うつろいゆくことがら

「ふう……」
 浴槽の熱い湯の中に浸かりながら、アスベルは心地よさから溜息をついた。
 こうしてゆっくりと風呂に入るのは何日ぶりだろうか。ラント領主となった後は公務にかまけてしまい、いつも適当に身体と髪を洗うだけで済ませるようになっていた。
 王都バロニアにてリチャードとの謁見を済ませ、ラントへ帰ってきたのは昨日の事だ。幼い頃友情の誓いをした彼は、世間的な地位で見ればすっかり遠い存在となってしまったが、堅苦しい挨拶を交わしたのは公の場だけ。夜リチャードがアスベルのいる客人の間に忍び込んできた時は驚いたが、二人は久々に友人として言葉を交わし合うことができた。ラントを長い間留守にするのは心配な面もあったが、こうして再び友情を確かめ合えたのだから、バロニアに行って良かったとアスベルは心底思う。何より元気そうなリチャードの姿を見られたことで、あれこれ心配を重ねていたアスベルがひとまず安堵できたのは、大きな収穫であった。
 リチャードとの会話を思い返し、アスベルの頬が自然と緩む。彼は既にラムダに寄生されていた時のような、野心に燃える残忍な王などではなかった。心優しく穏やかな気質の、彼本来の姿を取り戻し、ウィンドルをよりよい国にするのだと、王としての気概を示していた。
「そういえば、ソフィは元気にしているかな」
 リチャードの問いに、アスベルは力強く頷く。
「ああ、変わりない。花の世話をするのが好きで、昼間はずっと花壇にいるんだ」
「そうか。彼女ならきっと、とても美しい花を咲かせられるのだろうね」
 リチャードは微笑みを浮かべた後、顔を上げて遠くを見るような目つきになる。
「彼女には迷惑をかけてばかりだったな。再会した後も、友情の誓いすらできなかった。もう一度、ソフィと友情の誓いがしたい」
 リチャードは自分の右手に視線を落とし、唇を噛む。ラムダに寄生されていたが故に、そのラムダを殺すために生まれたソフィと相容れぬ存在となっていたリチャードは、互いに手を握る事すらできない状況だったのだ。
 アスベルはリチャードの肩を叩き、頼もしい笑みを浮かべた。
「今度来る時、必ずソフィも一緒に連れてくる。そこで改めて友情の誓いをすればいいさ」
「そうだね。ありがとう、アスベル」
 リチャードは切なげに落としていた視線を上げ、ゆっくりと微笑んだ。
 まだソフィに、その時の話はしていない。だがきっと、ソフィなら了承してくれると思った。彼女は記憶を失っていながらも、本能的にラムダを殺害する意志が残っていたらしく、ラムダの寄生しているリチャードに殺意が芽生えたことについて、随分悩んでいる様子だった。旅が終わるまでずっとそんなふうだったから、リチャードと再び友情の誓いができるとなれば、きっとソフィは喜ぶ事だろう。二人が心底嬉しそうな顔をするのを思い浮かべ、アスベルの心までが喜びに満ちる。湯気の溢れた浴室の天井を見上げながら、アスベルは微かに笑い声を洩らした。


 その時、脱衣所から何やら音がした。フレデリックか誰かが着替えを持ってきてくれたのだろうかと思ったが、アスベルが自分で着替えを持って浴室に来たのを彼らは知っているから、それは有り得ない。だとすれば一体誰だろうか。考えを巡らせる間もなく、浴室の扉が開き、アスベルは驚きに目を瞠った。
 湯気に隠れて、揺れる紫の細髪。正体が誰か、アスベルにはすぐに分かった。思わず浴槽から身体を起こし、立ち上がる。湯気が晴れた後、自分の顔を真っ直ぐに見つめる視線とぶつかった。
「ソフィ!? 何をしに来たんだ?」
「アスベル。一緒に入ってもいい?」
 彼女はタオルも持たず、――そう表現するのが正しいかどうか分からないが――生まれたままの姿でそこに立っていた。それに気付いた途端、アスベルの顔がたちまち真っ赤になる。慌てて顔を背け、浴槽に落ちていた白いタオルを拾い上げると、それをソフィに向かって投げつけた。
「ソフィ、頼むから身体を隠しておいてくれ!」
 彼女が普通の人間ではないとはいえ、容姿は人間の少女そのものである。そしてアスベルに、少女の裸に対する免疫など微塵もない。
 彼女の母親代わりを務めていたシェリアが旅立つ際、ソフィを毎日風呂に入れるようきつく言い渡されていたが、その役目はいつもメイドに任せていたため、アスベルが直接彼女を風呂に入れたことはなかった。彼女の裸を見た事など、今まで一度もない。
