ゼラニウム

「さて、どうしたもんやろか……」
 部屋から出た後、ツキはしばし思案に暮れた。
 夕暮れ時にルクスリアの王都テオスアウレを訪れた一行は、そのまま宿屋アナスターシスにて一泊することとなった。割り当てられた部屋に荷物を置いた後は自由行動となり、ドライバーやブレイドたちはそれぞれの目的を持って街中へ出て行った。彼らを見送った後、部屋に一人きりになったツキは、ようやく重い腰を上げて部屋を出てみたはいいものの――特にしたいことも何かをするあてもなく、途方に暮れていたのである。
 とりあえず夕飯時なので腹ごしらえをせねばと思うが、何を食べようかそれすらも定まらず、どうしょう、と小さく溜息をついた、その時だった。
「おお、ツキ! こんなとこにおったんか!」
 背後から大きな声が聞こえて、ツキは驚いて振り返った。そこにはいつものように口角を僅かに上げて笑う、ツキのドライバー――ジークの姿があった。
「なんや、ジークか。えろう大きい声出して、びっくりしたやないの」
「すまんな。みんなさっさと外行ってもうたから、誰か残ってるとは思わんかったんや」
 そういえば、とツキは首を傾げた。ジークこそ真っ先に出て行きそうなものを、何故自分と同じくこの時間まで宿屋の中にいたのだろうか。
「ジークこそ。もう誰かとどっか行かはったんやとばかり思ってたわ。サイカはんとは一緒やなかったん?」
「いや、それがな」
 ジークは眉間に皺を寄せた。
「サイカはなんや、居住区の方におすすめのコスメの店があるとか言うてな。メレフやカグツチやらと女同士で盛り上がって、さっさと行ってしまいよったんや」
「ああ。部屋の中で楽しそうに話してはると思ったら、そういうことやったんやね」
 荷物を置いた後の彼女達の楽しそうな姿を思い出し、ツキは納得するように頷いた。
 化粧品ならツキにも興味がある。せっかくなら混ぜてもらいたかったような気もすると思いつつ、それを口に出すとジークがますます難しい顔をしそうなので、黙っておいた。
 それで、とジークが話題を変える。
「ツキはどっか行くつもりやなかったんか?」
「私は……」
 ツキは答えに窮した。ジークが顔を覗き込んでくる。
「特に予定、ないんか?」
「そうやね……どうしようか迷てたとこや」
「ほな、ちょうどええ。ワイと一緒にメシ食いに行こや」
 ジークが親指を立てて、ついてこいと言わんばかりに自分の背後を指す。その表情が、不思議といつも以上に頼もしく見えた。
 ようやく行き先が見つかった。ツキは頬を緩めた。
「かまへんよ」
「よっしゃ。決まりやな」
 ジークは白い歯を見せて笑った後、宿屋の入り口に向かって歩き始めた。
 ツキも半歩後ろから、それに続いた。


 エルム広場に向かう途中、ジークは軽くツキを振り返りながら尋ねた。
「なんか食べたいもん、あるか?」
「そうやねぇ……それも含めて、どうしょうかなと思ってたんよ」
「ほな、適当に見て回ろか」
 二人が最初に訪れたのはレクティッカベジタブル、その名の通り野菜類を扱う店だった。
 店の奥の大鍋では野菜煮込みルーシチが湯気を立て、その横の鉄板では名物の英雄アデル焼きのタネがのせられている。店頭には冷たいもの、カリカリスノウピクルスやアイスキャベツの雪酢あえが容器に入れられて並んでいた。
「ツキは確か、野菜好きやったやろ?」
「覚えててくれはったん? 嬉しいわぁ」
 ツキが柔らかな笑みを浮かべると、ジークは得意げに口端をにやりとつり上げてみせた。
「そら、ワイはツキのドライバーやからな。ツキのことやったらなんでも知ってるで」
「もう、すぐいちびらはるんやから」
 たしなめるようにジークの肩を叩くと、ははは、とジークは楽しそうに笑った。
「この中やったら、ワイのおすすめは断然英雄アデル焼きやな。ガキの頃からのワイの好物や」
 ジークはそう言って鉄板を指した。じゅうじゅうと音を立てて、野菜と穀物の粉を水で混ぜたものが焼かれている。仕上げにアデルの好物だったという、伝統的な香辛料を使用するのが特徴なのだそうだ。
「美味しそうやけど、私は辛いものはあんまり」
 ツキが断ると、ジークはあからさまに残念そうな表情をした。
「なんや、ここの名物やのに。ほな、ワイはそれもらうわ」
 英雄アデル焼きを焼いている店長に声をかけ、ジークは代金を支払った。
 他の食べ物も美味しそうだったが、特にツキの食指が動くものはなく、二人は他の店に行くことにした。
 次はその隣にあるベーカリー・プロテイニだ。ルクスリアでよく食べられているという郷土料理のオーチェシャの他、フォンダン餅やマヨヤキタコなどの名物も置かれている。
 ツキの目を引いたのは、新商品として売り出されていたサモの果実あんかけだった。アルストの主食サモに、メロメロウレモンなどの果実をとろとろになるまで煮込んだあんかけをかけてあるというものだ。
