まだ寒さの残る冬の日、ソフィはアスベルの部屋ですっかり退屈していた。アスベルは公務があるから遊びに連れ出すわけにもいかないし、花の世話は既に朝終えたばかりである。買い物などをしに、ラントの街へ出ていく気にもあまりなれなかった。
所在なげにアスベルとヒューバートの子供の頃の机を見て回っていると、やがてメイドが中へ入ってきた。メイドはソフィがいても大して驚かず、ここにいらっしゃったのですねと微笑んだ。領主の館に仕えるメイドたちは皆、ソフィに優しく接してくれる。今まで母親代わりだったシェリアが旅に出てしまった今、その役目はメイドたちに移ったのだが、ソフィは優しい彼女たちが大好きだった。
メイドは持ってきた箒と雑巾を床に置き、そこらに散らばった物を片付け始める。
「今から掃除をしますけど、ソフィ様はいてくださっても構いませんからね」
「うん。ありがとう」
ソフィは頷いた後、今まで見ていたヒューバートの机に視線を移す。
「ヒューバートの机は、きれい」
次に、アスベルの机へ視線を移し、
「アスベルの机は、汚い」
そう言うと、メイドが手を止めてくすくすと笑った。
「お二人が幼い頃から、こんなふうでしたわ。ヒューバート様はいつも綺麗にしていらっしゃったけど、アスベル様は一度片付けてもすぐに散らかされて……」
「今も、片付けないの?」
「アスベル様がいつかご自分で片付けるとおっしゃっているから、そのままにしてあるのですが……なかなか、その日は来ないようですわね」
メイドはふふっと笑って、再び手を動かし始めた。ソフィはふうんと言って、アスベルの散らかった机の上を見つめた。文房具やら手描きの地図やらがらくたやら、彼の子供時代を窺わせるものが乱雑に放置されている。
旅の途中に何度かここへ帰ってくる機会があった時、アスベルは机を懐かしそうな瞳で眺めていたことを思い出した。彼はソフィがいなくなった後、ラントを出てずっとバロニアにいたと聞いた。彼にとってはその散らかった机自体が、幼い頃の良き日を思い出させる物なのだろう。ソフィでさえあれを見た時、胸がきゅっとなるような、不思議な感覚に襲われた。
彼と別れていた時間はソフィにとってはあっという間で、しかしアスベルにとっては長い長い時間だったらしい。アスベルたち自身も、周囲の状況もすっかり様変わりして、ソフィは最初戸惑いこそしなかったものの、どうしてこんなふうになっているのだろうと不思議に思った。ヒューマノイド故変化した環境に慣れるのは早かったが、そのことに不思議な感情を抱いた事はこれが初めてだった。
だが、時間が経っても、アスベルは変わっていなかった。相変わらず優しい目でソフィを見つめ、ソフィが疑問に思った様々なことを一つ一つ丁寧に教えてくれた。ソフィの記憶が失われていることを知っても、決して焦らずゆっくり思い出せばいい、と言ってくれた。ソフィが体調を崩した時も、必死で自分を治そうと奔走してくれた。
ソフィはアスベルの隣にいることに、いつの間にか安堵を覚えていた。彼の傍を離れたくないと、強く願うようになるほどに。そして今まである種の義務感によるものであった『アスベルを守りたい』という感情が、徐々に自分の感情によるものになっていったことに、ソフィはやがて気付いたのだった。
だからこそ、今こうしてアスベルと同じ場所で暮らしていられるのは幸せだった。初めは消えるために生み出された存在のソフィが、今は人並みに幸せを感じていられる。それもまた不思議な感覚だったが、しかしその心には常に嬉しさが満ちていた。
「あら。そういえば今日はバレンタインデーなんですね」
部屋に飾られていたカレンダーを見て、メイドがぽつりと洩らす。聞き慣れない単語に、ソフィは首を傾げた。
「バレン、タインデー……?」
箒を持ったまま、メイドが振り返ってにこりと微笑む。
「ご存知ありませんか? 女の子の行事、バレンタインデーを」
