I don't forget you.

「……あ」
 とある喫茶店の前で、ユーニは足を止めた。
 すう、と深呼吸をすると、爽やかな香りが鼻腔を抜けていく。言葉に出来ない感情に襲われて、ユーニは視線を落とした。
 脳内が激しく回転して、記憶を辿ろうとする。自分はこの香りを、どこかで嗅いだことはなかったか――。直近から数ヶ月前、そして子どもであった数年前に至るまで記憶を辿ったが、ついぞ手がかりを見つけることは叶わなかった。
 そもそも、自分は普段、特に紅茶を好んで飲むことはない。勿論嫌いではないが、特段好きでもなく、飲み物の一つとしてしか認識していない、はずだ。それなのに、どうしてこの香りにこれほどまでに惹かれるのだろうか。心を奪われてしまうのだろうか。
 その答えを求めるようにして、ユーニは喫茶店の扉に手を掛けていた。
 店内に人はまばらだった。中央のキッチンにいた初老のマスターが、いらっしゃい、と声を掛けてくる。
 ユーニは香りの元を辿って、周りをきょろきょろと見回しながらマスターのところに向かった。キッチンに近づく程、その香りは徐々に強くなっていく。
「お好きな席に――」
 マスターの言葉を遮り、ユーニはカウンターから身を乗り出した。
「あの、さ! この匂い、何の匂いなんだ?」
「え? ああ、これかい?」
 マスターは柔らかく笑って、茶葉の入った器を差し出した。
 一気に強い香りが鼻腔を襲う。ユーニは思わず身を震わせた。
「セリオスアネモネ、という植物だそうだ。珍しいもので、限られた場所にしか咲かないらしい。私も今まで一度も見たことはなかったんだが……たまたま茶葉が手に入ったから、一度淹れてみようと思ってね」
「セリオス、アネモネ……」
 ――その響きを、何故かとても懐かしい、と思った。
 でも。首を傾げた。マスターが珍しいというほどの植物の名を、特に植物に詳しくもない自分が知るはずもない。それなのに、どうして懐かしいなんて思ったのだろうか。
 わからない。わからないが、自分はこの植物を知っている。鼻に抜ける香りを知っている。身体が覚えている。そんな根拠のない確信があった。その僅かな記憶の欠片を失いたくない一心で、ユーニは思わず叫んでいた。
「な、なあ、そのハーブティー、飲ませてくれねえか!?」
 マスターが驚いたように目を見開く。店内にいた他の客の視線があちこちから突き刺さった。
 ユーニははっと我に返り、顔を赤らめて俯いた。
「……そ、その……いくらかわかんねえけど、お代は払うから……今月、結構厳しいけど……」
 じわじわと込み上げる羞恥を誤魔化すように、ぼそぼそと言った。手を合わせてもじもじしていると、頭上からマスターの優しい声が降ってきた。
「構わないよ。お代も必要ない。元々、試しに淹れてみようと思っていたところだったからね。他のお客さんにも振る舞うつもりだったし。どうかな、皆さん?」
 マスターの言葉に、客たちが笑みを浮かべて頷く。ユーニは顔を上げて、小さく安堵の溜息を吐いた。


 ユーニはカウンターに座り、ハーブティーを淹れるマスターを見ていた。
 乾いたセリオスアネモネの茶葉を入れる仕草、ポットに静かに湯を注ぐ仕草、みるみるうちに変わっていく茶の色を、目を細めて見つめる仕草。そのどれもに、妙な既視感があった。
 マスターが掛けた老眼鏡をくいと上げる仕草には、何故か胸が苦しくなった。どうにも訳が分からずに、ユーニは思わず視線を逸らした。
「はい、どうぞ」
 マスターが目の前に置いてくれたハーブティーを見つめる。水面に映る自分の顔は、ひどく切なげな顔をしていた。香りが鼻腔に届くたび、心臓の鼓動が速くなる。ユーニはいただきます、と小さく手を合わせてから、カップを手に取った。
 口に付けた途端、ユーニは大きく目を見開いた。
 知っている。舌を転がり喉に落ちていくこの味を。熱さを。香りを。何度も飲んでいた。好きな飲み物だった。
 顔を上げて、他の客にハーブティーを振る舞うマスターをぼんやり見つめた。
 自分は知っている。ハーブティーを淹れてくれた誰かを。自分に温かな時間を提供してくれた誰かを。それなのに、それが誰なのか、いつの話だったのか、全く思い出せない。ユーニはあまりのもどかしさに、思わず胸をかきむしった。
 その切ない気持ちを癒すように、ハーブティーの香りが喉と鼻を抜けていく。ユーニは次第に口元を緩めていた。そのうち、他の客にハーブティーを配り終わったマスターが帰ってきて、ユーニを見て微笑みを浮かべた。
「気に入ってもらえたようだね」
「……ああ。すっごく」
 ユーニは穏やかな表情で、大きく頷いた。


