ぱらぱらと雨が屋根を叩く音が聞こえて、夕飯の支度をしていたリフィアははっと顔を上げた。
慌てて鍋の火を消し、居間の窓から空を見上げる。朝からどんよりとした空であったが、ついに雨が降り始めてしまったらしい。傘を持たぬ人々が困ったような表情で、急いで通りを走っていくのが見えた。
そんな雨を厭う人々とは裏腹に、リフィアは天上を眺めうっとりと目を閉じた。僅かに斜めから頬を打つ雨水の冷たさが、とても心地よいものに思えた。
リフィアは小さい頃から雨が好きだった。周りにいる大人達は、誰もが雨を疎ましいものと決めつけていたけれど、リフィアは決してそうは思わなかった。歌学省の中から外を眺めることしかできないリフィアにとって、天候の変化は不思議そのものであり、リフィアの好奇心を存分にくすぐるものだった。中でも雨は、透明な水が小さな粒となって天から降り注ぐという、とりわけ不思議な現象だったのだ。
雨が降っていると分かると、リフィアはすぐに窓を開け、両腕をいっぱいに伸ばして雨粒の感触を楽しんだ。風邪を引くからやめなさいと、母やしもべたちに怒られたことを覚えている。本当は外に出て全身でその感触を確かめたかったけれど、当時のリフィアにはできなかった。
リフィアの好きな雨は、自分が喚ぶレイスコールとはまた違う。集中的に一部の場所に降り注ぐのではなくて、少しずつ静かに、広大なる大地に水の恵みを与える雨だ。そう、ちょうど今、降り注いでいる雨のような――
幼い頃のように外へ腕を伸ばしかけて、リフィアははっと気付いた。当時と違って、今の自分を縛るものは何もないのだ――リフィアは急いで靴を履くと、何も持たずに外に出た。窪みに溜まった水を撥ね飛ばしながら走っていく人々の間をくぐり抜け、街の中央にある広場に向かった。その間にも雨はリフィアの身体へ優しく落ち続け、白い肌を冷たく濡らした。
広場には誰もいなかった。リフィアは一人で広場の中央に歩み寄ると、鈍色の空に向かって手を伸ばした。ぽたぽたと指先を、髪を、頬を濡らす雨水たち。全てを愛しく思いながら、リフィアは全身でその感触を楽しむ。幼い頃できなかったことが、自由の身となった今では実現できている。その幸せを、リフィアは心の中で噛み締めていた。
うっとりと目を閉じて、雨に濡れて、一体どのくらいの時間が経ったことだろうか。
「――フィア、リフィア!」
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえて、リフィアはゆっくりと目を開けた。静かに広場の入り口の方を振り向くと、ぼんやりとした霧雨の中に映る赤い影。それが良く見慣れた愛しい人であることを知り、リフィアは微笑みを浮かべた。
「ラルク……」
ラルクはずかずかと広場の中へ入ってきたかと思うと、リフィアの前に立って大きく開いた白い傘を差し出した。
「お前、こんなところで何やってたんだ……傘も差さずに」
失われた雨粒の感触を残念がる間もなく、ラルクはリフィアの濡れそぼった髪を掬い上げ、指先で水滴を散らした。
「ずぶ濡れじゃねーか。風邪引くぞ」
かつて幼いリフィアを諫めたのと、同じ言葉。けれどもリフィアは、それを不快とは感じなかった。全ては、リフィアを案じて発せられる言葉だと知っているからこそ。
「ラルクは、雨が嫌い?」
首を傾げて尋ねると、ラルクは唐突な質問にやや戸惑った表情を見せた。
「嫌いっていうか……あんまり気持ちいいもんじゃねーだろ。濡れたら着替えなきゃいけないし」
「私は好き。だって、雨で濡れるのって、とっても気持ちいいから」
うっとりとした口調で語ると、ラルクが不思議そうな顔をした。
「濡れるのが気持ちいい? リフィア、お前って、やっぱりどっか――」
「おかしいかしら?」
