わたし、勉強したんです。そう言うと、設楽は衝撃を受けた顔のまま固まってしまった。その反応が小気味よくて、彼女は心の中でこっそりとほくそ笑んだ。
「俺は嫌だ」
設楽は顔をしかめて首を振った。主導権をお前に渡すなんて耐えられないという、彼らしくもありまた子供っぽくもある彼の主張。三年以上彼との付き合いがある彼女にとってその反応を予想することは容易かった。確かにいつもなら彼に主導権を握られてもどうとも思わなかったが、しかし今回ばかりは彼の要求を受け入れるわけにはいかなかった。
初めて設楽に抱かれたのは、彼が留学先のパリに発つ前夜だった。自分のような庶民が足を踏み入れたことのないような高級ホテルに呼び出され、スイートルームの大きなベッドの中で一夜を共にした。
設楽はとても優しかった。最初こそいつもの調子で、なかなかバスルームから出てこない彼女に文句を言ったりしていたが、ぴたりと肌を合わせた瞬間、彼の顔つきははっきりと変わった。身体中を襲う新たな感覚に戸惑いを見せる彼女に、設楽は細かく声を掛けた。
「聖司さんが優しいから、大丈夫です」
そう言うと我に返ったようにはっとしてそっぽを向いたりするのだが、やはり根本の部分は変わらない。彼女の中に初めて侵入した時も、顔色を窺いながら優しく動いてくれた。達してしまった後はいつもの皮肉な物言いに戻っていたが、彼女が胸元に頬を寄せると、何度も何度も大きな手で頭を撫でてくれた。
それが留学の直前。そして今は、夏休みで帰国した直後。
彼女はあの出来事の後、どうしようもない喪失感に苛まれることとなった。設楽に触れられた感触が、彼に付けられた所有印が、何日経っても全く消えない。一日一回送られてくる設楽からのメールを彼女は心待ちにしていたが、それを見る度に余計に設楽が恋しくて仕方がなかった。こんな思いに苛まれるなら、いっそメールなんて送ってこないで欲しい――そんな思考に陥ってしまうほど、彼女は喘ぎ苦しんでいた。
自室のベッドの上で何度慰めても、やはり物足りなさと虚しさが残る。感触だけでは駄目なのだ、設楽から与えられたものでなければ――自分で慰める度に、自分がどうしようもなく設楽を必要としていることを、いやというほど思い知らされてしまったのだった。
夏休みに入るから、あと一週間ほどでそちらに帰る――メールが届いた直後、彼女の中に一つの考えが浮かんでいた。それはすなわち、彼への復讐だった。復讐と言っても、そんな大げさなものではない。ある意味ささやかな抵抗と言っても良かった。自分がどうしようもなく彼を必要としたように、彼がいなければ生きていけない身体になってしまったように、彼もまた同様にこの思いを味わえばいい――そのことを考えると、何故だか彼女の心はうきうきと飛び跳ねるのだった。
そうして一週間、様々な本を読みあさって勉強して、今日。
「聖司さんは座っていてください。パリからここまで、疲れたでしょう?」
設楽は怪訝そうな顔をしながら、ちょうど自分の後ろにあった椅子に座った。すると素早く彼女は動いた。設楽の前に跪いて、彼のズボンのベルトに手をかける。
「ちょっ……おい! 何をするんだ!」
「何って、さっき言ったことです。わたし、勉強したんですよ」
「だから、あれは嫌だって言っただろ! 手を離せ!」
設楽は彼女の手を振り払おうとしたが、彼女はがっしりとベルトを掴んだまま離さなかった。設楽の抵抗に耐えながらベルトを外し、素早くチャックを下げると、既に大きくなったそれが下着の下から存在を誇示しているのが目に入った。上目遣いに設楽を見上げると、設楽は真っ赤になったまま、悔しそうな表情で唇を噛んでいた。