 飲み終わった後、ユーニは頬を掻きながら尋ねた。
「その……また、来てもいいかな?」
「ああ、もちろん。嬢ちゃんが気に入ってくれて嬉しいよ」
「うん。ありがとう」
 マスターの好意に感謝しながら、喫茶店を出た。
 すっかり濃い橙色に染まった夕空を見上げて、ユーニは目を細めた。この夕暮れには、昔からどこか懐かしい気持ちにさせられてきた。もしかしたら、セリオスアネモネのハーブティの人と、関係があるのかもしれないと思った。夕暮れとハーブティ。一見何も関係がなさそうだけれど、ユーニにとってはとても大切な思い出――そのような気がした。
 ユーニは気分が良くなり、少し寄り道をして帰ることにした。
 向かったのは、街の外れにある花畑だ。色とりどりの花々を見ていると癒される。それだけではなく、ここにはユーニの好きな“あるもの”が生えていることもあった。
 花畑の中央まで歩くと、その場にしゃがんで草花をじっくりと眺めた。
「うーん。これは三つ葉……こっちも……」
 目当ての物はなかなか見つからない。と――少し遠くに目をやったユーニは、思わず満面の笑みを浮かべた。
「フォーチュンクローバーだ!」
 大好きな目当ての物に駆け寄り、ユーニはそれを手に取った。
 フォーチュンクローバー。ユーニの大好きな、四つ葉の植物だ。見つけたら幸せが訪れるという言い伝えがあり、小さい頃からこれを探すのが好きだった。この植物は三つ葉の種類が生えていることが大半で、四つ葉のものはなかなか見つからず貴重なのだ。
 ふと、幼なじみのランツがフォーチュンクローバーの話をしていたことを思い出した。確かノアが、他の女子からフォーチュンクローバーをもらったらしい、という話だった。
『そいつ、渡してすぐどっか行っちまったって。意味わかんねえよな』
『はあ? おいランツ、何でわかんねーんだよ? そんなもん、意味、一つに決まってんじゃねーか』
『なんだよ、ユーニはわかんのかよ?』
『当ったり前だろ。フォーチュンクローバーってのは四枚だろ? だから、――』
 その瞬間、ユーニは全身に電流が走ったかのように硬直した。
 フォーチュンクローバーの四枚の意味と、今まさに、ユーニの頭に浮かんだフレーズ。
「四番目の、相方……」
 ユーニの声は震えていた。
 セリオスアネモネのハーブティー。夕暮れ。四番目の相方。くいと眼鏡を上げる仕草。懐かしさを纏わせたそれら全てが、一本の線で繋がった。
 ユーニはフォーチュンクローバーを手に持ったまま、慌てて家に向かって走り出した。


 ユーニは家に戻ると、真っ直ぐに自分の部屋へ向かった。いつからか引き出しに眠っていた、夕暮れと同じオレンジの背表紙の冊子を取り出す。
 中には様々なハーブティーのレシピが記されていた。茶葉の特徴、焙煎の仕方、淹れ方、それらがページの端から端まで、きびきびとした字で綴られていた。
 ユーニは冊子を抱き締めた。血が滲むまで、きつく唇の端を噛んだ。
 どうして、今まで忘れていたのだろう。絶対に忘れるものかと心の中で誓ったはずだった。あるいは、忘れられないに決まっていると高をくくっていたのかもしれない。そんな愚かな自分を、思い切り罰したい気分だった。

「タイオン……」

 脳内に現れた名前を、絞り出すように口にした。
 この冊子をくれた男。ユーニと様々な過去を、想いを共有した男。ユーニが辛い時、落ち込んだ時、疲れた時、いつもセリオスアネモネのハーブティーを淹れてくれていた男。別れの日、このハーブティーのレシピをくれた男。
 そして、ユーニの最も大切な、四番目の相方。
「タイオン……、っ、タイオン……」
 ようやく思い出したその名前を、何度も何度も口にする。もう決して忘れまいとするかのように。
 不意に、四番目の相方、と言われて、動揺していた彼の表情を思い出した。
 フォーチュンクローバーは幸せをもたらす。ただし、人から人へ贈った場合は、違う意味を持つ。
『私のものになって、って意味なんだよ』
 ユーニの目から涙が溢れた。
 抱いた気持ちにどのような名前を付けたら良いのか、あの時は分からなかった。ただ、彼と一緒にいるのが楽しかった。最も落ち着く相手だった。それは決して、インタリンクできるからだけではない。あの壮大な旅を通して、共に過ごす時間を重ねるうちに、彼以外の相方は考えられないほどになっていたのだ。
 恋という概念を知った今、ようやくユーニは、彼に抱いていた想いを正しく自覚した。
「……遅ぇよ、アタシの、バカ……」
 彼のマフラーと同じ、オレンジ色の冊子を見つめる。涙が次から次へと溢れて、表紙に大きな染みを作った。
『その点に抜かりはない』
 これを渡す時、そう言って得意げに笑った彼を思い出した。タイオンは完璧な形で、自分に思い出を残してくれた。決して消えないで、ユーニの手元に残るやり方で。
 自分は、彼に何か残せただろうか。彼は、自分のことを少しでも覚えているだろうか。どちらも全く自信がない。ユーニは首を横に振った。
「会いてぇよ……」
 ユーニは再び冊子を抱き締めた。
「もう、忘れたりしねぇから……」
 喉奥から声が絞り出される。
 暗闇の中で、窓から差し込む月明かりだけが、ユーニの涙に濡れた横顔を照らし出していた。
(2022.9.30)
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