 ソフィは水に濡れたタオルを受け取ったまま、戸惑っている様子だった。きっと彼女は、裸を見られる事に対する羞恥心を持たないのだろう。耐えかねたアスベルは浴槽から出て、彼女の前に立った。なるべく女性の特徴的な部分を見ないようにしながら、苛立ったように乱暴な仕草でタオルを彼女の身体に巻き付ける。
「いいか、ソフィ」
 相変わらず戸惑いの視線を向けるソフィに対し、アスベルは険しい顔になり、自然と幼子に言い聞かせるような口調になった。
「人に裸を見せるのは、“恥ずかしい”ことなんだ。だから、いつも隠しておかなきゃいけないんだぞ。分かったか?」
「どうして? シェリアやパスカルとお風呂に入る時は、何も言われなかったよ」
「それは……シェリアとパスカルは、別だ。二人は女だから、何も言わないんだよ」
「アスベルは男だから、駄目なの? どうして?」
「どうしてって……」
 アスベルは返答に詰まった。何と返せばソフィが納得してくれるのか、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 そもそも彼女は、男女の区別を明確に付けてはいないのだろう。容姿的に誰が男で誰が女と判断し理解していても、根本の部分の理解が抜けているような気がする。そもそも違う生き物なのだと説明したところで、彼女にそれが理解できるだろうか。一瞬考えて、アスベルはすぐに心の中で首を振った。
 男女の色恋に無頓着なアスベルでさえ羞恥心は持ち合わせているし、男女の違いを明確ではないながらも、感覚的に理解している。ヒューマノイドであるソフィの本来の性別が女性であるのか否か、アスベルには正しい判断がつきかねたが、少なくとも女性的な格好をしている以上、アスベルに気恥ずかしさが生じるのは当然のことであった。
「わたし、恥ずかしくないよ。アスベルに見られても」
 そう言いながら、乱暴にきつく巻かれたタオルを緩めようとするソフィを慌てて制止する。
「とにかく、駄目だ。何故ってそれは……俺が困るからだ」
「アスベルが困るの?」
「そうだ。頼むから、そのままにしておいてくれ」
 懇願するような口調で言うと、ソフィは素直に頷いてくれた。
「分かった。じゃあ、そうする」
 アスベルは内心ほっと溜息をつく。
「本当は、一緒に風呂に入るのも良くないんだが……今日はまあ、良しとするか」
 これ以上ソフィに苦言を呈したら、ソフィの機嫌を損ねてしまいそうだ――それだけは心情的にも避けたいと、アスベルは風呂に入ることだけは許可することにした。
 彼女の身体がこうして隠れてさえいれば、ひとまず意識せずとも済みそうだとアスベルは思い込む。薄いタオルから浮き出る小さな胸の突起、しなやかな身体の線を見ていると、だんだん血液が頭に昇っていくのを感じたが、わざと無視することにした。
 ソフィは扉を閉めて風呂場に入ってきた。きょろきょろと浴室内を見回した後、隅に放置されていた椅子を持ち出し、アスベルの後ろに置く。
「アスベル、座って」
「え? 何でだ?」
「背中、流してあげたら喜ぶって。教官が言ってた」
「……」
 上手くいったと言わんばかりににやりと笑む恩師の顔を思い浮かべ、アスベルは溜息をつく。自分を指導してくれたことに対する尊敬の念は消えないが、ソフィに余計な知識を埋め込むことだけはやめて欲しいと切に願う。ソフィはマリクと頻繁に手紙をやりとりしているようで、教官に教わったとかいう行動を実践しては、その度にアスベルを悩ませていた。
 ソフィの表情を窺うと、彼女はじっとアスベルを見つめ、自分が座るのを待っているようだった。アスベルは諦めて大人しく座る事にした。背中を彼女に洗われたくらいで、特にどうなるということもない。
「これでいいか?」
「うん。じゃあ、洗うね」
 湿ったタオルが風呂場の床に落ち、水粒が跳ねる音が響く。タオルを背に押しつけられる感覚がしたその時、アスベルは恐ろしい事に気付いてしまった。ソフィはタオルを持っていなかった。それなのに自分の傍から一時も離れず、こうしてタオルを背に押しつけているということは、すなわちそのタオルは――
「ソ、ソフィ、お前、タオルは……」
「なに? アスベル」
「……い、いや、何でもない」
 気付かなかったふりをしようと心に決めた。血液が一点に集中するのを感じたが、アスベルは歯を食いしばってそれに耐えた。邪な想像が頭をよぎる。たちまち、アスベルの心に罪悪感が芽生えた。
 ソフィの柔らかい指が背に触れるたび、アスベルは心臓が高鳴るのを感じた。彼女に触れたことは一度や二度ではないし、それだけで少年の頃のようにどぎまぎしたりということはないが、状況が状況なだけに、どうしても心拍数ばかりが上がっていってしまう。
