演奏会のためウィーンに出張していた聖司が帰ってきたのが、ちょうど今朝のこと。
空港まで出向いた彼女を、聖司は人目も気にせず思い切り抱き締めた。
「お前に会いたかった」
以前は自分の思い――好意的なものは特に――を素直に表に出すような人ではなかったのに、結婚してからはこうした直接的な愛情表現が多くなったような気がする。学生時代から聖司の文句や皮肉に付き合ってきた彼女にとっては、この変化は違和感を感じるものですらあった。彼女は痛いほどに抱き締められながら、嬉しさと驚きの混在した複雑な思いを抱えることになった。
「俺がいない間、何も変わりなかったか」
空港の出口に向かって歩きながら、聖司が尋ねる。
「はい、何も。といっても、一週間ほどでしたから」
「一週間ほど、じゃない。一週間も、だ。お前は俺がいなくて寂しくなかったのか」
聖司がやや不機嫌そうな表情で問い詰める。一瞬言葉に詰まった後、自信なげに目を伏せ、ぽつりと呟くように言った。
「寂しくなかった、といえば嘘になりますけど……」
「けど、何だ。こんな思いをしていたのは俺だけだって言うのか? ……そんなわけないだろ」
聖司は言い捨てると、歩く速度を一段と速めた。一歩遅れて、彼女も続く。彼の不機嫌の原因は分かっていたが、なんとなく宥めて機嫌を取る気にはなれなかった。というよりも、彼女自身はこの状況を楽しんでいた。
聖司の愛情表現が今までに比べて深くなったのは、彼自身も気付かない心の奥に強烈な独占欲を抱えているせい。聖司の見えないところに行くと怒り、親しげに他の男性と話すと拗ね、歩く時は自分の手を引いて歩かねば気が済まない。幼い子供が母親の愛情を独占したがるように、聖司もまた彼女を独占したがっている。
白いシーツの上で抱き締め合う時、いつも彼が囁くのは『お前が足りない』という言葉だった。束縛されているのではなく、必要とされている――その感覚は彼女の全身を心地よく痺れさせ、喜びの天上へと誘うのだった。
「聖司さん。何を怒ってるんですか?」
「うるさい。お前には関係ないだろ」
へそを曲げてしまった子供のようにやりとりを拒絶する聖司を見て、彼女は密かにくすくすと笑う。大きなキャリーバッグを引きながら早足で歩き続ける聖司に、後ろからそっと抱きついた。
「聖司さん」
耳許で囁くと、聖司の身体が大きく震えるのが分かった。
「っ、何するんだ、やめろ」
「私も寂しかったです。この一週間、聖司さんの写真に何度もキスしていたくらい」
聖司がはっと顔を上げるのが分かった。そろそろと後ろを振り向いて、疑うような目で彼女を見つめる。
「……嘘だろ?」
「嘘じゃないです。この一週間、聖司さんにおはようとおやすみのキスができないのが寂しくて……」
半分嘘で、半分本当。聖司の写真に唇の跡は付いていないが、ベッドの中で寂しい思いを抱えながら眠っていたのは事実だ。聖司が自分を欲していたのと同じくらい、自分も聖司を強く求めていた。演奏会の練習やリハーサルで毎日くたくたになっているだろうからと電話もしなかったが、本当は声が聞きたくて仕方がなかった。
聖司はこちらに身体を向けると、微かに顔を赤らめながらも満足げな笑みを浮かべ、彼女の顔に手を沿わせた。
「そ、そうか。お前、そんなに俺が欲しくて仕方がなかったのか」
「はい」
「なら……望み通りにしてやる」
沿わせていた手で顔を近づけ、優しく口づけ。それは彼女が欲していたことであり、何より聖司自身が欲していたことでもあった。唇が触れ合っている間は、自分と相手が一体になれる。一体になっている間だけは、誰にも邪魔されず相手を独占できる。
息苦しくなって離れた時も、聖司は彼女の顔から手を離さなかった。荒く息を吐き出しながら、囁く。とびきりの切なくて甘い声で。
「お前が欲しい」
彼を上目遣いに見上げて、そっと微笑む。
それが合図だとでも言うように、聖司は再び唇を奪った。