きっかけはバスケ

 日曜日の夕方、大きな紙袋を抱えて歩くゆかりはご機嫌だった。新しくできたという臨海地区のショッピングモールで、多くの買い物をすることができたからだ。春服はもちろん、これから来る夏に向けての服も多く買え、大満足の一日だった。
 ゆかりが家まで帰る途中、近くの公園に差し掛かった。休日ということもあって、子供たちの賑やかな声が外にまで響き渡っている。
 ちらりとそちらに視線を向けたゆかりは、公園の中に設置されたバスケットゴールに群がる小学生の中に、弟の尽の姿を認めた。その時、偶然にも尽がこちらを向いて、ゆかりに手を振ってきた。
「お、ねーちゃん!」
 ゆかりは公園の中に足を踏み入れ、尽のところまで歩いて行った。
「尽。今日はずっとここにいたの?」
「まあね。明日の体育、バスケなんだよ。だからいいとこ見せられるように、練習」
 尽はにやりと笑う。どうせ女の子の黄色い声援目当てなのだろうと、ゆかりはすぐに察しがついた。この弟はませたところがある上、女子に人気がある。姉のゆかりとしては、この生意気な弟が何故そんなに人気なのか、理由が全く分からないのだが。
「へえ、この人、尽の姉ちゃんなんだ?」
「そうだよ」
 小学生の輪にいた一人が尽に尋ね、尽は頷いた。へえ、と、小学生たちの視線がゆかりに集中する。
「結構可愛い姉ちゃんだな」
「いいなー、こんな姉ちゃん欲しいよ」
「はは、格好だけはね。でも中身はドジだし、トロいし――」
「尽、それ以上言ったら怒るよ」
 姉の目の前で悪口を言う弟に向かって、ゆかりは拳を振り上げる仕草をした。途端に尽はしまったと言うようにきゅっと口をつぐんだが、その後すぐに、ゆかりに向かっていたずらっぽく笑ってみせた。
「あ、そうだ」
 先程のことをごまかすように、尽は持っていたバスケットボールをゆかりの方に差し出した。一瞬意味が分からず、ゆかりは怪訝そうな顔をした。
「なに、え?」
「姉ちゃん、やってみてよ。確か高校、バスケ部に入ったんでしょ?」
「へえー!」
「ち、ちょっと……」
 尽の一言のせいで、またしても小学生たちの視線が痛いほどに集中し、ゆかりは困ったなあと心の中でため息をついた。確かにバスケ部に入りはしたが、ゆかりはまだ初心者といってもいい。中学の頃バスケをしていたわけでもなし、バスケをした経験といえば、それこそ体育の中でプレイしたくらいのものだ。
 ゆかりは困りながら、小学生たちの痛い視線に耐えることができなかった。仕方ないと諦め、大きな紙袋を地面に置く。尽からバスケットボールを受け取り、ゴールの方を向いた。今の服装は運動をするのに全く向かないが、これも仕方がないだろう。
 胸の前にバスケットボールを持ってきて、ゴールを見つめる。自分が投げて、あそこにうまく入ってくれる想像を、何度も頭の中で繰り返した。イメージトレーニングが大切だと、確か部の先輩が言っていたような気がする。
 これでイメトレは十分か、と思った後、ゆかりはボールを胸から突き放していた。ボールは弧を描き、ゆかりのイメージ通りならば、そのままバスケットゴールに入ってくれるはずだった。
 だが、想像と現実はやはり違った。ボールはバスケットゴールのリングに当たると、跳ね返ってあさっての方向へ飛んで行ってしまった。
「あ……」
「おいおいねーちゃん、おれにまで恥をかかせないでくれよなー」
 尽の不機嫌そうな声が聞こえる。小学生たちの視線が、より一層痛くゆかりに突き刺さってきた。
 ゆかりはため息をついて、向こうに飛んで行ったバスケットボールを取りに行った。まだ上手くもないのだから、そのままさっさと家に帰っていればよかったと、後悔の念ばかりが心に押し寄せた。
 草むらのところに落ちていたバスケットボールを発見し、ゆかりが手を伸ばした、その時だった。
「お前、下手だな」
「え……」
 突然声が聞こえ、ゆかりは驚いて顔を上げた。そこには無愛想な顔をした一人の男子が立っていて、ゆかりの方を見ていた。