「……いや、別にお前がいいならそれでいいけど」
ラルクは納得したような、そうでないような表情を見せて、リフィアの肩に手を置いた。服の上に載った雨粒を振り払うように手を動かし、そのまま再び髪に触れ、まとわりついた水滴を払う。小さな雨粒に打たれて濡れていく感覚も心地よかったが、こうしてラルクの大きな手で触れられる感覚もそれと同じくらい心地よいもので、リフィアはうっとりと目を閉じた。
「お前、本当に風邪引いちまいそうだな。大丈夫か?」
ラルクの問いに、リフィアは目を開けてううん、と首を振る。
「大丈夫よ。だってこの方が気持ちがいいから」
「そう、か」
ラルクは一瞬複雑そうな表情をしたが、まあいいかと小さく呟いて、リフィアがこれ以上濡れないように傘を傾けた。けれどもそこから逃れるようにして、リフィアは幼い頃のように、腕をいっぱいに伸ばしながら言った。
「私がまだ小さかった時、雨の降る日がとても楽しみだったの」
「へえ。珍しいな? さっきも言ってたけど、雨が好きなんだな」
「ええ。あの頃の私はずっと歌学省の中にいて、外のことを何も知らなかったから……だから、空から水の粒が降ってくるのが不思議でならなかったの。でもとても綺麗で、だから好きだった」
「なるほどな。そんなふうに考えたことはなかった」
「ラルクはあまり雨が好きではないのよね」
「雨が降ったら、外で何にもできなくなるからな。遊びも、剣の稽古も全部。道場は広かったから中でも稽古はできたけど、やっぱりそれじゃつまんねぇからな」
遠くを見るように目を細めるラルクを横から覗き見て、彼が昔に思いを馳せていることを悟る。リフィアも同じように歌学省にいた頃に思いを馳せながら、言葉を続けた。
「私は外に出られないのが当たり前だったから。でも少しでも雨に触れたくて、窓を開けて、こうやって腕を伸ばして、雨に打たれていたの」
天へと手のひらを掲げ、リフィアはくすくすと笑った。
「お母様やしもべたちによく怒られていたわ。風邪を引くからやめなさいって」
「そうだろうな」
ラルクもつられるようにして、微かに笑い声を洩らす。
「俺もお前に風邪を引かれたら困るからな。同じ事を言うぜ?」
ええ、とリフィアは素直に頷いた。
「じゃあこれからは、傘を持たずに外に出たりしないようにするわ」
「ああ。是非そうしてくれ」
ほっとしたような表情になるラルクと傘の中で向かい合って、リフィアは上目遣いに彼を見つめた。
「ラルク。一つだけ、お願いしてもいい?」
「ん? 何だ?」
唇の前で指を組んだリフィアの頬に、紅が差す。
「雨が降った日は、ラルクと一緒に外を歩きたいの。だめかしら?」
一瞬、ラルクの瞳が驚いたように見開く。けれどもすぐに、首を縦に振った。
「ああ。それくらいなら、付き合うぜ」
「良かった」
どちらともなく、広場の入り口に向かって歩き出す。不意に揺れた指がぶつかって、少しの躊躇いの後、小さく、けれども強く絡められた。触れた部分が急激に熱を持ち始める。傘に雨粒の当たる音が、ぱらぱらと響いた。
「きっと、とても楽しいと思うの。だって、今もとても楽しいから――」
「何が?」
「ラルクと一緒に雨の中を歩くこと。私、雨も大好きだし、それに……」
「それに、何だ?」
リフィアが不意に立ち止まる。一歩遅れて立ち止まったラルクの耳許へ、リフィアはつま先立ちして唇を寄せた。濡れた空気が微かに振動する。
やがて二人の頬に、同時に紅が差した。リフィアは離れると少しばかり俯いて、ラルクはそっとリフィアを一瞥した後、視線を明後日の方向に向けた。けれども繋がった部分はそのままで、それどころかますます強く指を絡める。
濡れた地面をゆっくりと靴で踏み固めながら、少しずつ冷え始めたリフィアの身体とは裏腹に、胸には温かいものが灯るのを感じていた。