ピアノでも弾こうか」
わざとらしく明るい声を出しながら、彼女から視線を逸らして設楽はピアノに向かおうとした。ピアノを弾いている間は、何もかも忘れてピアノに集中することが出来る。彼女の視線も気にせず、演奏に没頭できる――そう考えてピアノに足を向けた途端、彼女が思いがけない言葉を口にしたのだ。
「ピアノじゃなくて、わたしにかまってください」
設楽は心臓が止まるかと思うくらい驚いた。はっと後ろを振り返ると、彼女は少し恥じらうような表情をしながら、上目遣いに設楽を見つめていた。
その仕草が、完全に設楽の心を捉えた。最後に残っていた理性の欠片が吹き飛び、まともな思考回路が完全に断ち切られる。火照り始める顔。脳内から何かの興奮物質が溢れ出し、設楽の全身をますます熱くさせていった。
「お、お前、それは、どういう意味だ」
「ええと、だからその。ピアノばかりでなくて、わたしにもかまってくださいって……」
「そういうことを聞いてるんじゃない! お前な……」
設楽が半ば怒鳴るような口調で言うと、彼女は目を伏せて少し悲しそうな顔をした。
「あ、あの。ごめんなさい、嫌なら別に……」
「嫌とか、そういう問題じゃない! お前、本当に……本当に分かって言ってるのか? それともただ無防備なだけなのか?」
設楽がぐいと顔を近づけてそう尋ねると、彼女は驚いたように少し後ずさった。直後彼女の口から洩れる、えっ、という間抜けな声。その瞬間、設楽の中の何かが完全に崩れ落ちる音がした。あまりに何も分かっていない彼女に対する怒りに似た感情と、理性のたがが外れたことによる感情の波が大きな渦を作り、設楽の心の中で激しくせめぎ合った。
設楽は更にぐい、と彼女の方へ身を乗り出した。彼女はきゃっ、と小さな悲鳴を上げて、後ろに置かれていたソファの上に倒れ込んだ。
設楽は躊躇うこともなく、その上に覆い被さる体勢になった。その行動がいかに常識から外れたものであるかということを判断する回路は、既に設楽の中から消え去っていた。
「し、設楽、先輩……?」
「お前のせいだからな。自業自得だぞ」
彼女の顎を掴んでくいと顔を上げさせると、彼女は途端に動揺し始めた。
「ど、どうして……」
「まだ分かってないのか。鈍感にも程がある!」
戸惑いの宿った瞳に、設楽は怒りをぶつけた。ずっと我慢させられてきたのだ。少しくらい罰を与えてやっても、咎める者はいまい――
「こんな格好で、あんなこと言って、こうされても文句は言えないってことだよ」
「わ、わたし、そんなつもりで……」
「そのつもりがなくても、お前はずっと勘違いさせるようなことをしてきたんだ」
設楽が熱のこもった息を吹きかけると、彼女は驚いたように目を閉じた。設楽は目を細めて彼女を睨み付けながら、喉元に人差し指を突き付けた。
「さあ、選べ」
「な、何を……?」
「俺から逃げてもう二度と俺に会わないようにするか、それともここに残るか」
それはあまりにも残酷すぎる選択だった。彼女は明らかな恐れを表情に宿らせた。自分が酷いことをしているという自覚はあったが、それを言うなら彼女の方こそもっと酷いことをしているじゃないか、と設楽は開き直った。むしろ、選択肢を与えてやっているだけ自分は良心的とも言える。世の飢えた獣たちは、彼女が否と言えども力ずくでねじ伏せてしまうだろうから。
彼女はしばらく迷ったように視線を彷徨わせていた。その様子が、設楽にはこの上なく愉快だった。今までは自分が彼女に翻弄されるばかりだったが、今回は反対の立場にいる。彼女が自分の言葉で戸惑い、動揺し、迷っている姿が、設楽の優越感を刺激した。
やがて彼女は設楽と視線を合わせると、不安そうな表情ながらもその答えを告げた。
「わたし……ここに、残ります」
予想外の言葉に、設楽は思わず目を見開いていた。彼女に逃げられる覚悟で臨んだのに、まさか残ると言われるとは思わなかったのだ。思いの外動揺してしまっている自分に気付き、設楽は思わず心の中で舌打ちした。結局自分は、彼女に翻弄されるがままなのだ。この構図から逃れることはできないのだ、と。
「お前……本当に、いいのか?」
「はい。……だめですか?」
設楽はなるたけ優しく、彼女の頬を指でなぞった。ふっくらとした弾力のある肌が、設楽の触覚を存分に刺激した。
「駄目なんて、誰が言ったんだ」
急に愛しさが込み上げ、設楽は彼女の頬を撫で続けた。彼女も嫌がる素振りは見せず、じっとされるがまま、設楽の顔を見つめていた。
設楽の中の何かが、急速にしぼんでいく音がした。今まで昂ぶっていた気持ちはどこへやら、急に穏やかな気持ちになって、彼女をどうこうしようという気が完全に失せてしまった。
設楽はゆっくりと身体を起こし、彼女から離れた。急に襲ってきた気恥ずかしさに耐えかねて顔を背けながら、設楽は怪訝な表情で自分を見上げる彼女に言った。
「さっきは……悪かった。忘れてくれ」
「先輩……?」
「だが、次はないぞ。次もこういうことがあったら……覚悟しておけ」
「は、はい」
自分たちはまだ、互いの想いすら交わしていない。いくらかっとなったとはいえ、これ以上の行為に及ぶことはできないと判断した。設楽は自分の顔がますます赤くなっていくのを感じながら、ピアノの前まで歩いて行き、適当に鍵盤を鳴らした。綺麗な和音が耳の中に吸い込まれていく。少しばかり罪悪感から解放されて、心が軽くなった気がした。
「お詫びの印だ。一曲聴いていけ」
「あっ、はい」
彼女は少し乱れた服装を整え、ソファに座って目を閉じた。
設楽は胸を締め付けるような切ない思いに囚われながら、それを吹っ切るかのように、ピアノに向かって指を動かし始めた。