プラネタリウムに行こう、と言い出したのは彼女の方だった。
七月になり夏休みに入ってからすぐ、設楽は日本に帰国した。それは留学前彼女と交わした約束の一つでもあったし、何より設楽自身が一刻も早く彼女に会いたかったというのもある。夏休み前の最後のレッスンが終わるなり設楽は急いで下宿先に戻り、素早く荷造りを済ませてパリを発った。
久しぶりに会った彼女は、入学してから早三ヶ月、もうすっかり大学生らしくなって、最後に会った時よりも少し大人びたように感じられた。その変化を新鮮にも、またどこか寂しくも感じつつ、設楽は彼女と久々の再会を喜び合った。
そうして帰国してから数日経った今日――七月七日。平日なので彼女は講義があると言ったが、その日は早く終わるらしく、終わってからプラネタリウムに行かないかと設楽を誘ってきたのだ。
「なんでプラネタリウムなんだ? 別にいいけど」
「ちょうどイベントをやってるって聞いたんです。七夕の」
「はあ? 七夕?」
設楽が思わず聞き返すと、電話越しに驚いたような声が返ってきた。
「えっ……聖司さん、七夕知らないんですか?」
「……知らないなんて誰も言ってない。俺を非常識人扱いするな」
彼女の物言いを不本意に思いながら怒ったように言い返すと、彼女はすみません、と小さな声で謝った。確かに自分は幼い頃から頻繁に外国へ行き、現地の文化に触れてきたせいもあって、普通の日本人とは違った感覚を持っている一面があることは認めるが、七夕を知らないほど無知ではない。
「じゃあ、七夕の伝説は知ってますよね。織姫と彦星の」
「まあ、ある程度は」
「七夕の日はそれを特別に解説してくれるんだそうです。だから是非聞きに行きたいなって。だめですか?」
彼女の頼み事は断れない。ましてや帰国後、一番彼女と会いたい時期だ。設楽はすぐに承諾した。
「ああ、いいぞ。じゃあ講義が終わる時間、大学まで迎えに行く」
「はい。じゃあ、待ってます」
電話越しに彼女の嬉しそうな声が聞こえ、それを名残惜しく思いつつも、設楽は電話を切った。まだ彼女と付き合っていなかった頃、デートに誘ったり誘われるたびに感じていた高揚感を思い出した。今心の中にあるのは、あの時と同じ感覚だ。自分はどれだけ彼女に飢えていたのだろうと、設楽は内心苦笑する。
だがこの高揚感は悪くない、と思った。彼女に会うことそれ自体を嬉しく思えるのは、純粋に喜ばしいことではないか。
「明日まですぐ時間を進められるような魔法でもあればいいんだけどな」
そんな子供の夢物語のようなことをぽつりと呟いた後、設楽は自室で一人こっそりと笑った。
「良かったですね、七夕伝説」
解説の声が終わりを告げ、中央の機械から放たれていた光が小さくなる。プラネタリウムの会場がほんのりと明らみ、徐々に人々が出ていく中、未だ身体を寝かせて球体の天井を見つめたまま、彼女はそう言った。設楽は身体を起こして、彼女を見ながらああ、と頷いた。
「そうだな。悪くなかった。まあ小さい頃に何度か聞いたことがある話だったけどな」
「でも、改めて聞くと、小さい頃とは違って……なんだか、感情移入しちゃいました」
「感情移入?」
設楽が怪訝そうな顔をすると、彼女は身体を起こして頷いた。
「織姫の気持ちが分かるなって思って。愛し合ってるのになかなか会えなくて、辛いって思う気持ち……」
「お前……」
彼女のしみじみとした言葉に、設楽の心に暗い影が落ちる。
設楽は自分の夢を追うため留学を決意し、そのことについては何の迷いもなかったが、ただ一つ心残りなことがあった。他でもない、日本に残す彼女のこと。思いが通じ合ってやっと一緒になれたのに、すぐに彼女と離れ離れにならなければならないことは、設楽にとっても耐えがたい苦痛だった。
急に後ろめたいような思いにとらわれ、設楽が視線を逸らすと、彼女は打って変わって明るい声を出した。
