「ふう……っ」
公園の水飲み場で思い切り顔を洗うと、冷たさで肌が引き締まる感覚がした。思い切り空に向かって息を吐くと、白い息が煙のように吹き上がった。
十二月に入ったばかりのこの時期、寒さは本格化してくる。公園内には枯れ木も目立ち、人々は時折吹く冷たい風に煽られぬよう、コートの襟を掴みながら歩いている。鈴鹿はというとタンクトップと短パンという、いかにも寒そうな服装であったが、先程まで体を動かしていたせいで、寒さは全く感じていなかった。
高校を卒業し、部活というものがなくなっても、鈴鹿がトレーニングを欠かしたことはない。こうして毎日続けられているのは、バスケにかける情熱が人一倍強いというのもあるが、何より体を鍛えるのが好きだからだ。
確かに長い距離を走り込んだり、何回もスクワットや腕立て伏せをするのは辛い。だが鈴鹿は、その辛さを超えたときの快感を知っている。知っているからこそ、やめられないのだ。
「鈴鹿くん、お疲れ様!」
公園で鈴鹿が帰ってくるのを待っていた清水が、タオルを持って駆け寄ってきた。鈴鹿はおう、と手を上げ、清水が差し出してきたタオルを受け取る。タオルは水と汗を一気に吸い込み、少しばかり重くなった。
「今日も頑張ったね。ちょっとだけタイム良くなったよ、ほら」
清水が見せてきたストップウォッチを覗き込み、鈴鹿は満足げに笑う。
「お、すげえな。一番いいタイムかもしれねえ」
「ほんとに? じゃあ、確実に成長してるってことだね」
「おうよ。ここもバッチリ鍛えられてるしな」
言いながら、鈴鹿は自分の太股を叩く。そうだね、と清水もにっこりと笑った。
二人は歩いて荷物を置いている木陰に戻った。鈴鹿は大きく息を吐きながら自分のスポーツバッグの中を探り、水筒を取り出して飲み口に口を付けた。そのまま水筒の底を持ち上げると、中から勢いよく水が飛び出す。鈴鹿の喉は十分に潤ったが、勢いが強すぎて、口から水が零れ出た。
「鈴鹿くん、こぼれてるよ」
咄嗟に手が伸びてきて、滴を拭き取られる。そのタオル越しの優しい感触に驚いて、鈴鹿は思わず水筒から口を離し、自分の口を拭う彼女の顔をまじまじと見つめた。
その途端、逆さにしたままの水筒から水が溢れ出し、引力に従って落ちていった。――鈴鹿のシャツの上に。
「うわあっ!?」
慌てて水筒を放り投げ、鈴鹿はシャツに出来た大きなシミの部分をつまみ上げる。
「ほら、これで拭いて!」
清水は鈴鹿に持っていたタオルを押しつけると、しゃがんで鈴鹿のスポーツバッグから着替えを探し始めた。彼女が長袖のTシャツを取り出すと、鈴鹿はそれを受け取って素早く着替え始めた。ただでさえ寒い季節だというのに、冷たい水を浴びた上、着替えるために一瞬でも上半身裸にならねばならないとは――鈴鹿の身体は無意識に震えた。
まるで湖のような大きなシミのできたタンクトップを受け取り、清水は丁寧にたたんでそれをスポーツバッグの中に入れた。鈴鹿は着替え終わっていたが、何せ今は先程着替えたばかりのアンダーウエアしか身につけていない。ウインドブレーカーを持って行こうか迷ったのだが、朝寝坊して急いでいたということもあり、家に置いたまま出てきてしまった。
歯を食いしばって寒さに耐えている鈴鹿に気付いたのだろう、清水が怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「鈴鹿くん、上着持ってないの?」
「お、おう……今日、急いで出てきちまったから……」
「もう。急いで出てくるったって、寒いんだから上着は絶対必要なのに」
呆れたような表情の清水。全くその通りだと、鈴鹿は珍しく縮こまった。
