「うっ……!」
呻くと同時に、設楽は水の中に放り出された。
全身で必死になってあがくも、ますます水の渦に巻き込まれてゆくばかり。慌てたせいで一気に口から泡を放出しきってしまい、急激に酸素が欲しくなった。水中から見える天井の光に手を伸ばして、なんとか這い上がろうと試みたが、既に身体からは力が抜けてしまっていた。足が伸びてしまって動かない。指先が冷たすぎて、水をかこうとする力すら届かない。
呼吸がしたい。酸素が足りない。それらの欲求は全て、言葉にならずに水泡となって消えていった。地上に立っている間は己の才能で周りの人間を魅了させることも、財力に物を言わせて行動することもできたけれど、水中ではどうしようもなく独りで無力なのだということを、設楽は嫌というほど思い知ったのだった。
鋭い笛の音が、水中で歪められて設楽の耳に届く。設楽にはその音が、終焉のホイッスルに聞こえた。目を閉じて、死を覚悟する。こんなぬるま湯のような水の中で死ぬのは吐き気がするほど嫌だったが、今の設楽にはその嫌悪感をエネルギーにして這い上がろうとする気持ちすら、既に失せていた。
ざぱん、という水の跳ねる音が遠くで響く。その音と同時に、設楽の意識は遠い場所へと連れて行かれてしまったのだった。
水に入る気などさらさらなかった。そもそも温水プールに来たのだって、何も泳ぎに来たわけではない。
行きたくない場所なのに行きたくて仕方ない、という激しく矛盾した思いを抱えながら、運転手に命じてはばたきプールに来たのが数時間前のこと。設楽は入り口の前に立ち、水着の入った袋を抱えながら、顔を歪めて看板の字を追った。『プール』、という三字に溜息をついた後、入館料を払い、中に入る。
着替え終わりプールサイドに足を踏み入れた設楽は、真っ先に点在している監視員へと目を走らせた。一番最初に目に付いたのは、流れるプールの近くにいる一人の男子。確か同じはば学に通っている柔道部の男だ。瞑想にちょうど良いからと言って、自分のピアノを聴きに来たことがあるから覚えている。設楽は人の顔や名前を覚えるのが得意ではなかったが、彼女と同じクラスだからということで、彼のことはやけにはっきりと覚えていた。
だが、今日の設楽の目当ては当然ながら彼ではない。もう少し視線を動かすと、水色のフリルのついたビキニの上に白いシャツを羽織り、子供たちと笑顔で話している女子の姿が目に入った。設楽の心臓が僅かに跳ねる。親と手を繋いだ子供がもう片方の手を振ると、彼女は嬉しそうに振り返していた。
自分の今の複雑な心境とは裏腹に楽しそうな彼女の横顔を見ていると、急に取り残されたような虚しさに襲われ、設楽は思わず舌打ちした。自分はこんな気持ちなんか大嫌いで、なるべくならなりたくないと避けて通ってきたはずなのに。そうなることが分かっていて敢えてここに来たなんて、自分はマゾ以外の何物でもないじゃないか――
設楽は忌々しげに溜息をつきながら、持ってきた音楽理論の本を片手に、プールサイドのデッキチェアに移動した。横になって本を広げながら、設楽は未だ眉を顰めていた。本を読むだけなら、何もこんな騒がしい場所に来る必要などない。むしろここは本を読む環境としては最悪の場所だ。水しぶきが飛んできて大切な本が濡れる可能性もあるし、人々のきゃあきゃあという奇声がやかましいし、いいことなど一つもない。それでも設楽には、ここにいなくてはならない理由があった。いなくてはならない、というのは設楽の理屈であって、誰に押しつけられたわけではないのだけれども。
栞の挟んだ箇所を広げながら、設楽は本の間からこっそりと彼女の様子を窺った。彼女は周囲を見回し、危険に陥っている客がいないか確認しているようだった。設楽は小さく息を吐き、再び文章に目を走らせる。けれども内容はほとんど頭に入ってこない。たびたび視線を上げるので、自分がどこまで読んだかこの短時間に忘れてしまうほどだ。そうしているうちに、思考はだんだん違った方向へと向かっていく。
そういえば、本当に溺れた人間が出た時、彼女は一体どうするのだろうか。プールに飛び込んで助けるのは当然だが、その後の処置はどうするのか。もし溺れた人間が水を飲んでいて目を覚まさなかったら、息をしていなかったら、その時は一体どうするのだろう。
ジンコウコキュウ、という保健の時間に出てきた単語が唐突に浮かんで、設楽は思わずはっとした。確か教科書にやり方が書いてあった気がする。教室に響く騒音の如き体育教師の大声を煩わしく思いながら、その時は流し見する程度で特に気にも留めなかったが、よくよく考えると大変なことではないか――
設楽は本をデッキチェアの上に置くと、思わず身体を起こして立ち上がっていた。本当は彼女に気付かれないように来て帰るつもりだったが、こうしてはおれない。設楽は彼女のいる方に向かってプールサイドを歩いていた。彼女は相変わらずあらゆる場所に目を走らせていたが、ふと設楽の存在に気付いて目を丸くした。
「あれ、設楽先輩!? 泳ぎに来たんですか?」
「そんなわけないだろ。それよりお前に聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
小首を傾げる彼女に、設楽は単刀直入に尋ねた。
「お前、人が溺れていたら当然助けるんだよな?」
「はい、もちろん。それが仕事ですから」
「そうか。じゃあその後は……あー、その」
そこで急に設楽の歯切れが悪くなった。彼女の方に向かってきた当初ははっきりと尋ねるつもりだったのに、突然気恥ずかしさが襲ってきたのだ。
「その後は……アレ、するのか?」
