電話を切ってから、気付く。
自分が何の躊躇いもなく、彼女の提案を受け入れていたことに。
『明日、森林公園に行きませんか? 紺野先輩と三人で』
紺野の名前が出たところで一瞬顔をしかめたものの、設楽は先に承諾の言葉を口にしていた。直後、やったあ、という彼女の嬉しそうな声が電話越しに響く。その声が聞きたくて、設楽は無意識に電話を耳にきつく押し当てていた。ともすると電源ボタンが押されて、電話が切れてしまうのではないかと思うくらいに。
「……くそっ」
電話を切って数分、既に暗くなったディスプレイを未練がましく見つめながら、設楽は溜息を吐いて舌打ちした。自分はまだ、心のどこかで彼女から電話が掛かってくることを切望している。『やっぱり二人で行きましょう』、有り得ないことだと分かっているのに、そう言ってくれることを期待して。
設楽は首を振って携帯のボタンに指を添えると、電話帳から紺野のメールアドレスを引っ張り出した。未だぎこちない手つきで、紺野へのメールを打つ。途中何度も何度も指が止まって、そのたびに自分を叱咤しなければならなかった。紺野に連絡するのを忘れたと言って彼女と二人で出掛けられたならどんなにいいだろう。けれどもそれは誰のためにもならない。彼女のがっかりする顔を想像しただけで、設楽の背に悪寒が走った。
今、自分の世界の中心にいるのは何だと問われたら、間違いなく彼女だと答えるだろう。設楽の生活はいつの間にか彼女中心に回り始めていた。彼女が笑顔になってくれること、そればかりを考えるようになった。とことんまで自分本位であった過去の自分が嘘のようだ。だから行きたくもない三人の外出に付き合うような真似もしている。今までの自分なら、面白くなさそうだと僅かでも感じたら即拒否していただろうに。
もし相手があの紺野や他の人間なら、そうすることに抵抗など感じない。だが相手はあの彼女だ。彼女の顔が梅雨の曇天のように暗くなることを考えると、どうにかしてそれを回避せねばとばかり考えてしまう。それが良い傾向なのか果たしてそうでないのか、設楽にもさっぱり分からないのが厄介なのだが。
紺野への素っ気ない一行メールを打ち終わったところで、送信ボタンに指が伸び、直後引っ込められる。まだ戻れる。そんなことばかり考えている自分が嫌になって、設楽は半ば自棄になりながら送信ボタンをきつく押した。送信画面が出て『送信完了』の文字が出た時、設楽は脱力してベッドに倒れ込んだ。何もかもが終わったような気がした。
数分後、携帯電話が振動し、メールが来たことを告げる。相手は勿論紺野だった。
『お誘いありがとう。明日、楽しみだな。設楽もだろ?』
「ふん、何が」
余計な一文がくっついていたことに不快感を顕わにし、設楽は顔を歪めて吐き捨てる。紺野はいつも余計なことばかり言う。設楽の心の内を探るような真似をする。あれこれ詮索されるのが嫌いな設楽にとって、紺野の問いはいちいち苦痛でしかなかった。設楽は彼女のように鈍感ではない。紺野の想いがどこに向いているか、紺野が何故設楽に様々な問いを投げかけるのか、それくらい見当が付いている。
それでも一緒にいるのは、彼女が繋ぎ止めてくれているからだろう。彼女が間にいなければ、とっくに紺野の前からは去っている。否、自分はあるいは紺野にも、離れがたい何かを感じているのかもしれないが――そこまで考えて、吐き気がした。そんなはずはないと首を振って否定したかった。
あの温水プールのような気持ちの悪いぬるま湯に、自分はいつまで浸かっているつもりなのだろう。気持ち悪い、早く逃れたいと思う一方で、あの空間には離れがたい何かを感じる。糸か何かで束縛されているというのではなくて、自分の心が相反する二つの想いを抱えて戸惑っている。自分の思いが自分でコントロールできなくなるのは、中学二年のあの敗北感を味わった後以来で、フラッシュバックを起こした設楽は眩暈がした。
早く眠りに就くに限る。起きていれば、ますます余計なことを考えてしまいそうだから。
設楽は電気を消すと、布団をかぶって部屋の暗闇を睨み付けた。閉じたばかりの携帯電話の光が僅かに漏れている。忌々しい光だ、と思った。雲の間から差す一条の光のように希望を与えるのではなく、設楽の心を鋭い刃で切り裂いてずたずたにしてしまう。設楽は布団を顔までかぶった。きつく目を閉じてみるが、心のもやもやが喉元にまで押し寄せてきて、息苦しくて眠れない。
「……一体何だって言うんだ」
吐き捨てて、布団から顔を出す。携帯電話から漏れ出ていた光は、既に消え去っていた。設楽は若干の安堵を覚えながら、この暗闇に再び光が溢れる時のことを考えるとますます息苦しくなるのを感じた。誰か助けろ、そう呟いて必死に酸素を求める。思考の海に溺れた設楽を、彼女が助けてくれることを期待しながら。けれどもその望みが薄いことを思って、心の奥が疼くのを感じながら。
夜はまだ、明けない。