安心をくれるひと

 戦場に赴いたウォルトは、心を落ち着かせると、ゆっくりと矢をつがえた。
 狙うは、空を舞うベルンの竜騎士。天馬と比べ動きは遅いが、代わりに圧倒的な存在感を持って空を飛び回っている。
 並の武器では歯が立たないくらい硬い鱗を持つのだが、ウォルトの扱う弓や魔法なら有効だというので、進軍前、ロイに部隊を分けられた。ロイ率いる本隊は真っ直ぐ進み、その横から襲い来る竜騎士たちを、ウォルトたちが倒していくという作戦である。
 ウォルトの横には、同じく矢をつがえたスーがいた。彼女の視線は空に向かっている。今は点のように見える竜騎士たちだが、彼らの進軍の速さは歩兵の比ではない。
 案の定武装した竜騎士が真っ直ぐに飛んできて、竜の背の上で槍を振るった。ウォルトは間一髪のところで攻撃をかわし、スーは馬を操ってそれを巧みに避けた。
 体勢を立て直し、つがえていた矢を放つ。ひゅうと空を切る音がして、矢は竜に命中した。竜は苦しそうに空中でうごめき、やがて地響きのような音を立てて地上に落下した。
 ふう、とウォルトは息をついた。
「やったね、スーさん」
「まだ安心するのは早いわ。ほら、また来た」
 スーが指差す方を見ると、空の黒い点が増えていた。まだまだ油断はできないようだ。彼らの本拠地であるベルンの地に足を踏み入れているのだから、当然なのだろうが。
 ウォルトはもう一度気を引き締め、矢立てから矢を取り出した。
 その後で、ウォルトはふと気付いた。スーは何故ここにいるのだろうか、と。
 同じ馬を操る遊牧民のシンやダヤンは、その機動力を生かして先へ先へと進んでいる。他の騎兵の者達も同じだ。それなのに、何故スーは先へ進まず、自分のような足の遅い歩兵と一緒にいるのだろうか。
「スーさん」
「なに?」
 返ってきた凛とした声に向かって、ウォルトは疑問をぶつけた。
「どうして先に行かないんだい? スーさんには馬があるんだから、僕たちと合わせて動く必要はないのに」
「向こうにはシンやじじたちがいるわ。私たちが皆先へ行って、本隊を守る者たちがいなくなれば困るでしょう」
「それはそうだけど」
「いざとなれば追い付けるわ。ウォルトも私の後ろに乗ればいいから」
「あ、うん……」
 なんとなく質問をはぐらかされたような気がしてすっきりしなかったが、黒い点であったはずの竜騎士たちが徐々に形を成してくるのを見て、それ以上追及するのはやめた。
 ウォルトは再び弓を構え、矢を放った。その隣で、スーの放った矢の鋭い音も響いた。ウォルトはそっと、彼女の横顔を盗み見た。
 スーの目はいつも鋭い。まるで獲物を狙う鷹のようだった。そんな彼女を、ウォルトは尊敬していた。彼女の弓には迷いがないのだ。そして、決して外すこともない。
「ウォルトは、困るのかしら」
「……へっ?」
 突然スーに話しかけられて、ウォルトは間抜けな声を出してしまった。いつの間にかスーは、ウォルトの目を真っ直ぐに見つめていた。
「私があなたの隣にいると、迷惑?」
 意外な質問だった。ウォルトは驚きながらも、首を横に振った。
「そんなことないよ! むしろ、スーさんがいると心強いし」
「そう。安心したわ」
 スーは幾分か優しげな声で言った。まるで彼女の纏う風のような、穏やかな声だった。
「ウォルト、あなたはそうではないかもしれないけれど」
 矢をつがえたスーが、言葉を続ける。
「あなたといると、何故か安心して戦える気がするのよ」
 言い終わった直後、スーの放った矢が竜騎士を貫いた。寸分の狂いもなかった。竜は苦しむように不規則な動きを見せた後、墜落していった。また地響きのような、大きな音がした。
 ウォルトはスーの射る形のあまりの美しさに目を奪われていたが、はっと我に返った。
 スーの言葉を、またしても意外に思った。それはスーがそんなことを言ったからではなく、自分も同じようなことを思っていたからだ。
 再び矢を取り出しているスーを見ながら、ウォルトは言った。
「僕も同じだよ、スーさん」
 えっ、と、小さな声が聞こえて、スーがウォルトの方を振り返った。
「僕も、そうなんだ。スーさんが近くにいると、安心できる。さっきも言ったけど、すごく心強いしね」
「本当に?」
「うん。驚いたな、スーさんが僕と同じことを思ってたなんて」
 ウォルトが笑顔で言うと、スーも口元に微笑みを浮かべた。スーの笑う顔をあまり見たことのなかったウォルトは、思わずどきりとしてしまった。
 ――可愛いなあ、スーさん……
 そんなことまで思ってしまい、ウォルトは赤面した。
 僕は一体何を考えているんだろう。そう自問した時、スーがウォルトの表情の変化に気付いて、怪訝そうな顔をした。
「どうしたの? ウォルト。顔が赤いわ」
「い、いや。なんでもないよ」
 ウォルトは首を振って、ごまかすように笑った。スーはしばらく不思議そうな顔をしていたが、表情を引き締め、再び戦闘態勢を取った。ウォルトも矢を取り出し、一息ついてから、矢をつがえた。
