優しい日

 居間の窓から差し込んでくる朝日に心地よさを感じながら、リフィアはテーブルに置かれたかごの中のクロワッサンを手に取った。
 皿に敷かれた瑞々しいレタスの上に載るハムエッグ。リフィアのそれは、既に黄身がとろりと溶け出した後だった。対するラルクのものはというと、全く手が付けられていない。いつもならリフィアよりも先に食べてしまうのに、だ。
 小さく千切ったクロワッサンを飲み込んだ後、リフィアは首を傾げて、全く食事の進んでいないラルクを見つめた。
「どうしたの? ラルク。食欲、ないの?」
 ラルクはぼうっとしていたらしく、反応するのにやや時間を要した。数秒後はっ、と顔を上げ、おもむろに首を振る。
「いや、そういうわけじゃない。ただ……」
「あんまりおいしくなかったかしら」
「違う、そうじゃなくて……お前、もう平気なのか?」
 唐突に向けられた問いに、リフィアはきょとんとする。
「平気って、どうして?」
「だってほら、お前、昨日倒れただろ」
 言いにくそうにしながら答えるラルクに、ああ、とリフィアは頷いて、微笑みを浮かべた。
「心配してくれていたのね」
「当然だろ」
 やや照れたように視線を逸らすラルクを、リフィアは微笑ましく思う。クロワッサンを皿の上に置いて、リフィアは自分の腹をゆっくりとさすった。
「平気よ。だいぶ落ち着いたから。心配してくれてありがとう、ラルク」
「いや……そうか。それなら、良かった」
 ラルクは視線を戻して、ほっとしたように笑いを浮かべた。
 リフィアは再びクロワッサンを手に取りながら、ラルクに向かって微笑みを浮かべつつ言った。
「ねえ、ラルク。今日はとても天気がいいから、一緒に散歩に行きましょう」
「お前と? けど、お前、散歩なんかして大丈夫なのか?」
「大丈夫。だって適度な運動はした方が良いと、お医者様もおっしゃっていたもの」
 そうだったな、と口の中で小さく呟くラルク。ようやく腑に落ちたのか、フォークを手に取ってハムエッグの薄膜を裂いた。とろり、と溢れる半熟の黄身。
「なら、後で出掛けるか」
「ええ」
 リフィアは嬉しそうに頷いた。