「あっ、鈴鹿じゃん!」
 後ろにいた尽が、彼に向かって親しげに声をかけた。その途端、鈴鹿、と呼ばれたその人物は不機嫌そうな声を出した。
「こら、年上を呼び捨てすんなって言ってんだろ」
 ゆかりはバスケットボールを抱えて立ち上がると、改めて、彼をまじまじと見た。
 鈴鹿は口をむっつりとつぐみ、ゆかりをじっと見つめていた。左頬に貼った、絆創膏がやけに目についた。怪我でもしているのだろうか、その疑問を口に出す前に、鈴鹿が再び口を開いた。
「お前、ちゃんとゴール、見てんのか?」
「う、うん、そのつもりなんだけど……」
「ちょっとそのボール、貸してみろ」
「う、うん……」
 ゆかりは驚いたが、流されるまま、鈴鹿にボールを渡した。
 鈴鹿はゆかりの手からひったくるようにボールを奪うと、ずかずかと歩いてバスケットゴールの前に立ち、そのままバスケットボールを胸の前に構え直した。彼の目は、ゴールへ一直線に伸びていた。ゆかりと尽が見守る中、鈴鹿はふっ、と息を吐くと、跳躍し、鋭い勢いでバスケットボールを突き放した。
 バスケットボールは板にぶつかって音を立て、ゴールリングの周りを回った後、吸い込まれるようにネットの中へ落ちて行った。落ちてきたボールを素早く拾うと、鈴鹿は再びゆかりの方を見た。
「こうやるんだよ」
 ゆかりは思わず見とれてしまっていたが、はっと我に返り、鈴鹿に拍手を送っていた。
「すごいんだね!」
 鈴鹿は照れくさそうに頬を赤らめ、つんとそっぽを向いた。
「別にすごかねーよ、これくらいできて当たり前だ」
「バスケットボール、得意なの?」
「まあな。つーか俺、バスケ部だし」
「えっ、一緒だ……」
「はあ? お前も?」
 鈴鹿は目を丸くした。ゆかりが小さく頷くと、鈴鹿は大きな溜息をついた。
「バスケ部であれじゃ、全然ダメじゃねーか。中学の時、バスケしてなかったのか?」
「う、うん。高校に入ってからなの」
「そうか。じゃあ仕方ねーかもな」
「う……」
 ゆかりは思い切り落ち込んで肩を落とした。すると尽がゆかりの方に寄ってきて、肩をぽんと叩いた。
「まあまあ、ねーちゃん。そんなに落ち込むことないって。これから頑張ればいいじゃん?」
「そうだね……」
「ねーちゃん?」
 鈴鹿が尽の言葉を聞きとがめた。尽はああ、と言って説明した。
「そういえば言ってなかったっけ。この人、おれのねーちゃん。ゆかりって言って、鈴鹿と同じはば学の一年生なんだよ」
「マジかよ? 全然知らなかったぜ」
 鈴鹿は尽にそう言った後、ゆかりの方を向いた。
「俺、鈴鹿和馬。お前と同じはば学の一年で……部活も、一緒らしいな?」
「う、うん。よろしくね、鈴鹿くん」
「ああ、よろしくな」
 鈴鹿はそう言った後、ゆかりをじっと見つめた。その視線の意図が分からないゆかりは、怪訝そうな顔をして尋ねた。
「どうしたの、鈴鹿くん?」
「いや……」
 鈴鹿は視線を逸らし、小さい声で呟くように言った。
「ダメなんて言って、悪かったな」
「えっ?」
「いや、なんでもねえ! お前も頑張れよ、バスケ部入ったからにはな」
 ごまかすように鈴鹿は大声で言い、くるりとゆかりに背を向けた。鈴鹿はそのまま小学生たちに向かって、元気な声を張り上げた。
「よーしお前ら、もう一回練習するぜ!」
「おーう!」
 小学生たちも笑顔で声を揃え、鈴鹿からバスケットボールを受け取り、練習を始めた。
 ゆかりは鈴鹿の言いかけたことがよく分からなかったが、彼に励まされたことで、少しは心が軽くなった。
 そのまま帰ろうと思っていたのに、何故かゆかりの足は止まっていた。その場で、目の前で楽しそうに笑う小学生たちと、彼らに声を飛ばす鈴鹿の背を、ずっと見ていた。
 心の中にほのかに芽生えた感情を、自覚しながら。
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