01.健やかなるときも、病めるときも

 ルネスで盛大な舞踏会を開こう――そうラーチェルが提案してきたのは、ちょうど一ヶ月前のことだった。
 お祭り好きの彼女のことである。そうと決まればすぐに動き、舞台の設置や飾り付けをしたり、舞踏会のための夜会服を仕立てたり、各国に住まう友人たちへ招待状を送るなど、一人であらゆる準備を着々と進めていた。エフラムがしたことといえば、仕立て屋が提案してきた夜会服のデザインに対し、これでいいと頷いただけである。特別こだわりもなかったために、エフラムは出された提案をただ素直に受け取るだけなのであった。
 そうして、ようやく開催が一週間後に迫った、今日のこと。
 エフラムが執務室で騎士団に関する書類を読んでいると、突然扉が激しく叩かれた。エフラムの返事を待たずに入ってきた侍女は、こちらが気の毒になるほど真っ青な顔をしていた。
「どうした?」
 ただならぬ様子を感じてエフラムが椅子から立ち上がると、侍女は言った。
「エフラム様、ラーチェル様が、ラーチェル様が……」
「ラーチェルに何かあったのか」
「急に倒れられて……とにかく、すぐにいらしてください!」
「何!?」
 エフラムは机の横を素早くすり抜け、侍女よりも先に部屋を飛び出した。ルネス城の廊下を脇目もふらず走り抜け、彼女の部屋に辿り着くと、扉を叩くこともせずに乱暴に開け放った。部屋に入る時は、いくら夫婦といえどもノックをするのが常識ですわよ――以前されたラーチェルの忠告など、思い出す暇もなかった。
 エフラムが息を荒くしながら入り口に立ちはだかると、ラーチェルのベッド脇に立っていた若い侍女と初老の医者が、一斉にエフラムの方を振り向いた。
「ラーチェルは、ラーチェルは無事なのか!」
 鳴り響く足音も気にせず必死の形相で部屋に入り込むと、口元に白い髭をたくわえた医者は静かに頷いた。
「エフラム様、少しお話がございます。お時間をいただけますかな」
「ラーチェルのことか? 分かった」
 エフラムは承諾した。目を閉じたまま眠っているらしいラーチェルの顔を見た後、彼女のことは傍らの侍女に任せ、エフラムは医者と共に部屋の外へ出た。医者の雰囲気がどこか張り詰めているようだったので、エフラムは知らず知らずのうちに緊張を覚えていた。
 廊下で医者と対面し、エフラムは思わず唾を呑む。
 医者はしっかりとエフラムの瞳を見つめ、僅かに顎ひげを弄る仕草をした。何を言われるのか、と身構えたその時、医者の口から出てきた言葉に、エフラムは思い切り目を見開くことになった。
「――おめでとうございます」
「……は?」
 間抜けな声が口から洩れる。医者は髭面に微笑みをたたえ、穏やかな表情で言った。
「ラーチェル様は、妊娠しておられます」
「にん……しん?」
 咄嗟に、その四字の言葉の意味が理解できなかった。働かなくなっていた頭を無理矢理回転させて、ようやくその意味に行き当たる。からからに乾いた喉を唾液で潤し、医者に詰め寄った。
「それは、本当なんだな?」
「はい。確かでございます」
 詰め寄られても動揺する素振りを見せず、医者はきっぱりと頷いた。急に、エフラムの全身から力が抜けていくのを感じた。気を緩めればその場にへたりこんでしまいそうになり、慌てて気を引き締める。いずれは、と思っていたことだが、こうも突然だと心の準備をすることができず、動揺を隠しきれないでいるのだった。
 ――ラーチェルと……俺の子か。
 ちょうどその時、中にいた侍女が部屋の外に出てきた。扉を静かに閉めた後、侍女は穏やかな微笑みを見せた。
「エフラム様、おめでとうございます」
「ああ……」
「ラーチェル様が、エフラム様とお話がしたいとおっしゃっていますわ」
「そうか、わかった」
 医者と侍女に短く礼を告げた後、エフラムは妙に緊張しつつも部屋の扉を開ける。ラーチェルはベッドから起き上がっていて、桃色の唇に微笑みをたたえ、エフラムを見つめていた。
「ラーチェル、身体は平気なのか」
「ええ。エフラムには心配をかけてしまいましたわね」
「そんなことはいいんだ。君が無事ならば」
 本心からの言葉を言うと、まあ、とラーチェルは微かに頬を赤らめた。そうして視線を落とし、自分の腹をゆっくりとさする。
「医者から、話を聞きまして?」
「ああ。君が妊娠した、と」
「ええ……未だに、実感が湧きませんわ。わたくしのお腹に、赤ちゃんがいるだなんて」
 愛おしそうに目を細め、しかしその瞳に微かに不安が宿るのを、エフラムは見逃さなかった。