「聖司さん……興奮してくれてたんですか?」
「うるさい、これ以上見るな!」
今度は足の力で彼女を押しのけようとしてきたが、彼女も負けじと抵抗する。
「どうして? わたし、嬉しいのに。久しぶりに聖司さんに会えて、またこの部屋で一緒にいられて……」
偶然にもこの場所は、留学前一夜を共にした時の部屋と同じなのであった。その時のことを思い返すようにしみじみと言うと、設楽の不機嫌そうな表情が少しだけ緩んだ。下着越しにそそり立っているそれを手で包むようにしながら、彼女は俯いて言った。
「……寂しかったんです。ずっと。だって、聖司さんが酷いことをしたから」
「酷いことって……俺は毎日お前にメールしてたじゃないか。何が不満なんだ」
「酷いです。出発する前日に、わたしを抱くなんて」
設楽ははっと目を見開いた後、その時のことを思い出したのか、ますます頬を赤く染めて視線を逸らした。
「あ、あれは……その、なんだ、そんなに痛かったなら、その時そう言え! 俺にはその、加減が良く分からないんだから……」
彼なりの精一杯の発言だったであろう言葉を、彼女は首を振って否定する。
「そうじゃないです。あの時の聖司さん、とっても優しかった。でも、だから酷いんです」
「はあ? 優しいから、酷い?」
「そう。あの後わたし、どうなったと思いますか? 聖司さんがいなきゃ生きていけない身体になっちゃったんです」
さらりととんでもない言葉を口にすると、設楽の顔が真っ赤になると同時に驚愕の表情に変わっていった。
「お、お前、何を……っ」
「だから、今日は逆です。聖司さんも、わたしがいないと生きていけない身体になってください」
言うが早いか、下着をずらしてそのそそり立つ物を解放してやる。手で愛しそうに包み込んで、まずはそのまま下から上へと手を動かすと、設楽の身体がびくりと震えた。てっぺんに息を吹きかけてやると、彼は驚くほど敏感に反応してくれた。
「聖司さん、可愛い……」
「うるさい、やめろ……」
明らかに彼の声に力がなくなっている。彼女はそのまま手を動かすのを何度か繰り返した。筋の部分に指の腹が当たるようにしながら、何度も何度も擦ってやる。時折設楽の表情を窺うと、最初は明らかに眉を顰めて不機嫌そうだったのが、今は何かに耐えるような表情で唇を震わせ、じっと自分の陰茎を見つめていた。
「気持ちいいですか?」
尋ねると彼はそっぽを向いた。
「そん、なわけ、ない……だろ」
言葉と言葉の間に吐き出す息が妙に色っぽいことに気付いて、彼女の心拍数までもが上昇する。何度か擦っている内に、手の平に粘液が付き始めたことに気付いた。確実な、そして逃れようのない証拠。嬉しくなって、彼女は陰茎に口づける。
「嬉しい。聖司さんが気持ち良くなってくれて……」
彼自身が愛おしいのはもちろんのことだが、今は特に彼の身体の一部分が愛おしくて仕方がなかった。設楽はいつの間にか身体を強張らせ、唇を噛み締めていた。
「おまえ、……っはぁっ……そろそろ、やめろ……っ」
最後の力を振り絞るかのように身体を起こし、手で彼女の額の部分を掴む。やんわりとした拒絶。けれども彼女はここで止める気などさらさらなかった。設楽の愛しいそれにちゅ、と口づけて、大きく口を開くと、先端からそれを一気に呑み込んだ。
「んぐ……」
大きくなったそれを小さな口で抱え込むのは大変だったが、彼女はそのまま筋の部分を舌で舐めた。設楽の身体が一段と大きく震えるのが分かった。
「お前、やめろ、ったら……!」
彼女の髪を掴んだ手に力が入る。だがそれは拒絶ではなかった。抗いがたき快感への、些細な抵抗。
「くっ、ふぅッ……だから、離れろって……!」
