背比べ

「ねえ、アスベル。これ、なに?」
 ソフィが指差す先に視線を向けたアスベルは、直後ああ、と言って頬を緩めた。
 そこにあるのは、アスベルとヒューバートの部屋の隅に立つ木柱。ソフィの背よりも少し下に、がたがたの直線が何本も重なっている。その彫り口は明らかに古いもので、まるで子供が釘か何かでいたずらした跡のようだった。
 アスベルは柱の方に近づいて、その傷の感触を懐かしむようにそうっと撫でた。
「懐かしいな。まだ残っていたのか」
 子供の頃の思い出が蘇るのを感じながら独り言のように呟いた後、首を傾げるソフィへと視線を移した。
「これは、俺とヒューバートが子供の頃に背比べしてた跡だよ」
「背比べ?」
 ソフィが紫髪を揺らして疑問を口にする。アスベルは傷の跡を撫でながら、頷いた。
「そう。この線の横に、Aって書いてあるだろう? これが俺の背、で、こっちのHが、ヒューバートの背」
 アスベルは膝を折って、当時の目線の高さにまで戻ろうとし、途中で笑い声を洩らした。
「俺たち、こんなに小さかったんだな。あの時は、ヒューバートとどっちが高い高くないで言い争っていたけど……」
 当時の幼い言い争いを思い出すと、妙にむず痒いような、しかしほのかに火が灯るような、温かい気分になる。
「今背比べしたら、どうなるだろうな」
 言いながら、弟の顔を思い浮かべる。眼鏡の縁を人差し指で押さえて、冷静な口調で一言。「くだらないですね、兄さん」と言うのか、それとも「いいですね、やりましょう」と言うのか。そのどちらの反応も思い浮かべて、アスベルの口角が自然と持ち上がった。ヒューバートはああ見えて負けず嫌いな人間だ。もし自分の方が兄より高くないと知ったら、唇を思い切り噛んで悔しがるに違いない。逆に自分の背が高ければ、口の端を持ち上げ、勝ち誇った笑みを浮かべる事だろう。
 愉快な想像に浸っていると、突然ソフィが柱に身体をもたせかけてきた。
 アスベルが笑うのを止めて顔を上げると、ソフィは自分の背丈と傷の付いた場所とを比べるようにして、何度も視線を上げ下げした。そういえば、ここにもう一人、負けず嫌いな人間がいることを忘れていた。旅の途中訪れたねこにんの村で、自分が仲間内で一番背が低いことを密かに気にする様子を見せていたことを思い出す。
 アスベルは小さく笑ってソフィの前に立ち、真っ直ぐにソフィを見下ろした。それに気付いたソフィは、再び視線をアスベルへと定めた。
 手を持ち上げ、ソフィの頭の頂上に優しく置く。
「よし、ソフィ、お前も背比べするか?」
 確か自分の乱雑な机の上に錆びた釘があったはずだと視線を巡らせていると、ソフィの不満げな声が上がる。
「でも、アスベルはもう、わたしよりずっと背が高いよ」
「いいじゃないか。自分の成長の印だと思って残しておけば――」
 そこまで言って、アスベルは口を噤んだ。ソフィがヒューマノイドという存在である事を、すっかり忘れていた。ヒューマノイドが成長するのか否か、その研究に携わったわけでもないアスベルには分からないが、七年前と姿形の変わらないソフィを見ると、おそらく成長はしないのだろうと想像がつく。
 アスベルはソフィがヒューマノイドだろうがそうでなかろうが、ソフィはソフィだという考えの持ち主だが、ソフィもそう考えているのかは分からない。何より彼女は背が低い事を気にしていた。彼女の機嫌を損ねてしまったらどうしようか。アスベルの背に冷や汗が流れる。
 だがソフィは殊の外気にしてはいなかったようで、アスベルの提案に対し素直にこくりと頷いた。
「うん。じゃあアスベル、ここに印付けて」
 自分の頭の天辺を指差す。アスベルはほっと息をついた後、ああ、と頷いて顔を綻ばせた。