だが反省したところで、寒さが和らぐわけでもない。突然吹いてきた強い風に、鈴鹿はぶるぶると身を震わせた。滅多に風邪を引かない鈴鹿だが、このままでは風邪を引いてしまいそうだと思った。
「本当は、こんなふうに渡すつもりじゃなかったけど……」
そう言いながら、清水は鈴鹿のスポーツバッグの陰に置いてあった紙袋を掴んだ。青チェックの紙袋の右上には、大きな花を形取った赤いリボンが付けられている。一体何だろうかと覗き込む間もなく、紙袋を清水に差し出され、鈴鹿はきょとんとした。
「な、なんだよ、これ」
「鈴鹿くん、誕生日おめでとう」
「え? お、おう……」
戸惑いつつ紙袋を受け取ってから、清水の言葉の意味を考える。タンジョウビオメデトウ。タンジョウビってなんだ? タンジョウビ、たんじょうび、誕生日――
「あああっ!」
その言葉の意味がわかった瞬間、鈴鹿は大声で叫んでいた。公園にいた人々が何事かと一斉に振り返り、恥ずかしい思いをする羽目になった。清水を見ると、くすくすと笑っている。鈴鹿の反応が、あまりに面白かったのか。
「ふふっ。忘れてたんだ、自分の誕生日」
「あ、ああ……別に、あんまり気にしたことねーから」
「鈴鹿くんらしい」
微笑みをこぼした後、清水は言葉を続ける。
「でも、大事な日だよ。だって、鈴鹿くんが生まれてきた日なんだもん」
「……お前、大げさだなあ……」
「大げさじゃないよ。鈴鹿くんが生まれてきてくれなかったら、わたしは鈴鹿くんと会えなかったんだから」
清水が大まじめな口調で言うので、誕生日というものを軽視していた鈴鹿も思わず納得させられてしまった。記念日でいちいち騒ぎ立てるのは好きではないが、祝われれば悪い気はしない。
鈴鹿は彼女にもらった紙袋に視線を落とし、尋ねた。
「中、何が入ってるんだ?」
「開けてみて」
彼女に言われるまま、鈴鹿は袋口を留めていたテープをはがして紙袋を覗き込む。するとそこには紺色の布の固まりが入っていた。厚手の生地で、触り心地も良い。紙袋からその布の固まりを取り出して広げると、紺のダッフルコートが現れた。
「これ、お前が?」
思わず顔を上げて清水を見つめると、彼女はにこりと笑った。
「そう。この間買い物に行ったとき見つけて、鈴鹿くんに似合いそうだなって思ったの」
「着てみても、いいか?」
「うん。寒いでしょ、早く着てみて」
紙袋を地面に置き、コートの袖に手を通す。トグルボタンを全て留め終えると、やっと外の冷たい空気から解放され、鈴鹿は思わず安堵の息を吐いていた。生地の肌触りもいいし、何より内側の空気が逃げないからぽかぽかして暖かい。自分に似合っているかどうかというのはやや不安なポイントであったが、清水の一言によりその不安は吹き飛んだ。
「良かった。似合ってるよ、鈴鹿くん」
その後で、苦笑する。
「短パン、見えなくなっちゃってるけど」
言われてから自分の足に視線を落とすと、確かに短パンがコートに隠れて見えなくなり、まるでコートだけ着て歩いている人間のような姿になっていた。あまり格好良い姿ではなかったが、今は仕方がない。
鈴鹿は満足して、清水に礼を言った。
「ありがと、な。大切に着るわ」
「うん。もう寒い季節だから、いっぱい着てあげてね」
清水も嬉しそうに笑った。
「さ、俺、一旦家に帰るわ」
「うん。着替えてくるんでしょ?」
「おう。さすがにこのまんまじゃ、どこにも行けねえからな」
もう一度自分の姿を眺め回して苦笑する。この姿で店に入ったりするのはさすがの鈴鹿でも抵抗があった。
「じゃあ、わたし、待ってるね。新はばたき駅に、十二時に待ち合わせでいい?」
「おう。じゃあ、また後でな」
「うん。またね」
手を振り交わし、鈴鹿は走り出す。幸せの重みを抱えたまま、白い息を吐き出して。