ぎゅう、と髪を締め付ける力が一層強くなった時。
――彼は達していた。彼女の口の中を、己の劣情でいっぱいにしながら。
溢れて止まらないそれを、彼女は手で拭った。その後でげほっ、と咳き込む。近くに置いてあったティッシュペーパーを数枚取りながら、白濁液で汚された口内を拭う。
「っ、やっぱり苦いんですね、本当に……」
「なんだよ……自分からしておいて、人のものに苦いとか言うな」
「でも、いいんです。聖司さんがすごく気持ち良くなってくれたって分かったから」
最後に付いていた頬の粘液を拭き取りながら、彼女は微笑みを浮かべた。設楽は赤面してそっぽを向いてしまったが、今の彼の表情は、『悪くない』と評価を下す時の顔、そのままだった。
「じゃあ、わたし、今日は帰ります。明日早いので」
後始末が済んだ後、彼女は早々にバッグを持って立ち上がった。設楽が驚きに目を見開く。予想できた反応だが、こうまで素直に反応してもらえるとおかしくて、笑いをこらえるのに必死だった。
「な、なんだよ、このまま帰るつもりなのか? 俺を放っておいて?」
「だから、さっき気持ち良くしてあげたじゃないですか。明日本当に早いので、今日は失礼します」
「次は? 次はいつ会えるんだ。明日か?」
やや不機嫌そうな口調でそう言う設楽を可愛らしいと感じつつ、彼女は冷酷にも首を横に振る。
「いえ、今週一週間は無理です。わたし、サークルの合宿があるんですよ」
何気ない口調でそう言うと、設楽は目を丸くした。
「はあ? 合宿って……聞いてないぞ」
「ごめんなさい、言い忘れてました。五日間長野に行くので、その間は聖司さんには会えません」
唇の端に僅かに微笑みすら浮かべつつ、そう言い放つ。設楽はあまりに驚きすぎて言葉を失ってしまったようだった。これで少しは復讐できたかな、と彼女は心の中でそっと笑う。あんなことをした後で五日間自分と離れて過ごせば、きっと痛いほどに感じてくれるはずだ。自分のいない喪失感を。そうであればいいな、と少しばかり希望を滲ませつつ、目的を果たせたことに満足感を覚えていた。
では、と短く別れの挨拶をし、扉のノブに手をかけたところで、彼女は振り返ってとどめの一言を放つ。
「あ、そうだ。その合宿、テニスサークルの合宿なんです。だから明日から、紺野先輩と五日間一緒なんですよ」
紺野、という名前を出した途端、設楽の表情が明らかに変わった。反応は思った以上に早く、設楽はすぐさま椅子から立ち上がってこちらに歩いてくる。出て行こうとする彼女の腕をぐいと掴み、こちらに向かせると、睨むような目で見ながら押し殺した声で尋ねてきた。
「おい、それは本当か?」
「本当です。なんなら紺野先輩に電話して聞いてみますか?」
ポケットから携帯を取り出そうとすると、設楽の手に強く引っ張られて携帯がこぼれ落ちた。直後痛いほどに強く抱き締められて、呼吸ができなくなる。
「聖司、さん……痛い、力入れないで……」
「お前、俺をあまりからかうなよ。せっかく日本に帰ってきてやったっていうのにこの仕打ちは何だ。今日は絶対に帰さないからな」
「こ、困ります。明日、早いのに……」
「ああ、もっと困ればいい。明日から長野に行くって言うなら俺も付いていってやる。お前に悪い虫がつかないか、監視するためにな」
言葉と共に意地悪な笑みがこぼれて、ああ、自分はやはり彼には勝てないのだと知る。自分のしたことは、本当にささやかで短時間の復讐だった。けれどもこうしている時間が、どうしようもなく幸せなことに気付く。
甘い口づけを落とされて腰の力が抜けていく。唇から全身に心地よい痺れが回るのを感じながら、彼女は熱くなり始めた身体を設楽へと委ねた。