「一週間後、でしたのに……」
 俯いて、小さく呟かれた言葉。彼女は舞踏会のことを気にしているのだろうとエフラムは気付いた。あれだけ楽しみに準備を進めていたのだ、気にならないはずがあるまい。しかしながら、身重と分かったラーチェルをあのような華やかな場に連れて行くわけにもいかなかった。
「何も心配しなくていい」
 驚きに見開かれたラーチェルの翡翠の瞳を見つめ、はっきりとした口調で言った。
「君は君自身と、お腹にいる子供のことだけ考えていればいい」
「エフラム……」
 ラーチェルは目を伏せ、長い睫毛を揺らした。
「もちろん、貴方との子が出来たのは本当に喜ばしいことですわ。けれど、わたくし、とても楽しみにしていましたの。あなたとあの大広間で、靴を鳴らしながら踊ることを」
「踊ることなら、いつだってできる。この子が生まれてからでも、遅くはない」
 お腹の上で止まっているラーチェルの手を、エフラムは膝を折り、強く握った。ラーチェルはしばらく考え込むように俯いていたが、やがて納得したように穏やかな表情となり、エフラムの顔を見上げて頷いた。
「……そうですわね。では、貴方のお言葉に甘えますわ。舞踏会には最初だけ出席して、あとは部屋で休むことにします」
「ああ。決して無理はしないでくれ」
 エフラムがそう言うと、ラーチェルは一瞬戸惑ったように目を見開いた後、くすくすと笑い声を洩らした。
「まあ。戦場でわたくしが何度言っても無茶をやめなかった人が、他人に向かって『無理をするな』なんて言えるようになったんですのね」
「それを言われると辛いな……だが、それとこれとは別だろう?」
「別ではありませんわ。例えば、エフラム、想像してご覧なさいな。わたくしが貴方の忠告を聞かず、舞踏会で踊り始めたら、どう思われますの?」
 エフラムは頭の中で想像した。踊り始めたはいいがすぐに辛そうな顔になり、やがて倒れ込んでしまうラーチェルを想像し身震いした。自分が無茶をするのは自己責任だからどうとも思わないが、愛しい相手が無茶をした挙げ句倒れてしまうのを見るのは決して快くはない。
 溜息を吐いて、首を振る。
「俺は、これ以上冷や冷やするのは御免だ」
「それでは、あの時のわたくしの気持ちも、少しは分かっていただけたということですわね」
 満足げな笑みを浮かべるラーチェルに、エフラムは降参の意を込めてもう一度首を振った。
「ああ。いつも君を心配させていたのだな、すまなかった」
「いいえ。貴方がそういう人だと、もう十分に分かっていますもの。今更、無茶をしないでくださいまし、なんて言いませんわ」
 ラーチェルは微かに笑った後、すっと緩んだ頬を引き締める。
「けれど、睡眠は十分に取らなくてはなりませんわ。貴方の目が真っ赤なのは、わたくしを案じて涙を流したからではないのでしょう?」
 今度はエフラムがはっとさせられる番だった。何と返せばいいか戸惑っているエフラムに、何もかも見通しているとでも言うように、ラーチェルは静かな微笑みを浮かべた。
「少しは自分の心配をする癖を付けた方がよろしいですわ。わたくし、貴方の代わりに貴方を心配しすぎて、倒れてしまうかもしれませんもの」
「ああ……そうだな、分かった」
 エフラムは頷いた後、かなわないな、と天井を仰いだ。前日片付ける仕事が多くて徹夜をしてしまったのだが、それすらも見抜かれていたとは。騎士や侍女たちが何も言わないから、誰にも気付かれていないのだと思い込んでいた。
 エフラムは立ち上がり、乱れたマントの皺を払った。
「それでは、今日はゆっくり身体を休めてくれ。また来る」
「ええ。もう一度言いますけれど、無理はしないでくださいましね」
「ああ」
 身体を翻し、エフラムは外へ出た。
 するとちょうど、廊下の向こうから歩いてきたゼトと目が合った。ラーチェルの妊娠のことは告げず、ただ一言、真面目を絵に描いたような騎士に尋ねる。
「なあ、ゼト。俺の目、赤いか?」
 唐突な質問にゼトは疑問符を浮かべていたが、やがて静かに首を振った。
「いいえ、そうは見えませんが。――まさか徹夜されたとか?」
「いや、いいんだ。変なことを聞いて悪かった」
 エフラムは小さく手を振り、未だ怪訝な顔をしているゼトに背を向けて歩き出した。――やはりラーチェルにはかなわんな、と、心の中で小さく呟きながら。
拍手ありがとうございました!(2010.7.12)
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