「……ん……」
カミラは眉間に皺を寄せ、ゆっくりと瞼を上げた。
真っ暗な天幕の中。徐々に目が慣れて、周りに置かれた斧、魔道書といった装備品がぼんやりと浮き上がってくる。カミラはふうと溜息をついて、額に手を当てた。
何かとても嫌な夢を見ていた気がする。はっきりとは思い出せないが、自分が幼い頃の夢、だったような――
言い知れぬ寂寥感に襲われて、カミラはたまらず天幕を出た。戦の合間に滞在している星界、と呼ばれるこの場所は、未だ夜の帳が下りている。それぞれの門の前で見張りをしている兵士が数人いるだけで、ほとんど人の気配はなかった。
誰かに会いたい。そう思った。自然と、カムイの眠るツリーハウスに足が向いた。カムイの安眠を妨害するのは本意ではないが、それよりも、あの顔を見て一刻も早く自分の心を落ち着けたいという思いが勝った。
その時。
「カミラ様……?」
急に呼び止められて、カミラは思わず肩を震わせた。
声のした方を振り返ると、そこにはスズカゼが立っていた。いつもと変わらぬ装束のまま、カミラを怪訝そうな目で見つめている。
「スズカゼ……驚かせないでちょうだい」
「それはこちらの台詞です。こんな夜更けにいかがなさいましたか」
人に会えたという安堵感と、いつもと変わらぬスズカゼの優しい声音で、カミラの心が幾分か落ち着くのを感じた。
そう、彼はいつもそうだ。穏やかな表情で、優しい声音で、温かく手を差し伸べてくれる。それがカミラだけの特別対応ではないというのは、いささか嫉妬心を感じるものではあったのだけれども。
カミラは少し笑顔を作った。
「ちょっと、夜の散歩をね。あなたこそ、こんな夜更けにどうしたの?」
「外で眠っていたら、カミラ王女の足音がしたものですから」
「あら、起こしてしまったのね。ごめんなさい」
いいえ、とスズカゼは軽く首を振った。
「何か、心配事でもおありですか」
カミラははっとしたが、表には出さぬよう、笑顔を保ち続けた。
「なぜ、そう思うの?」
「いえ……私の思い違いでしたら申し訳ないのですが。先程のカミラ様の表情が、いつもと違うように見えたものですから」
ふふ、とカミラは唇を震わせて笑った。さすがは白夜王国の忍、と言うべきか。観察力がずば抜けて鋭いのは知っていたが、やはり彼には隠し事はできない、ということか。
それでもカミラは素直に話す気にはなれなかった。彼とは目を合わせぬようにしながら、なんでもないわ、と嘘を吐いた。
「私はもう少し歩いてから天幕に戻るわ。あなたは寝てくれて構わないわよ」
カミラはそう言いながら、ちらりとスズカゼの表情を窺った。
言葉だけ見れば突き放したような素っ気ないものだが、カミラは僅かに淡い期待を抱いた。果たして彼はどう応えてくれるだろう。カミラはもう一度唇を震わせてふふ、と笑う。
一呼吸置いて、スズカゼはカミラを真っ直ぐに見つめた。
「いえ、カミラ王女。もしよろしければ、私も同行させていただいて構わないでしょうか」
カミラは彼の方を振り返った。心臓が大きく跳ねるのを感じた。
まさか。いや、でも、やはり。無茶な欲求だということは承知していたが、もしかしたら彼なら、と抱いていた期待通りの展開になってしまった。
安堵がじわじわと心臓から全身へと広がっていくのを感じながら、カミラは頷いた。
「ええ、構わないわよ」
静かな夜の城内に、二人の足音だけが響き渡る。
「二人でこうして話すのは、この間お茶会をした時以来かしら」
「そうですね」
穏やかな午後の日を思い出し、カミラは温かい気持ちになった。
「でも、あの時はあなたは他の女の子たちに囲まれていたから……二人ではあまりお話しできなかったわね」
「そうでしたね……あの時はまた、人数が多くて大変でした……」
思い出したのであろうスズカゼの眉間に皺が寄る。それが楽しくてカミラはくすくすと笑った。同時に、嫉妬に似た気持ちも抱きながら。
「あなたは本当に優しいのね。感心するわ」
「それは……あなたの手前、失礼な振る舞いをするわけには参りませんから」
「いつもそう言うけれど、なかなかできることではないわよ」
カミラは小さく息を吐いた。
「だから……気付いてしまったのね。さっきの私のことに」
隣を歩くスズカゼから、ぴりりとした緊張感が伝わってきた。スズカゼは自分の顔色を窺っている。彼がこちらをまじまじと見つめているわけではないけれど、そのことははっきりとわかった。
「小さい頃の夢を見たの」
カミラは歩きながら、溜息と共に言葉を吐き出した。
夢だから、はっきりと覚えているわけではなかった。だが幼い頃の確かな記憶なら、脳内にこびりついている。どれだけ擦っても剥がれ落ちることのない、頑固な記憶たち。
「お母様は私を抱き締めてくれたわ。『カミラ、良い子ね』、そう言って」
でも、とカミラは足を止めた。
「嬉しかったけれど、嬉しい、だけじゃなかったの。私は気付いてた。お母様がそう言って抱き締めてくれるのは、私がお父様との子だから、ただ、それだけだからって」
「お父様というのは……ガロン王のことですね」
「そうよ。私という存在は、側室だったお母様とお父様を繋いでおくだけのものでしかなかったの。お母様は確かに私を愛してくれていた。けれど、もし私がお父様の子どもでなかったら、きっとあんなには愛してくれなかったでしょうね」
カミラは自嘲気味に笑った。横で聞いていたスズカゼの眉間に僅かに皺が寄る。