 初めてスーと話した時、スーはウォルトに思いもかけない疑問をぶつけてきた。何故馬に乗らないのか、と。
 ウォルトは驚いた。ずっと地に足を付けて弓を扱ってきたものだから、マーカスやアレン、ランスのように馬に乗るなど、考えもしなかったのだ。
 それからスーの言うことが気になって、進軍の合間に一度馬に乗ってみたことがある。だが馬を操った経験のないウォルトには、背にしがみついて振り落とされないようにするだけで精一杯。その上で弓を扱うなど絶対に不可能だと、体の感覚が告げていた。
 確かに機動力は劣るが、地に足をつけていれば安定して照準を合わせ、矢を放つことができる。この方が性に合っているようだとスーに言うと、スーは微笑んで納得してくれた。
 弓という共通の武器が引き合わせた縁。不思議なものだなあと、ウォルトは思う。この弓がなければ、スーがウォルトに興味を持つことも、ウォルトが試しに馬に乗ることもなかっただろう。何より今、こうして隣にいることもないはずだ。
 スーは確かに不思議な雰囲気を纏った少女だが、決して冷たいわけではない。しばらく一緒にいるうち、ウォルトはそれが徐々に分かるようになった。
「ウォルト」
 再び声をかけられて、ウォルトはつがえていた矢を下ろした。スーがまた、こちらを見ていた。
「ロイ様に言われたわ。私たちも、本隊より前に向かうようにと」
「あ、分かった」
「私の後ろに乗って。振り落とされないようにね」
「うん」
 そう答え、スーの愛馬にまたがったまでは良かったが、ウォルトは手をどこにやろうか迷った。
 そうしているうちに、スーが後ろを振り返った。
「何をしているの? そのままじゃ振り落とされるわ。私の体に手を回して」
「い、いいの?」
「迷っている暇はないわ」
 スーは抑揚のない声でそう言い、前を向いた。ウォルトはおそるおそる、スーの体に手を回した。衣服越しでも、彼女の体に触れることが、何故か恥ずかしく感じられた。
「痛くない? 大丈夫?」
「平気よ。しっかり掴まっていて」
 スーはそう言って、手綱をぴしゃりと打った。
 まるで風になったようだった。ウォルトは振り落とされないように必死だったが、徐々に慣れてくると、その速さに心地よさを感じるようになっていた。
 やがて先頭部隊がいる場所まで辿り着いた。掴まるのに必死だったウォルトは、馬が止まったのにも気づかず、スーの体を抱きしめたままでいた。
「ウォルト? もう着いたわ。下りて」
「あっ……ご、ごめん」
 スーの声で我に返り、ウォルトは慌ててスーから離れて馬を下りた。なんとなく気まずい気がして、ウォルトは自然とスーから少し離れていた。
 急に心臓の鼓動が大きく、そして速くなった。ウォルトはそれを振り払うように矢をつがえた。だが、どうしても心が落ち着かない。照準が定まらない。
 これではいけないと、ウォルトは首を振る。その時にスーの姿が視界に入って、また、ウォルトの心が乱れてしまう。
 ――スーさんと離れたからかな、こんなに安心できないのは……
 ウォルトはそっと、スーの近くに戻ることにした。すると不思議なことに、心が落ち着いてきた。暴れ回っていたはずの心臓が大人しくなって、規則正しい鼓動に戻って行った。
 ウォルトはよし、と小さな声で言うと、再び矢をつがえた。今度はもう、手が震えることはなかった。
 ウォルトが放った矢は、敵を真っ直ぐに射抜いた。


 敵を一掃した同盟軍は、一時の休息を取ることになった。
 スーは一人、弓の手入れをしていた。ウォルトを誘おうと思ったのだが、彼はロイに呼ばれてどこかへ行ってしまっている。
 スーが一人で黙々と手入れを続けていると、突然、ダヤンの低い声が響いた。
「スー」
 スーは手を止めて、ダヤンの方を見た。
「何かしら?」
「今日はわしらに追いつくのが少し遅れていたようだが、一体どうした?」
 ああ、とスーは言った。
「ロイ様たちの本隊と一緒にいたのよ。そちらを守る者も必要ではないかと思って」
「そうか」
 ダヤンは一度は納得したように頷いたが、思い出したように付け加えた。
「ああ、それに。近頃は、あの弓を扱う若者と一緒にいるようだが」
「ウォルトのこと?」
 ダヤンは頷いて肯定した。
「歩兵とわしら馬に乗る者では、どうしたってずれが出てくるだろう。気にはならないのか」
「ならないわ」
 スーはきっぱりと言い切った。ダヤンはほう、と言って顎に手を当てた。
「お前がそこまで言い切るとは。余程、強い理由があるのだろう」
「ええ、だって」
 スーはそこで言葉を切り、続けた。
「彼は安心をくれる人だから」
 スーの唇には、めったに見せない微笑みが浮かんでいた。
 ダヤンはもう一度、今度は完全に納得したように、そうか、と頷いた。
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