「女の子の行事?」
「ええ。女の子はバレンタインデーに、好きな男の子にチョコレートを贈るという習慣があるのですよ」
「へえ……」
今まで全く知らなかった習慣だった。だが、ソフィの心に少しばかり興味が湧く。チョコレートという食べ物の名前が出た事も、ソフィの興味を更にかき立てていた。そういえばアンマルチア族の里に訪れた時、どろどろとしたチョコレートの噴水に指を突っ込んで舐めたことを思い出す。ついその味まで思い出してしまい、ソフィの心は急激にチョコレートへと引き寄せられていった。
するとメイドが急に顔を輝かせて、ぽんと手を打った。
「そうだわ。ソフィ様、退屈しておられるなら、今からチョコレートをお作りになったらいかがですか?」
「チョコレートを?」
「ええ。きっと台所に材料があったと思いますよ。誰かに頼めば、作り方を教えてくれるでしょうし」
そう言われて、ソフィはしばし考えた。その最中、不意にアスベルの顔が頭に浮かぶ。バレンタインデーは好きな男の子にチョコレートを贈る日だと、先程メイドが言っていた。ソフィの一番身近にいて、最も好意を持っている男性といえばアスベルしか思い浮かばない。
「チョコレート、アスベルに渡してもいいの?」
ソフィがそう尋ねると、メイドは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「ええ、もちろん。アスベル様、きっとお喜びになりますわ」
「じゃあ、チョコレート、作ってくる」
ソフィはそう言うが早いか、アスベルの部屋を飛び出した。一階にある台所まで走っていく。途中すれ違ったメイドたちが驚いた表情で避けて行ったが、ソフィはさほど気にしなかった。
台所にいたメイドに教わり、ソフィは手探りながらもなんとかチョコレートを作り始めた。チョコレートを細かく刻み、それを溶かし、型に入れる。初めての作業で戸惑いも多かったが、メイドが事あるごとに上手ですよと褒めてくれるので、ソフィは楽しみながら作る事が出来た。
桃のような形の型に、チョコレートを流し込む。シェリアのお尻みたい、と言ったら、メイドがまあ、といってくすくすと笑った。だが、本来この形は桃でもお尻でもないらしい。なんでも人間の心や愛を意味する形なのだとかで、ソフィはその説明を興味深く聞いていた。
「このチョコレートを、好きな男の子に渡すのですよ。『私の心は既に貴方の物です』という意味を込めてね」
「こころ、取られちゃうの?」
「ふふっ。でも、それだけ相手に夢中になっているということよ。好きになったら、その男の子のことしか、考えられなくなるでしょう?」
ソフィは俯いて、アスベルのことを思い浮かべる。
「でも、アスベルのことだけじゃないよ。クロソフィや他の花のこと、他のみんなの事も考えてる」
「その中なら、アスベル様のことを考える時間の方が、長いのではないかしら」
メイドに言われてしばし考えた後、ソフィは顔を上げて頷いた。
「うん。アスベルのこと、たくさん考えてる」
「そう。それが『心を奪われた』ということなのですよ、ソフィ様」
「そうなんだ……」
何故だか胸が温かくなってくる。アスベル、と口の中でそっと呟いたら、ソフィの顔から笑みがこぼれた。
アスベルは、ソフィの心の中でとても重要な場所にいる。少し喧嘩したくらいで、その場所が揺らぐことはない。きっと彼は永遠にその場所にいて、ソフィの心をずっと温かくさせてくれることだろう。
これが『心を奪われる』ことなのだろうかと、ソフィはメイドの言葉をしみじみと考えた。
「さて、ソフィ様。冷えて固まったら、次は綺麗に飾り付けをしましょうね」
「うん」
ソフィは笑みを浮かべて、勢いよく頷いた。
その日の夜。アスベルの部屋に戻ってきたソフィは、メイドに手伝ってもらって綺麗にラッピングされた箱を胸に抱き、鼻歌を歌っていた。いつだか、夜の宿屋で教官が歌ってくれた曲。切ないメロディの中に喜びの響きが混じるこの歌が、ソフィは大好きだった。