「美味しそうやねぇ、あれ」
 ツキの視線の先を追ったジークは、ああ、と納得したような顔で頷いた。
「新商品か。確かに女はああいうの好きそうやな」
「私、あれにするわ。一つおくれやす」
 店主の老婆に話しかけると、はいよ、と器によそってくれた。
 器ごしに伝わるあんかけのほっこりとした温かさに、ツキの表情は自然と緩んだ。代金を支払い、店主に丁寧に頭を下げて、店を出た。
「おおきにえ」
 ツキは代金を支払ってくれたジークに礼を言った。ジークはなんてことはないとでも言うように、ひらひらと手を振った。
「かまへんかまへん。ブレイドのメシの用意してやんのも、ドライバーの仕事やからな。礼はいらんで」
 ジークはそれだけ言って歩き始めた。
 そうは言うけれど、先日スペルビアでよりにもよって砂嵐の日にコンタクトレンズをなくし、代わりのものを購入したことでだいぶ懐が寒くなっていたことを、ツキは知っている。ドライバーがブレイドの食事の世話をするのは当然のこととはいえ、そんな事情をおくびにも出さず代金を支払ってくれたことが、単純に嬉しかった。
 西の広場への階段を降りていくジークの黒いマントが、風に煽られてひらひらと泳ぐ。
 ツキは目を細めて、その逞しい背を追った。


 パティスリー・プラークス前の広場で、二人は一つのテーブルに落ち着くことにした。
「いただきます」
 しっかりと手を合わせてから、二人はそれぞれが買ったものに手をつけた。ジークはアデル焼きにかぶりつき、満足げに唸った。
「やっぱこの味やー! これ食べんと、ルクスリアに帰ってきた気がせえへんな」
 ツキはスプーンでサモの果実あんかけをすくい、口に入れる。優しくほっこりとした味わいに、思わず笑みがこぼれた。自分好みの味だ。
「これ、美味しいわあ……身体だけやのうて、心まであったまるような気がする」
「そないに美味かったんか?」
 ジークは手を止めて、ツキの方へ身を乗り出してきた。
「ほな、ワイにも一口くれ」
 そう言って、獲物を待つ大魚のように大口を開けるジークに、ツキは非難めいた視線を向ける。
「もう、お行儀悪いわ。私に何を期待してはんの? 赤さんやあらへんのに、食べはるんやったら自分で食べよし」
 ぴしゃりと言われて、ジークは不満そうに口を尖らせた。
「なんやねん、つれないなぁ。ちょっとぐらいええやんけ」
「もう。何を甘えてはるんやら」
 ツキは冷めた声でそう言って、ほら、と、ジークの近くに果実あんかけの器を置いた。
 冗談やのにノリ悪いわ、とジークは拗ねた子どものようにぶつぶつと呟いた。それを横目で見ながら、ツキはそっと、唇の端に笑みを浮かべる。
 本気で言っていないのは分かっている。だからこそ、彼とこういうやりとりができるのが何とも心地良く、小気味よいのだ。
 ――私もだいぶ、ジークに毒されてきたんかもしれへんね。
 そんなことを考えて、ツキは内心苦笑した。
「おおっ! これ、なかなか美味いな! 甘いモンはご飯にはならんと思ってたけど、これ、案外いけるわ」
 サモの果実あんかけを一口食べたジークが、興奮気味に声を上げた。先程の不満げな様子とは打って変わって、きらきらと目を輝かせている。そのまま一口と言わず二口、三口と食べ進めてしまうジークを、ツキは制止することもなく微笑ましく見守った。
 やがて少し食べ過ぎてしまったことに気付いたらしいジークが、やってしまったと言わんばかりに頭を抱えた。
「すまん、ツキ。ようけ食べてしもた……」
「ええんよ。私が選んだもんを気に入ってもらえて、なんや嬉しかったわ」
 ツキは心からそう口にしたが、ジークはあまり納得していない様子で、自分の買った英雄アデル焼きを差し出してきた。
「代わりやないけど、これ、ツキもいっぺん食べてみ。確かに辛いは辛いけど、ただ辛いだけやない。ほんまに美味いから」
「ほんま? ほな、ちょっといただきましょか」
 ツキは手元で小さく切って、口に入れた。
 ルクスリアの伝統的な香辛料とやらの辛さは確かに目立ったが、それ以上に細かく切った野菜の歯ごたえと、それをまとめる穀物粉の柔らかさが絶妙に混じり合い、なんともいえぬハーモニーを生み出していた。庶民的な味といえばそうだが、長く親しまれてきた理由がよくわかる。
「美味しいわ。ちょっと辛いけど、野菜がシャキシャキしてるのがええね」
「せやろ? この辛さにも意味があってな、これが平気な顔で食べられるようになったら一人前っちゅうて、ルクスリアの子どもの間で憧れられとんのや。英雄アデルの名前もかかってるしな」
 サモの果実あんかけを食べたときと同じ、いやそれ以上に目をきらきらと輝かせて話すジークは、まるで少年のようだった。まだ外の世界を知らず、将来に対する希望だけを持って生きる、無邪気な少年そのもの。
