彼女は原因不明の熱病に冒されていた。全身は既に熱く火照り、体内の水分は焼け石にかけられた水のようにみるみるうちに蒸発していく。喉をかきむしってあがいてみても一向に良くなる気配はない。彼女は荒く息をつきながら、手を伸ばしてひたすらに水分を求めた。
視界の奥に、ぼんやりと見慣れた姿が映る。その途端きゅうと胸が締め付けられ、再び体温が上昇し始めた。彼女は熱病の原因が何であるかを、この時はっきりと悟ったのだった。
金縁の赤い椅子に座り、癖のある髪を手で掻きあげつつ、すらりと伸びた足を組んで目の前に置かれたフルーツに手を伸ばす彼の姿は、一種の芸術品にすら見えた。彼女は力を振り絞り、彼の方へ足を引きずりながら歩いて行った。
彼は彼女の姿を認めると、怪訝な顔をした。手にしたばかりの真っ赤なチェリーを口に放り込みつつ、その場で倒れ込んだ彼女を見下ろしながら言った。
「何か用か」
「先輩……」
喉がからからに渇いているせいで声がかすれて出ない。それでもなんとか助けを求めようと、彼女は手を伸ばした。
「のどがかわいて、しにそうです……」
この熱病は、彼女の涙すらも奪ってしまったようだった。惨めな姿に心を締め付けられながら、彼女は彼の言葉を待った。
「……ふーん」
興味のなさそうな口調に絶望を覚えていると、彼はおもむろにフルーツの載った銀の皿からオレンジを掴み取り、再び彼女を見下ろした。
「そこに跪いて、口開けてろ」
何が始まるのか全く見当がつかなかったが、彼女はもはや言う通りにするしか選択肢はなかった。
膝を折り、彼に向かって力の限り口を開けると、突然無数の酸っぱい汁が顔に向かって飛んできた。かすれきった声で悲鳴にならない悲鳴を上げ、反射的に閉じてしまった目を開けると、彼が満足げに笑いながら皮をむいたオレンジを握り潰しているのが目に入った。
「ほら、お前の好きなオレンジジュースだ」
彼が指と指の間で果実を握り潰すたび、彼女が何よりも切望した水の粒が喉に向かって落ちてきた。それを僅かでも落とさないように、口を一杯に開いて受け止めた。けれども鮮やかな橙色の粒は、頬にも髪にも容赦なく降り注ぐ。目に入らぬようにと一旦閉じた目をうっすらと開け、そこにサディスティックな笑みを浮かべた彼の表情を認めた時、彼女は僅かな悲しみと、膨れ上がる愛しさを自覚せずにはいられなかった。
豪雨のように降り注いでいたのがやがて止まり始めた時、彼女は切なげに瞳を揺らした。
「先輩、もっと……ください……」
「もうない。あとは残り滓だけだ。それより」
果汁を振り絞ってぐちゃぐちゃになってしまった果実を素早く脇に捨てた後、彼の双眸がすっと細められる。
「お前のせいで、世界に一つしかない俺の大切な指が汚れた。どうしてくれる」
責めるような口調で言うやいなや、突然その指を彼女のだらしなく開いたままの口に突っ込んできた。急なことにとっさに反応できず、彼女は苦しげに呻く。
「舐めて綺麗にしろ」
彼女は肩を上下させながらも、それに従った。一番長い中指から、丹念に舌で舐め回していく。時折しゃぶりつくように、時折舌先でくすぐるように、彼の果汁だらけの指を唾液で洗い流していく。やや角ばった、しかし白くて綺麗な彼の指。舌を動かすたび、果汁の味と一緒に、ほのかに甘い香りが漂った。
「せんぱいのゆび、あまいです……」
視線を上げて彼の表情を窺うと、彼は僅かに動揺したように見えた。
「何を言ってるんだ。オレンジの汁が付いてるんだから、当然だろ?」
「それだけじゃなくて……先輩の味がします」
彼はびくりと指先を震わせた。その後で怒ったように、まだ舐め終わっていない部分を口の中に押し付けた。
「ほら、ここ、まだだぞ。早く舐めろ」
「はい」
微笑みすら浮かべながら、自分の唾液で彼の指を侵食していく。
彼女はいつの間にか、自分を苦しめていた熱病から解放されていることに気付いた。