「また歌ってるんだな、それ」
公務を終えて着替えたアスベルが、微笑みながらそう言った。本来の彼の色である蒼穹の如き右目と、ラムダ存在の証である鮮やかな紫の左目が、優しくソフィを見下ろす。彼はソフィを救う代わりにラムダを受け入れ、こうして共存しているのだ。ラムダはまだ眠っているらしく、幸いにも未だアスベルの身体にそれ以外の変化は見られなかったが。
ソフィは歌うのを止めてこくりと頷くと、アスベルが自分のベッドに腰掛けて、ソフィの胸の前にある箱を指差した。
「ところで、ソフィがずっと持ってるそれ……何なんだ? プレゼントか?」
ソフィはもう一度頷いて、アスベルに尋ねた。
「アスベルは、バレンタインデーって知ってる?」
「ああ、そういえば、昔シェリアがよく騒いでたな。で、それがどうしたんだ?」
「今日、バレンタインデーなんだって。だから、作ったの。チョコレート」
アスベルは部屋の壁に掛けられたカレンダーを一瞥し、納得したように頷いた。
「そうか、もうそんな時期なんだな。それで、ソフィは誰に渡すつもりなんだ?」
「アスベルだよ」
迷うこともなく即答したソフィを見て、当の本人であるアスベルは目を丸くした。ソフィは手に持った箱を、アスベルに向かって躊躇いもなく差し出した。
「はい。アスベルに、あげる」
「あ、ああ、ありがとう」
アスベルは戸惑ったようにそれを受け取った。微かに頬を赤らめているように見えた。
「あのね。これを渡すのは、『私の心は既に貴方の物です』っていう意味なんだって」
メイドの口調をそのまま写して読み上げるように言うと、アスベルは仰天したらしく、口をあんぐりと開けて固まった。
「わたし、アスベルのこといつも考えてるから。それって、『心を奪われてる』ってことなんだよ」
「な……」
アスベルの顔がますます赤くなっていく。まるで熟れたトマトのように。
だがその表情が、嬉しい時に彼が見せるような笑みではないことに気付いたソフィは、僅かに首を傾げて怪訝な表情をした。もしかして、彼は自分の贈り物を嬉しく思っていないのではないかと考えたのだ。
「アスベル、嬉しくないの?」
ソフィがやや心配そうな口調で尋ねると、アスベルは慌てて首を振った。
「え……いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。ただ、驚いて」
アスベルは相変わらず顔を赤くしたまま、頭を掻く。
「なんか、照れくさいな。ソフィにチョコレートもらうのって」
照れくさい、という言葉がよく分からず、ソフィは聞き返す。
「照れくさい? それって、驚いたってこと?」
「ううん……まあ、驚いたのもあるけど。なんて言えばいいんだろうな」
アスベルはやや顔をうつむけて、しばし考える仕草をした。
「そうだな……恥ずかしいけど嬉しい、ってことかな」
「アスベル、嬉しいの?」
ソフィが首を傾げて尋ねると、アスベルはいつもの優しい表情に戻って、ソフィの頭をゆっくりと撫でた。
「ああ。嬉しくないはずがないじゃないか。ソフィにチョコレートもらえたんだからな」
「よかった」
やっとソフィの表情にも微笑みが戻る。心の泉から温かい水がこんこんと溢れ出し、ソフィの心を満たした。これが心を奪われるってことなのかな、とソフィはしみじみ考える。自分の視線はアスベルの方を向いていて、もっとアスベルを見ていたいという気持ちになった。そして、もっとアスベルの傍にいたいとも思う。それが許される限りは、ずっと。
「よし、せっかくソフィが作ってくれたんだ。早速食べるか」
「でも、もう歯磨いちゃったよ」
「じゃあ、フレデリックたちには内緒、な」
アスベルはしー、と言って、いたずらっ子の顔をしながら人差し指を立てる。
ソフィも真似をして同じように顔の前に人差し指を立て、二人は同時に微笑んだ。