 ジークにもきっとそんな時期があったのだろうと思うと、ツキは頬が緩むのを止められなかった。
「ジークも、アデルに憧れてたことがあったんやね」
「そら当然や。ルクスリアはあの、世界を救った英雄アデルが興した国――そう言われたら、誰だってアデルに憧れるわ」
 言った後で、ジークの瞳に陰りが宿る。
「まあ、それも全部大嘘やったんやけどな」
 ジークの表情からあっという間に、少年のようなみずみずしさが消え去った。世間を知り、自分の身の丈を知り、理想と現実のあまりに深い溝を知った、“一人前の大人”に戻ってしまった。
 だが、それ以上に複雑な感情がその右目に宿るのを、ツキは見抜いてしまった。彼が雷轟のジークではなく、ルクスリアの第一王子ジーフリトであるからこその、憂いと悲しみ。
「――この国を継ぐこと、躊躇ってはるの?」
 ジークの眉がぴくりと震えた気がした。ツキは図星を指してしまったのだと確信した。
 ジークがこの国を出た理由は知っている。単純な好き嫌いで王位の継承という重要な事項を決めるような性格でないことも、無論。ならば、彼が躊躇う理由は――
「全ては、この滅びゆくアルストを救ってから、っちゅうことにはなるけどな」
 そう前置きして、ジークは顎に手を当てながら話し始めた。
「ワイの先祖は嘘つきやった。アデルの血なんかこれっぽっちも引いとらん、ただの一般人、偽者や。それを知ってしもた今、ワイには王族として偉そうに人の上に立つ資格なんかないんやないかと思てる。もし、ルクスリアの民が偽者の王族を拒むんやったら、ワイは王族としての地位を手放す」
 ツキは静かに目を伏せた。
 彼の子孫と信じ、憧れ、信奉とまではいかなくとも心の拠り所にしていたであろうアデルとの繋がりを否定された時のジークの衝撃はいかほどのものか、察するにあまりある。彼自身の人間としての価値が落ちることはなくとも、彼を構成していたはずの一つのピースが抜け落ちてしまったことには違いない。それはジークにとって、自分というものを否定されたに等しい出来事だったのだろうと、容易に想像がついた。
 彼の心の痛みに思いを巡らせ、ツキは息が詰まるような感覚に襲われた。それでも、訊かずにはおれなかった。
「それは、この国を捨てる、いうこと?」
「……ちゃう。そうやない」
 一拍置いた後、ジークは怒りにも似た口調できっぱりと否定した。ツキは安堵した。
「嘘の歴史で塗り固められた偽の王族でも、それでも民が望んでくれるんやったら、ワイは王位を継ぐ。民と国のために生きていく。いや――もし、望まれなかったとしても、この国が王なしでも発展していけるようになるまで、王として国のために全力を尽くす。歴史から消えるのはそれからでも遅うない。それくらいの覚悟はあるつもりや」
 ジークは唇を真一文字に結ぶと、先にも増して真剣な瞳でツキと相対した。
 ツキは黙って、その覚悟を受け止めた。
 偶然とはいえ彼の手によってこの世に生を受け、彼のブレイドとして生きることとなったツキにとって、それは決して他人事ではない。彼の生きる道が、そのままツキの生きる道となる。彼が意図的ではないにせよ、サイカのコアクリスタルをその身に受け入れたことは知っていた。であるからこそ、普通の人間よりも遙かに長い、永久とも思えるような寿命と若さを手に入れてしまったことも。
 だから、この覚悟は何よりも重い道標となる。
「その未来、私にも一緒に見せてくれはる?」
 ツキがそう尋ねると、ジークは固く結んだ唇をほんの少し綻ばせた。
「おう。むしろ、お前の力が必要や、ツキ」
 彼の言葉は確かな鎖となって、ツキをジークと繋ぎ合わせてくれた。ツキにはそれが、何よりの喜びとなった。ブレイドとして、よりも、ツキという一つの人格として、彼の力になりたいと、心から願う。
 時折発せられる奇妙な言動とは裏腹に、ジークが誰よりもこの世界の未来を考えていること、身近な者達を大切にしていること、祖国を愛していることを、ツキは知っていた。
「この国の歴史がどうであれ、ジークの、あなた自身の歩んできた歴史は、ほんまもんなんや」
 せやから、とツキは微笑む。
「何にも後ろめたいことなんてあらへん。堂々と、あなたの道を歩いたらええんよ。あなたの心の赴くままに。ジーフリト殿下」
 ジークが一瞬、はっと息を呑んだ。
 刹那、彼の口からこぼれたのは、安堵に似た溜息。
「おおきに」
 ジークの緑青の瞳に、新たな光が宿る。
 彼の安堵と決意を後押しするように、ツキはゆっくりと頷いた。



 ゼラニウムの花言葉…決意、信頼、君ありて幸福
(2018.1.26)
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