その日、設楽聖司はすこぶる不機嫌であった。
常にしかめ面で近寄りがたい雰囲気を放っている設楽だが、今日はまるで爆発寸前の爆弾のように、少しでも触れれば癇癪を起こしそうな空気すら漂わせていた。廊下の真ん中を遠慮無しに歩く設楽を、生徒たちが恐怖におののくように避けて行く。普段はそんな彼らを気に掛けたことなどなかったが、今日ばかりは何もかもが設楽の気に障った。
彼女は昇降口にいた。靴を履いて外へ出ようとしている彼女を、設楽は不機嫌そうな声で呼び止めた。
「おい」
彼女が振り向いて、直後驚いたように目を見開く。
「設楽先輩。どうかしたんですか?」
「どうかしたんですか、じゃない」
設楽は苛々とした動作で髪を掻き上げると、胸の前で腕を組んだ。
「お前の噂、今日でもう五回は聞いたぞ」
「わたしの、噂?」
彼女は何のことか分からない、といったように首を傾げた。設楽はわざとらしく溜息をつくと、その忌々しい噂について解説してやった。
「あちこちで男どもが噂していた。お前のことを『お嫁さん候補No.1』だと」
「お、お嫁さん……?」
彼女は口をあんぐり開けて、信じられないという表情をしていた。本当にその噂を知らなかったらしい。設楽にとっては頻繁に耳にした噂なのだが、こういう噂は案外本人のもとには届かないものなのだろう。
設楽の不機嫌の原因はまさにこれだった。最初は音楽室にピアノを聴きに来ただけの、ただの一年後輩の女子。けれども次第に、設楽の中で大きな存在となっていった彼女。その彼女が、学校中で噂となっている。噂の発端はほぼ男子で、『あの子可愛い』だの『優しくて惚れそう』だの、設楽の嫉妬心を刺激するには充分な言葉を持って。
挙げ句の果てには嫁候補No.1ときた。可愛いと言われているだけならまだ許せるが、これにはさすがに我慢がならなかった。今まで才能以外の望むものをほぼ全て手に入れてきた設楽にとって、己の今最も望むものが外部の人間によって侵食されようとしているこの事態を、黙って見過ごすことなどできなかった。
「お前、もうあまり目立つな。……敵が増えるだろ」
苛々とした口調で言い放つと、彼女は少し困ったような表情になった。冷静に考えてみれば彼女の反応は当然だ。自分は目立ちたいと思ってしているわけではないのに、勝手に男子の間で噂になって、挙げ句設楽にこれ以上目立つな、などと言われてしまっているのだから。それは設楽も頭の中では理解していたが、今はそれよりも苛々の方が大きすぎて感情を制御することができなかった。
彼女は少し俯いて考えるような仕草をした後、顔を上げて設楽を見た。だがその後彼女の口から飛び出したのは、予想外の言葉だった。
「でも、先輩も人のことは言えないと思いますけど……」
設楽は大きく目を見開いた。従順に項垂れてはい、と頷くでもなく、嫌ですと拒否するでもなく、彼女は反撃に出てきた。設楽はほう、と言いながら、挑発的な視線で彼女を上から睨み付ける。彼女はやや遠慮がちに佇んでいたが、設楽から視線を逸らすことはしなかった。
「どういう意味だ? それは」
「だって、わたしのクラスの女の子たち、みんな先輩のこと噂していますよ。ピアノを弾く先輩はすごく格好いいとか、先輩のピアノの音がとても素敵だ、とか……」
「それがどうした」
「これって、わたしのその、お嫁さんがどうとかっていう噂と一緒じゃないですか? 敵が多いって言うなら、わたしも同じだと思うんです」
設楽は目を見開いた。確かに校内で自分を見てやたらと騒ぐ女子や、遠くから情熱的な視線を投げかけてくる女子がいること自体は気付いていたが、幼い頃から設楽の周りにはその類の人間が飽きるほどいたから、大して気に掛けたことなどなかった。けれども指摘されてみれば、確かにそうだという気もしてくる。
納得しかけたところで、設楽はふと違和感に気付いた。改めて彼女の言葉を反芻する。
彼女は自分にも敵が多い、と言ったが、彼女は何をもってその女子達を敵と表現したのだろうか。もしそれが、設楽と同じ理由ならば――
そこまで考えたところで、設楽の思考回路がぷつりと切れた。頬がみるみるうちに赤く染まる。この変化を悟られまいと、設楽は思わず顔を逸らした。焦りに似た高揚感と、悔しさに似た感情が喉元にせり上がってきた。
「そ、それとこれとは話が違うだろ! ……とにかく、お前は目立たないようにしていればそれでいいんだ。分かったか?」
「じゃあ、設楽先輩ももう校内でピアノを弾かないって約束してくれますか?」
「なっ……」
思わず背けた顔を戻したところで、彼女の真っ直ぐな視線とぶつかる。う、と呻いて後ずさりしそうになったが、金縛りにあったかのように身体が動かなくなってしまった。それでもなんとか力を振り絞って、反撃の言葉を口にする。
「うるさい。俺がピアノを弾こうが弾くまいが、俺の勝手だろ」
「じゃあ、わたしが普通に生活しているのも、わたしの勝手ですよね」
「なっ、お前……!」
思わずかっとなりかけたところで、設楽は溜息を吐いて冷静さを取り戻そうとする。そもそもこんなところで張り合って何になると言うのだ。頭が冷えたところで、急に虚しさが襲ってくる。
しかし、と設楽は思った。出会った当初は他の生徒達と同じように、自分に対してやや怯えたような表情を見せていた彼女が、これほどまでに反撃してくるようになったのは、自分の皮肉に鍛え上げられたおかげなのか。その様がまた皮肉に思えて、設楽は内心苦笑を洩らした。
相変わらず自分に向けられた彼女の視線を痛いほどに感じつつ、設楽は再び大きな溜息を吐いた。
「まあいい。とにかく……あんまりその、他の男に色目使ったりするなよ」
「最初からしてません。設楽先輩……も、してないですよね」
「するか、バカ。余計な心配するな」
「ふふ、良かった」
すると彼女は一転して笑顔になり、にこにこと設楽を見つめた。唐突な笑顔に咄嗟に対処することが出来ず、設楽の身体中の温度が急速に上昇していく。
こういう彼女の素直な反応を苦手だと思う一方で、どこかその反応を望む気持ちもあった。相反した感情が心の中に同席していることに気付いて、設楽は激しく動揺した。同時にこんなに彼女に心揺らされている自分が、情けなくも腹立たしくなった。
「ふん……じゃあな!」
設楽は二人の空気を強引に断ち切るかのように別れの言葉を言い放ち、身体を翻した。これ以上彼女の笑顔を見ていたら、自分がおかしくなってしまいそうだった。
廊下を歩きながら、先程と同じような苛ついた雰囲気を漂わせつつも、しかし設楽の感情は穏やかだった。荒れ模様だった心は落ち着いて、穏やかな波を送り出す海へと変化を遂げていた。
心が変化するのと同時に、彼女の噂話をする男子の声で埋まっていた設楽の脳内は、いつの間にか彼女の言葉ばかりを反芻する機械に成り代わってしまっていた。