 昨日のことだった。家事をしている最中、急に激しい眩暈に襲われた。世界が反転して、何も見えなくなった。気付けば床に倒れていて、遠のく意識の中で、自分の名を呼び続けるラルクの声を聞いていたのだった。
 ラルクに抱えられて医者に行くと、驚くべき事実が判明した。なんと自分は妊娠していたのだという。眼鏡を直しつつ微笑みを浮かべながらおめでとうございます、と言う初老の医者に対し、二人はただただ驚くばかりだった。どちらからともなく顔を見合わせた後、ラルクの頬が赤く染まることに気付く。きっと照れているのだ、と思うと、胸のどこかに生まれた不安な気持ちがあっという間に飛んで行って、リフィアは思わず笑っていた。
 自分とラルクの赤ちゃん。その響きに、温かなものを感じずにはいられなかった。自分の身体がどうなってしまうのだろうかと不安に思う気持ちは、ある。けれどもそれ以上に、喜びの方が大きかった。
 その帰り、ラルクは自分からリフィアの手を握った。今までは二人で外を歩く時も、恥ずかしいからとあまり手を繋いでくれなかったのに――驚いて顔を上げると、ラルクは相変わらずほのかに頬を赤らめたまま、リフィアをじっと見つめていた。
「大丈夫……か?」
 それが彼の精一杯の言葉だったのかもしれない。リフィアはええ、と微笑みながら頷く。
「大丈夫よ、ありがとう。ラルクから手を繋いでくれて、嬉しいわ」
 そう言いながらぎゅっと握り返すと、ラルクがう、と言葉に詰まるような声を出した。顔を逸らし、照れ隠しのように言う。
「当然、だろ。お前が何かにつまずいたりしないか、心配だからな」
「ふふ、ありがとう」
 ベネトナーシュの石畳を歩きながら、リフィアは幸せを噛み締める。五百年という気が遠くなるような年月を経て、やっと二人は大きな幸福を手に入れた。トゥレミリア共和国元老院の援助を受け、リフィアの故郷であるベネトナーシュで暮らす。一緒に旅をしていた頃と比べれば、それはひどく平穏な生活だったけれど、それゆえに満ち足りていた。一つ一つ、今まで抜けていた空白の時間を埋めるように。リフィアは変わらぬ愛を持ってラルクと接したし、ラルクも慣れぬ行為に照れを隠せないながらも、そのぎこちない仕草に、リフィアへの大きな想いを込めていた。
 こうして未来に踏み出した二人にとって、新たな生命の誕生はこの上ない喜びをもたらしているはずだった。
「お腹の中に、私とラルクの赤ちゃんがいるのね」
 そっと呟くように言うと、手を握るラルクの力がやや強くなった気がした。
「ああ、そうだな」
「ラルクは嬉しくないの?」
 いつまで経っても自分の顔を向けようとしないラルクに首を傾げながら聞くと、驚いたように彼の足が止まった。そうして、振り返る。ラルクは頬の赤みを消して、首を横に振った。
「そんなわけ、ないだろ。嬉しいに決まってる」
「よかった」
 そっと身体を寄せて、ラルクの温もりを感じる。ラルクは手を離して、リフィアの肩を優しく抱いた。その手に、再び力がこもる。何かを伝えようとして、言葉にならない思いを託しているかのように。
「今日はゆっくり休んでおけよ。後のことは俺がやっておくから」
 ありがとう、と微笑んで、リフィアはラルクに身体を委ねた。


 朝食の後、二人は準備をして出掛けることにした。
 玄関の扉の前にある小さな段差の前ですら、ラルクは手を握って、リフィアがちゃんと下りられるかどうか確認してくれる。といっても本当に小さな段差だから、まだお腹の膨らみもないリフィアにとっては、それを下りることなど造作もない。けれどもその手から、まるで壊れやすい小物を扱うように、リフィアを心配している気持ちが伝わってきた。
「大丈夫か? 辛くなったら、いつでも言えよ」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
 リフィアが笑うと、ラルクはほっとしたように溜息をつく。そうして二人は、石畳の上を歩き始めた。
 かつてはノースノワーレ教の教会があった名残で、五百年経った今でも聖職者がこの街には多く存在している。こうして歩いていても、灰色の僧衣を着た聖職者たちが会釈をしながら通り過ぎていく。今もあの場所に教会はあるが、ノースノワーレ教ではない、別の宗教の総本山になってしまっているようだ。
 道脇にある水やりをしたばかりと思われる花壇の花々が、生き生きと茎を伸ばし、太陽に向かって笑っている。そんな小さなことにも喜びを感じながら、二人は街の中央にある広場に向かって歩いた。
 広場へ行く道はなだらかな下り坂になっている。その坂の前ですら、ラルクはリフィアを振り返って、今まで以上にゆっくりと歩いた。一歩一歩、緑の芝生を踏みしめる音を聞きながら、広場の中央へ進んでいく。
 中央に置かれている噴水の前まで来たところで、二人は立ち止まり、勢いよく水を噴き上げている様を見上げた。
「大丈夫か? 辛くないか?」
「平気よ。ありがとう、ラルク」
「そうか。それならいいんだけどな」
 そっと寄り添って、リフィアはくすくすと笑う。
「今日のラルクはとても優しいのね」
「今日の、って……それ、どういう意味なんだ」
「ふふ、ごめんなさい。今日だけじゃないわ」
 ――そう、ラルクはいつも、優しい。
 ラルクは照れたように頬を掻いて、小さく息を吐いた。そうして、昨日そうしてくれたように、そっと肩を抱き寄せる。
「お前が心配だからだろ」
 照れ隠しのように発せられたその言葉が、リフィアには何より嬉しかった。
(2010.10.22)
Page Top