 彼女の保護者として、娘を持った親のような気持ちで今まで接してきたせいで、罪悪感ばかりが募る。彼女は意志を持った一人の人間であり、アスベルとは異なる生き物――女性なのだ。そのことを、改めて意識せざるを得なかった。
「アスベル、気持ちいい?」
「ん……あ、ああ、気持ちいいよ」
 妙な気恥ずかしさに襲われながらそう言うと、良かった、というソフィの無邪気に喜ぶ声が聞こえて、アスベルの心はますます罪悪感に満ちた。
 腰の辺りまで彼女の手が及んだところで、タオルが背から離れる感覚があった。ソフィはタオルを持って立ち上がったようだった。
「じゃあ、次は前」
「ああ……って、ち、ちょっと待った!」
 ソフィの何気ない口調をそのまま受け入れてしまいそうになって、慌てて留まる。アスベルの前へ回ろうとするソフィを右腕で制止し、アスベルは強く首を振った。
「前は、いいんだ。自分で洗うから」
「でも、シェリアは、わたしのこと全部洗ってくれてたよ」
「シェリアはまた別だ。俺はもう、いいんだよ」
 頑なに拒否すると、明らかに不満そうなソフィの声がした。
「今日のアスベル、変だよ。どうして、そんなに怒るの」
「違う、怒ってるんじゃない、そうじゃなくて……」
 自分の気持ちを彼女にどう伝えればいいのか、アスベルは途方に暮れた。彼女は羞恥をそもそも理解していないから、伝えようがない。言葉選びに悩んでいると、ソフィが先に口を開いた。
「じゃあ、いつになったら、アスベルの前、洗ってもいいの?」
「いつって……」
 それも答えようがない。彼女の前で自分の裸を晒して、果たして平常心でいられる日など来るのだろうか。
「わたしが、アスベルのおよめさんになったら?」
 またしても唐突に出てきた言葉に、アスベルはうっ、と呻く。これも以前マリクに教わったらしく、ソフィが気に入っている言葉の一つで、彼女は事あるごとに口にしていた。二人きりでも気まずいのに、フレデリックやメイドたちに聞かれるような状況で口にされると、アスベルは顔を覆いたくなる。こういった関係の言葉に、アスベルは一切免疫を持っていないのだった。
 アスベルが答えないのを肯定と受け取ったのか、ソフィはアスベルの隣にしゃがみ、じっと顔を見つめてくる。
「それならわたし、アスベルのおよめさんになりたい」
 軽々しく口にするような言葉ではないと強く叱責しようとして、その気力すら自分の中に残っていない事に気付いた。アスベルは小さく溜息をついて、呟くように彼女に言い聞かせた。
「ソフィ、あんまりそういうことは言うもんじゃないぞ」
「どうして?」
「ソフィが一番大切だと思える男に会うまで、取っておいた方がいいんだ」
 ソフィは驚きも反省する素振りも見せず、淡々と言葉を返してくる。
「わたしにとって一番大切な人は、アスベルだよ」
 躊躇いの一切含まれない言葉に、嬉しさよりも気恥ずかしさが勝る。こういう結論になることは、薄々分かっていたが敢えてそうでないふりをしていた。否、したかった、というのが正しい。いつだってソフィはアスベルに無償の愛を捧げてくれる。自分もそうしてきたし、今までそれは自然なことだった。だが性別を意識した上で考えると、その好意はすんなりと落ちてはいかなくなる。そのことに、アスベル自身あまり気付きたくなかったのかもしれない。
「気持ちは嬉しい、けど……」
「けど?」
「もう少し、心の準備をさせてくれ」
 アスベルが懇願すると、ソフィは黙って頷いた。
「いいよ。アスベルがいいって言うまで、わたし、待ってるね」
「ああ……ありがとう」
 気恥ずかしさがなりを潜め、急に愛しさが喉元にまで込み上げる。ソフィに向ける感情は、いつだって曇りない愛情だった。そこに性別という要素が加わったとしても、根本にあるものは変わらないのではないか――アスベルは、そう信じたかった。
 不意に、先日のリチャードとの会話を思い出す。彼は再び、ソフィと友情を結びたいと切願していた。幼い頃友情の誓いをした相手であるアスベルとソフィの間に、男女の情が芽生えるかもしれないと知ったら、リチャードはどういう反応を見せるだろうか。
 ――もう少し、落ち着いてからにしよう。
 リチャードに再び会いに行くのはまだ先になりそうだと、湯煙の中でアスベルは目を細めた。
(2010.2.27)
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