宿屋で夕食を終え、アスベルは部屋に帰らずに一人でユ・リベルテの街へと出向いた。街全体を包み込むような穏やかな雰囲気は昼と全く変わらない。とっぷりと日が暮れて、店を畳み始める店主達の姿もちらほらと見受けられた。
商業区中央部の花壇の縁に設けられているベンチに腰を下ろしたアスベルは、膝の上に肘を置いて両手を組んだ。すっかり陰に占領されてしまった建物と、その脇に立つほのかな街灯が視界に映る。それらをぼんやりと眺めながら、一つため息をついた。
昼間の出来事が頭を駆け巡る。
ソフィが行方不明になった自分の娘に似ている、と言う貴婦人が現れたときは驚いた。とうとう七年前から追い続けていたソフィの身元が判明したのかと、アスベルの気は自然と高まった。
だがそれは結局間違いであったことが分かり、アスベルたちはメイドから真実を聞かされる。ソフィに似たその娘は、既に砂漠で命を落としたのだという。アスベルたちは西の砂漠で娘の形見を見つけ、宿屋の依頼を通じてメイドに渡すことができた。
そこでひとまず一件落着した、のだが。
結局ソフィが一体何者なのか、その謎が明かされることはなかった。だがアスベルは、その方が良かったと感じている自分に気が付いた。そんな考え方を一瞬でもしてしまった自分を恥じたが、自分の本心まで誤魔化すことはできなかった。
何よりソフィにあんなことを言われてしまうと、これ以上ソフィの記憶探しの旅をすることなど耐えられなくなってしまう――
思い出して再び溢れそうになった涙をこらえるため、わざとらしくため息をついたその時、自分の足下にもう一つの足が現れたのに気付いた。
「アスベル、どうしたの?」
声をかけられて、はっと顔を上げる。するとそこには、見慣れた顔の少女が一人。小首を傾げて、頭上に疑問符を浮かべている。
「ソフィ……」
愛しい少女は、常に自分の傍らにいた。どんな時も、いつも。今も宿屋に自分の姿が見えないから、街へ探しに出たのだろう。
「横、座るか」
「うん」
ソフィはちょこんと、アスベルの隣に座った。夕闇の中で昼間と変わらず光る目が、アスベルの顔を見つめていた。
「アスベル、すごく辛そうな顔、してた」
「そう、だったか……?」
アスベルは驚くと同時に、自嘲気味な笑いを洩らす。勝手に宿を飛び出しただけでなく、更にそんな表情まで見せて、ソフィを心配させてしまうとは。
「ごめん。でも、辛いわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうして?」
「ソフィ、俺は」
躊躇いながら、ソフィの方をちらと窺う。
「怒らないで、聞いてくれるか?」
「うん、いいよ」
少しばかりの安堵を得て、アスベルは言葉を続ける。
「俺は最悪なことを考えていたんだ」
「最悪なこと、って?」
「その……ソフィの記憶が、戻らなければいいのにって」
ソフィの目が、驚いたように見開かれる。一瞬躊躇を覚えたが、アスベルの口は止まらなかった。
「最初は、本当にソフィの記憶が戻って、ソフィが幸せになればいいのにと考えていた。でも今はそうじゃないんだ。記憶が戻ったら、ソフィがどこかに行ってしまいそうな気がして……俺の側から離れていってしまいそうな気がして、怖くなったんだ」
アスベルは昼間のソフィの言葉を思い出しながら、涙をこらえきれなくなった。
「ソフィは俺たちのことを、家族だって言ってくれた。それを聞いたら嬉しくて……余計に、お前を手放したくなくなって……」
口から嗚咽が漏れ、それ以上言葉を紡ぐことができなくなった。人前で、ましてやソフィの前で泣くことなど、普段ならアスベルのプライドが許さなかっただろう。だが今は違った。自分自身の心にあるはずのプライドのことは頭から吹き飛び、ただただ、堰を切ったように溢れ出る涙を、手で掬い上げることしかできなかった。いたわるように、優しく肩に添えられたソフィの温かい手が、ますます涙を誘った。
「アスベル、なかないで」
「……っ……ソ、フィ……」
アスベルはソフィから顔を逸らし、顔を伝って流れ落ちる涙を懸命に拭った。こんなところで泣いて、ソフィをますます心配させてはいけない。無理矢理涙腺の奥へ涙を押し込め、アスベルは再びソフィの方を向いた。目はやや充血していたが、アスベルは笑みを作った。
「ソフィ、ごめん。俺が弱くて情けないばかりに……」
ソフィははっきりと首を横に振って、ううん、と言う。
「アスベルは、よわくないよ」
「でも……腹が立っただろう? 俺がお前の記憶を取り戻したくないって考えてるなんて」
ソフィの動きが止まる。
一瞬の後、小さな少女から導き出された答えは、またしてもノーだった。
「怒ってない。わたしは、アスベルといっしょにいられるのが嬉しいから」
そうして、冷たい石のベンチに置かれたアスベルの手に、自分のそれを重ねてくる。
「だから、思い出しても……ずっと、いっしょがいいの」
「本当、か……?」
アスベルは信じられないような目でソフィを見た。普段は注意深く観察しなければ分からないような彼女の心の機微が、何故か今は少し読み取れるような気がした。
彼女は自分に好意を抱いてくれている。そればかりか、他人に過ぎない自分と、ずっと一緒にいたいとまで言ってくれた。それが嬉しくて、また目から涙がこぼれそうになる。
彼女は今のアスベルにとっても、最も大切なものの一つになっていた。子供の頃はただの好奇心だった。彼女の記憶の先にあるものが知りたくて、一緒に居ることでそれを突き止めようとした。あの頃はソフィの記憶どうこうよりも、謎を解明する快感を一度舐めてみたくて、彼女と一緒に行動していたように思う。
だがそうしているうちに、いつしか彼女に愛着を覚えるようになっていた。もう二度と、自分の側から離したくないと思うほどに。記憶が戻ることで彼女が手の届かない場所に行くくらいなら、いっそ戻らない方がいいと考えるくらいに――
「アスベル、わたしのこと、どこかに置いていったりしない?」
「……しないよ。絶対、するもんか」
「良かった」
唇から笑みをこぼすソフィを、アスベルはひしと抱き締めた。