「アレ?」
「だから、助けた後……アレ、するんだよな? やっぱり……」
ジンコウコキュウ、という八文字の言葉が喉に引っかかったまま出てこない。聞いてしまえばすっきりするが、同時に何かが終わってしまいそうな気もする。それ以上聞けないままの自分を情けなく思う気持ちと、それでもあと一歩踏み込むことのできない複雑な思いを抱えながら佇んでいると、突然彼女の無線に連絡が入った。
「あっ、はい……はい、すぐ行きます」
彼女は二言三言交わすと、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。
「ごめんなさい、設楽先輩。わたし、呼ばれたので行ってきます」
「あ、ああ……」
設楽は呆然としたまま、早足でプールサイドを歩いて行く彼女を見送った。結局、何も聞くことができなかった。後悔の念に襲われつつも、別にいいか、と設楽は高い天井を仰いで息を吐いた。
その後デッキチェアの方に戻っても良かったのだが、設楽は何を思ったか側にあった流れるプールに近寄っていた。そっとしゃがんで、手を付ける。相変わらずの生温さで、設楽はしかめ面をした。こんなところで遊んで何が楽しいのだろう。水泳が苦手で、かつあまり水に濡れたくない設楽にとって、海やプールはただの地獄でしかない。
それでも何故か設楽は、プールサイドに腰掛けて流れるプールに足を付けていた。膝裏まで生温かい水に浸かる。ちゃぷちゃぷという水の音に耳を傾けながら、設楽は彼女の行ってしまった方向へ目を向けた。こんなところで働くなんて、何と言う物好きだ――感心と呆れの入り混じった感情を胸の内に宿しながら。それでもまあ、足の感触だけなら悪くないかもしれないと、少しだけ温水プールを見直しながら。
だがその時、不幸にも事件は起こった。
設楽がよそを向いていると、突然背中に何かがぶつかってきたのだ。直後、わっ、という子供の声。子供は足がもつれて転び、大声で泣き始めたが、それよりも大変なのは設楽の方だった。
設楽の身体は完全にバランスを崩していた。前のめりに倒れそうになり、慌てて踏ん張ろうとするも、踏ん張るためのものが何もない。それでも数秒は耐えていたが、ついに限界がきた。
「うっ……!」
設楽は呻くと同時に、流れるプールの中に放り出されてしまった。泳げない設楽は、水の中に放り出されてしまった時の対処法を知らない。ただただむやみにあがくだけで、身体は次第に水の中に沈んでいく。遠くから響く絶望の笛を聞きながら、設楽の意識は遠のいていった。
何か暖かいもので包まれているような感覚が、妙に心地よかった。設楽は身体を横たえたまま、その感触を身体一杯に受け止めようとした。ずっとこうしていたい。ここがどこだか全く分からなかったが、夢なら覚めないで欲しいと願ったくらいだった。
ややあって、唇を塞がれる感覚。温かい空気が胸一杯に流れ込んできて、設楽は快感に身を震わせた。なんと心地よいところなのだろう。まるで天国のようだった。
次第に意識がはっきりしてきて、設楽はゆっくりと瞼を開く。刺すような光に眩しさを感じながら、それに抗って目を開いていくと、眼前に誰かの顔があるのが見えた。その顔は急に近づいてきて、設楽の唇に柔らかな唇を押し当ててきた。
設楽はそこではっきりと目が覚めた。自分の唇に唇を押し当てた人物のこともようやく分かった。設楽が思い切り口の中で声を上げると、彼女は驚いたように仰け反った。
「設楽先輩! 大丈夫ですか!?」
「だ……ッ、ぐっ、がはっ……」
途中で言葉にならず、咳と共に水を吐き出す。彼女はすぐに持っていたタオルを差し出してくれ、設楽はそれで口の周りを拭いた。
「ああ、良かった……設楽先輩が溺れたって聞いたから、いてもたってもいられなくなって」
「俺は……そうか、ああ……」
忌々しい記憶が蘇る。水の中に放り出され、孤独感と無力感を同時に味わうことになったあの記憶。死んだわけではなかったようだが、彼女の前で失態を晒したことには違いない。設楽は悔しさで唇を噛んだ。
「大丈夫ですか? 病院に行った方が……」
「いや、……大したことはない」
本当は肩を上下させなければ呼吸できないほど辛いのに、いつものように強がってしまった。彼女はしばらく心配そうに見つめていたが、それ以上は何も言わなかった。
少し呼吸が落ち着き始めた頃、設楽の脳裏にもう一つの記憶が蘇る。暖かな海のような場所で、身体を横たえ快感に浸っていた記憶。唇を塞がれ、胸一杯に空気を送り込まれた記憶。それが何であるのかようやく頭の中で理解できた時、設楽の顔に急激に血が集まり始めた。
「お、お前、さっき、俺に何を……」
「人工呼吸です。設楽先輩、何度呼んでも目を覚まさなかったから……」
「そ、そうじゃない! さっき、俺の唇に、お前、……ああもう!」
設楽は赤面したまま立ち上がった。怪訝そうな目で設楽を見上げる彼女に苛々し、思いきり睨み付けた。
「後でこの借りは返すからな、覚えておけよ、絶対だぞ!」
「えっ? か、借りって……あの、ちょっと、先輩……!」
彼女の声を振り切って、設楽はプールサイドを走った。走ったら危ないですよ、という暢気な彼女の注意も耳に入らなかった。ただただ悔しくて、気恥ずかしくて、頭が爆発しそうだった。
ようやく更衣室に逃げ込み息を整えたところで、未だ顔の火照りが収まっていないことに気付いた。唇を噛んで感情を抑えようとしても、その行動とは裏腹に体温はぐんぐんと上昇していくばかり。設楽はああもう、と吐き捨てた後、どうしようもなく頭を抱えるはめになったのだった。