なるべくなら思い出したくない記憶だった。わざわざ古い引き出しから取り出してきて、噛み締めることなどしたくなかった。だが、夢などという厄介なものは、否応なくカミラを過去の世界へと連れて行ってしまう。今日がまさにそうだった。
幼い頃、暗夜王室に陰湿な争い事が蔓延っていたことを、白夜の人間であるスズカゼは知らないだろう。だが、きっと、なんとなくは察してくれたに違いないと、カミラは思った。そうでなければ、こんなふうに神妙な顔をして、むっつりと押し黙るようなことはないだろう。
「あなたのことではないのだから、そんな顔をしなくてもいいのよ」
カミラはくすくすと笑って、スズカゼの顔を覗き込んだ。スズカゼはすみません、と言ったが、険しい顔は変わらなかった。カミラの過去の辛さを、自分のことのように思っているのだろうか。誠実な彼だから有り得ない話ではないと、カミラはますますスズカゼに好感を持った。
だが、次に彼の発した言葉を聞いて、カミラは仰天することになる。
「カミラ様……このようなことをお尋ねするのは、重々失礼なことであると承知していますが」
「ええ、なにかしら?」
「もし、お許しをいただけるならば……あなたをこの場で、抱擁、しても構わないでしょうか」
カミラは一瞬、息をするのを忘れた。月明かりに照らされたスズカゼの頬は、ほんのりと赤くなっている――ような気がした。時の流れが遅くなったように感じられた。
カミラはまじまじと、スズカゼを見つめた。
その視線に堪えられなくなったのだろうか。スズカゼははっきりと赤面し、かぶりを振った。
「ああ――カミラ王女、申し訳ございません。今のはやはり、聞かなかったことにしてください」
だが、カミラはそのまま逃がそうとはしなかった。
「どうして、私を抱擁したいなんて思ったのかしら?」
「それは……いえ、私は出過ぎた真似を……」
「理由が聞きたいの。聞かせてちょうだい」
スズカゼは少し口をつぐんで考えていたが、やがて観念したように話し始めた。
「あなたが、愛おしくなってしまったからです」
突然の愛の告白に、カミラの心臓は高鳴った。真っ直ぐな言葉が、こんなにも胸に響くとは。それも意中の男に言われては、たまったものではない。嬉しいという気持ちより先に、妙な焦燥感に襲われた。
「私の暗い過去の話を聞いて、愛おしいなんて思ったの? 憐れんだのではなくて?」
「違います! 決して、憐れんでなどおりません」
スズカゼは激しい口調で否定した。
「ただ……あなたは、この言葉が適切かどうかは分かりませんが――無償の愛を欲しているように思えました。暗夜王女だからとか、ガロン王の娘だからとか、そのような地位にとらわれない、無償の愛を」
カミラは彼の言葉を聞きながら、思わず目を閉じた。
「私は、カミラ王女を……カミラ様のことを、お慕い申しております。ですが、それはあなたが王女だからではない。カミラ様がカミラ様だからです。それ以外の理由など存在しません」
胸の奥から温かい気持ちが溢れてくるのを感じた。こんこんと、泉のように。
これまで生きてきた中で、一度も聞いたことのない言葉だった。聞きたくても聞けない言葉だった。
それが今、幸せの塊となってカミラの耳に降り注ぐ。スズカゼの優しい声音と一緒に。
「ですから……あなたのことをあなただから愛しているということをお伝えしたく、抱擁したいなどと……気の迷ったことを申してしまいました。申し訳ございません」
カミラが彼の言葉を噛み締めながら目を開けると、スズカゼの背けた横顔が先程よりも更に紅潮していた。それを見ると、なんだかおかしくなって、カミラは思わず笑ってしまった。
スズカゼがはっとしてこちらに向き直る。
「カ、カミラ様……」
「スズカゼ……私、嬉しいわ。あなたがそんなふうに思っていてくれただなんて」
カミラは前で両手の指を絡めた。
「あなただけだわ。私の欲しい言葉をくれて、私のして欲しいことをしてくれるのは」
「カミラ様……」
「私、あなたに抱き締めてもらいたいわ。そうしてくださる?」
カミラが少し照れくさそうに言うと、スズカゼの表情がぱっと明るくなった。
「はい。喜んで!」
スズカゼは一歩近寄り、両腕を背に回すと、そのまますっとカミラの身体を引き寄せた。
じかに伝わってくるスズカゼの温もり。カミラの心が小さな稲妻のように弾け、その後はじんわりと彼の温もりに包まれた。
幼い頃から、ずっと欲していたもの。それはカミラそのものを愛してくれる者の存在だった。だが、このような生まれの中で、カミラは半ば諦めていた。冷めたように物事を見つめていることも多かった。そのような人間は、自分が王女である限り存在し得ないだろうと。
だが、まさかそんな相手が存在するとは、それも白夜王国の者だとは――、一体誰が想像しただろう。
スズカゼの優しい声音は、カミラだけのものではない。彼の人一倍強い誠実さも、カミラだけでのものではない。その点は妬けてしまうけれど、でも、今彼が与えてくれている温もりは、間違いなくカミラだけのものなのだ。
「カミラ様……お慕い申しております。許されるなら、あなたと生涯、共に生きたい。あなたのことを、今までの分まで、全力で愛し続けたい」
「私もよ、スズカゼ……許されなくても関係ない、私はずっとあなたの傍にいるわ」
スズカゼの頼もしい肩に頭を預けて、カミラは密かに涙を流した。