 乱雑な机の上を探り、赤錆の付いた釘を取り出す。軽く弄るとぽろぽろと赤錆がはがれ落ちたが、印を付けるのに使えないことはない。再びソフィの真正面に立ち、ソフィの背の高さまで膝を折る。ソフィの頭を左手でぴたりと固定させ、アスベルは右手に持った釘を柱へ押しつけた。
「ソフィ、少しの間じっとしてろよ」
 うん、という小さな返答。アスベルは力を入れて、釘で直線を描こうとする。幼い頃より手の動きは安定しているが、釘が脆いのか柱が頑丈なのか、やはり真っ直ぐな線を描くまではいかない。理想の軌道を外れながらも、なんとか印を付け終えて、アスベルは小さく息をついた。
「アスベル、息、あつい」
 自分の息がまともにかかったのか、ソフィが身体を揺らす。
「ああ、ごめん。もうできたぞ」
 アスベルは小さく謝って、ソフィから離れた。
 ソフィはすぐに柱の方へ振り返り、先程付けられたばかりの、微かに赤錆の残る傷跡を眺める。少年時代のアスベルやヒューバートの印よりは明らかに高い位置にあることで安堵したのか、ソフィが小さく溜息を洩らすのを、アスベルは聞き逃さなかった。同時に、それを微笑ましくも思う。自分がソフィと初めて会った時は、ソフィの方がずっと背が高かった。それなのに数年経っただけで、こうまで逆転してしまうとは。時の流れはつくづく残酷だと、様々な意味を込めて、改めてそう思う。
 アスベルは柱の方を向いたままのソフィの後ろから手を伸ばし、先程付けたばかりの直線の隣に、Sと彫った。ソフィが怪訝そうな顔で、アスベルを振り返り見上げる。
「ソフィ、のSだよ」
 説明してやると、ソフィは納得したように頷いて、ありがとう、と小さな声で言った。
 そうして、付いたばかりの柱の傷を、愛おしそうに何度も撫でる。――まるで自分の存在の証だとでも言うように。


「ねえ、アスベル」
「何だ?」
 ソフィが振り返って、目を輝かせる。
「わたし、“せいちょう”できるかな。今のアスベルと同じくらいに」
 思いがけない問いに、アスベルは瞠目した。ヒューマノイド、という単語が一瞬ちらついて、アスベルはそれを即追い払う。その単語は、今のソフィにとって必要のないものだと思ったからだ。
 優しい笑みを浮かべて、アスベルは力強く頷いた。
「ああ。きっとできるさ」
「ほんとう?」
「ソフィが強く願うなら、きっとできる」
 根拠はない。そもそも彼女が人並みに成長できるかどうかさえ、アスベルには分からない。
 だが、自分の願望を言葉にし続ければ必ず実現する、というのは、自分が最も尊敬する恩師の言葉だった。アスベルはそれを実行し続けた結果、未だ不完全な形ながらも、自分に関わる人々を守るという自分の願望は、徐々に達成できているような気がする。ソフィを庇護し、ラントの館に住まわせることで、彼女の故郷を、心の拠り所を作る。これも一つの守る形ではないかと、アスベルは思う。
 だからこそ、ソフィもそうなれることを願った。彼女が強く願いさえすれば、きっと不可能な事などないはずだと。それはソフィの願望でもあるだろうし、同時にアスベルの願望でもあった。
「アスベル。また、背比べしてくれる?」
 ソフィの目が夜空に瞬く星のように輝く。背比べという単語を、こうして柱に身長を記録することだと理解してしまったらしい。少し違うけれどそれでもいいか、とアスベルは小さく笑って、彼女の白い額を撫でる。
「ああ、いいぞ」
「うん。ありがとう」
 アスベルが額へ指を滑らせるのと同時に、ソフィはきゅっとつま先を伸ばし、目を閉じて幸せそうににこりと笑った。
(2010.2.21)
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