時折、奇妙な夢を見ることがある。
がっしりとした逞しい腕に抱きかかえられて、自分はそれを何の疑いもなく受け入れている。直後、視界を走る青白い軌跡。全てが真っ暗になって、やがて目が覚める。ただそれだけの夢なのだが、エーヴェルの心に妙に生々しい爪痕を残していくのだ。あの腕の感触を、自分は確かに覚えている――自分の肩を抱きながら、エーヴェルは溜息をついた。
自分には、過去の記憶がない。それ故に過去、どのような人と交わりを持っていたのか、そして契りを交わしたことはあるのか、それすらも分からないのだ。周囲にいる優しい人々のお陰で、記憶を失ったことを悲しく思う気持ちはだいぶ薄れてきた。しかしながら、この夢を見た後はいつも考えてしまう。もしかしたらあの腕は、自分のかつて大切だった人の腕の感触ではないのかと――
心の奥がじんと疼く。けれどもこればかりはどうしようもなくて、エーヴェルはベッドから降りながら、もやもやとした思いを持て余すしかできないでいるのだった。
今朝も、あの夢で起こされた。記憶の戻らないもどかしさをこんなにも感じたことはないと思いながら、居間に向かう。台所には既にナンナがいて、スープのよい香りが立ち上っていた。
「ナンナ様、もう起きていらしたのですね」
「エーヴェル、おはよう。今日は何故か早くに目が覚めてしまって」
ナンナはスープの入った鍋をかき混ぜながら、微笑んだ。その隣に立ち、エーヴェルも朝食の準備を始める。
包丁を手に取り、サラダに使う野菜を刻んでいるとふと、ナンナの手が止まっていることに気付いた。視線を感じたエーヴェルも手を止め、ナンナの方を見る。
「ナンナ様、どうかなさったのですか?」
「エーヴェル、ずっと気になっていたのだけれど」
ナンナの視線は、包丁に添えられたエーヴェルの左手に向かっていた。
「エーヴェルの左手の薬指……指輪の跡があるのね」
ああ、とエーヴェルは包丁を置き、左手を右手で包み込んだ。
左手の薬指にくっきりと残る、指輪の跡。それはエーヴェルの記憶が存在する前からあったらしい。それなのに、いつまでも消えずに残っているのだ。
左手薬指に指輪という事実が意味することは、ただ一つ。けれどもエーヴェルに、その記憶はない。今朝見た夢が頭の中に蘇り、エーヴェルはその指輪を贈ってくれたはずの相手に思いを馳せた。
ナンナはしばらくエーヴェルの手を見つめていたが、エーヴェルが目を細めるのを見て、視線を逸らした。
「ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまったかしら」
「いいえナンナ様、どうかお気になさらず。私には過去の記憶がありませんから、この指輪を贈ってくれた人のことも、何も思い出せないのです」
そう、とナンナは自分のことのように辛そうな顔をした。
思い出したい――エーヴェルは指を握り、強く願った。この指輪を贈ってくれた人のことを。夢に何度も出てくる、自分を温かい腕で抱き寄せてくれる人のことを。暗転する直前に目の前を走る、青白い光を。
「でも、きっとその人は……エーヴェルのことを大切に思っていたに違いないわ」
再び鍋と向き合いながら、ナンナが呟くように言った。エーヴェルも手を離し、再び包丁を握りながら、小さく笑う。
「ええ。そうだったらいいですね」
他人事のように。けれどもそれは、本心からの言葉。
隣から漂うスープの香りを息一杯に吸い込みながら、エーヴェルはそっと指輪に視線を落とした。
――青白い軌跡で途切れるあの夢を、もう一度見たいと心から願いながら。