「でも、悲しくはないんです。離れていても、相手が向こうで頑張ってるんだって思えば、わたしも頑張れるから……」
たまらなくなって、設楽は身体を乗り出し、隣に座っている彼女を抱き締めた。頭の後ろに手を回して髪をくしゃくしゃと撫でると、彼女はきゃ、と小さく声を上げた。
「俺たちは年に一回じゃないだろ。これから夏休みの間は、ずっとお前に会える」
「はい」
彼女が小さく頷いたのを確認した後、設楽は言葉を続けた。
「けどまあ、俺も彦星の気持ちが分からないでもない。向こうでピアノ弾いてても、何してても、いつもお前の顔が浮かんでしょうがなかったからな」
「聖司さん……」
彼女が驚いたように、しかし少し嬉しそうに言葉を発するのを、設楽は聞き逃さなかった。彼女を抱き締める腕に力を込め、温もりを逃すまいとしながら、設楽は再び口を開いた。
「その分、今日からはずっとお前と一緒だ。一時も離すつもりはないから、覚悟しろ」
「はい」
腕の中で、彼女はもう一度頷いた。言葉と共に洩れ出た彼女の吐息が喜びに溢れていたのを、設楽は確かに感じ取っていた。
会場を出ると、外でも七夕のイベントがあちこちで行われていた。七夕にまつわる展示や、七夕伝説の更に詳細な解説、七夕伝説に関連する星の解説など、二人で一通り見て回った後、入口付近に来たところで、彼女があっ、と声を上げた。
「あそこ……笹の葉と短冊がありますね」
「ああ、願い事を書くとかいう?」
「はい。せっかくだから書いて行きませんか?」
彼女の提案を却下する理由もなく設楽は承諾し、二人は色とりどりの短冊で飾られた笹のところまで歩いて行った。笹の側の机の上には短冊とペンが置いてあり、入場者が自由に短冊をつるすことができるようになっていた。
それぞれに短冊とペンを手に取った後、設楽は顔をしかめて彼女に尋ねた。
「なあ、これはどういうことを書けばいいんだ? お前が先に手本を見せろよ」
「うーん。そうですね、じゃあ……」
彼女は悩みつつといった様子でペンのふたを取り、しばしペン先を空中で泳がせた後、机の上で何か書き始めた。設楽がそれを横から覗き込む。
“ずっと聖司さんと一緒にいられますように”
「お前……」
設楽が驚いた表情で彼女を見つめると、彼女は短冊を持って微笑んだ。
「今のわたしの、一番大きな願い事です」
設楽はたまらない気持ちになった。気持ちが高ぶると同時に思わず手を伸ばし、彼女の短冊を指先で掴んでいた。
「……よし、それ貸せ」
「えっ? あっ……!」
彼女が驚いている間にそれを奪い取ると、設楽は机に向かってペンを動かした。彼女が大きく書いた字の横に、少し小さめの字で、四文字。
“右に同じ”
「聖司さん……」
「お前の願いは、俺にとっても同じくらい大きいってことだよ」
設楽が短冊を見せながら小さく笑うと、彼女も徐々に嬉しそうな表情を見せた。
「ふふ、嬉しいです。じゃあ、つるしましょうか」
彼女が少し背伸びをして、空いていた上の方に短冊をつるした。つるされたばかりの短冊がゆらゆらと揺れるのを見ながら、二人は書いた願い事を何度も読み返した。ずっと一緒にいられますように。ありきたりな願い事ではあるが、何よりも大切な願い事だ。それは離れて生活していた自分たちが、一番良く知っている。
「叶うといいですね。願い事」
「“叶うといい”じゃない。自分たちで叶えるんだ」
「ふふ、そうですね」
微風に揺れる短冊を見つめながら、二人は終始幸せそうな笑みを浮かべていた。
「この後、時間あるか?」
「はい、大丈夫です」
「なら、夜まで付き合え。外に出て、その年に一度の逢瀬とやらを見てやろうじゃないか」
それがただの口実であるということくらい、きっと彼女も分かっているはずだ――思いを込めて設楽が目配せすると、彼女は一瞬驚いたような表情をした後、にこりと笑って頷いた。
それを確認してから、設楽は彼女の手に自分のそれを絡め、歩き出した。決して離さないとでも言うように、ありったけの思いと力を込めて。