ソフィがアスベルの部屋で過ごしていた時のことである。
突然扉が叩かれ、掃除道具を持った一人のメイドが顔を出した。ソフィはそのメイドの顔を見た途端、無意識のうちに身体を強張らせた。
この館には何人ものメイドが働いているが、皆大抵はソフィに親切な者ばかりだった。躾の行き届いた者たちであるが故に、ソフィがこの館に住むことになった経緯を根掘り葉掘り聞く事はなかったが、そんな得体の知れない存在であるはずのソフィを快く受け入れ、母親代わりとなって世話をしてくれた。常に彼女たちの愛情に触れていられるのを、ソフィはこの上なく嬉しく感じていた。
だが、そのメイドたちの中にも例外がいて、それが先程顔を覗かせたメイドなのであった。ソフィを見るとたちまち額に皺を寄せ、唇をひん曲げるのである。ソフィが領主アスベルの寵愛を受けていることを知っているため、直接的には何も言わなかったが、態度の端々には明らかな嫌悪感が表れていて、ソフィもそれを自然と感じ取っていた。だから、彼女のことは苦手だった。思わず身構えてしまったのは、そのせいである。
メイドはソフィに何も言わずずかずかと中に入ってくると、ベッドに腰掛けていたソフィの前に仁王立ちになった。ソフィが思わず顔を上げると、不快に顔を歪めたメイドと目が合った。恐怖を覚え、ぞくりと身体が震える。
「これから掃除をするので、少し退いていただけるかしら。ソフィ様」
嫌味のこもった口調。恐怖に押されるようにして、ソフィはベッドから下りた。彼女から逃げるようにして扉の前まで来ると、背後からメイドの声が聞こえた。
「不思議でならないわ。どうしてアスベル様が、こんなどこの馬の骨とも知れない子をここに置いているのか」
ソフィは思わず振り返っていた。心を締め付けるような悲しみが満ちる。
フォドラにいた頃を、ソフィは思い出していた。人間にとってはただの戦闘兵器であり、道具でしかない存在であった頃の自分。命令に従えなかった時の、あるいは失敗をおかしてしまった時の、人間たちの冷淡な瞳。今のメイドは、それにそっくりな瞳でソフィを見つめていた。
ただ、その頃と今とで違うのは、ソフィの心に感情が宿ってしまった事だ。フォドラにいた頃は悲しさも嬉しさも知らなかったから、そのような瞳を向けられても何も思わなかった。だが今は違う。冷たく扱われる悲しさを、ソフィは知ってしまった。
恐怖と悲しみから唇を震わせていると、メイドはわざとらしく溜息をついて、とどめの一言を放った。
「アスベル様も可哀想に。こんな子の世話を押しつけられて、きっと迷惑していらっしゃるに違いないわ」
「めい……わく?」
その言葉の意味をはっきりと理解してはいなかったものの、悪しき響きのする言葉であることは、容易に感じ取れた。メイドはふんと鼻を鳴らし、刺すような鋭い瞳でソフィを睨み付けた。
「そう。アスベル様はいつもお忙しくなさっているのに、貴方は我が儘を言って遊びに連れ出してばかり。はっきり言って、邪魔者なのよ。貴方は」
直後、心を鷲掴みにされるような感覚。
「邪魔……」
その冷淡な響きに耐えきれなくなって、ソフィは部屋を飛び出していた。
廊下を走り、階段を下りて、外へ出る。クロソフィの花が無数に植えられている花壇の前で、ソフィは立ち尽くした。風に吹かれてゆらゆらと揺れる愛しい花たちを見ながら、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
――わたしは、アスベルにとって……邪魔?
そう思った途端にソフィの顔が歪んだ。目尻が震え、唇がわななく。やがて頬に伝った温かい感覚に気付いたソフィは、手でそれを拭った。水の粒が指に押しつぶされて、皮膚に張り付く。
その粒は、人間が悲しいと感じた時に生じるものであるということを、頭の中では理解していた。だが咄嗟には感情と結びつかず、ソフィはただただそれを不思議に感じることしかできなかった。
「なみだ……」
粒の名称を口にする。美しくも悲しい響きを持つ言葉であることを、痛いほどに思い知る。目尻から溢れ出すこの水は、一体どうすれば止められるというのだろう。指で拭えども拭えども、堰を切ったように溢れ出して止まらない。
ソフィはしゃがみこんで、目の前で揺れるクロソフィの花を撫でた。すると目の前に、アスベルの顔が浮かび上がる。ソフィに向かって優しく微笑むアスベル。申し訳なさそうに頭を掻いて謝るアスベル。こら、と幼子に言い聞かせるような口調で怒るアスベル。悲しそうな瞳で、遠くを見つめるアスベル。ソフィが今まで見てきたアスベルは実に表情豊かで、それ故にソフィの心を引き付けた。
自分が今まで会ったことのない類の人間だった。自分を管理するでもなく、支配するでもなく、世話をすると言ってくれたのは、彼が初めてだった。直後起こった、胸にほのかな火が灯るような感覚。今思えば、それが『嬉しい』という感情だったのかもしれない。
アスベルといることが楽しくて仕方がなかった。兵器として備え付けられたこの戦闘力を、他人を守るために使ったのは初めてだった。記憶を失っていたせいもあるかもしれない。だが記憶を失っていなければ、決して芽生えなかった感情だ。一時のことではあったが、自分がアスベルたちと同じ人間であると錯覚することもできた。真実を知らないことは、ソフィにとって決して不幸などではなかったのだ。
しかしながら、真実を知った後のソフィが不幸であったということは決してない。アスベルはソフィをありのまま受け入れてくれた。人並みに暮らせるよう、こうして自分の館をソフィの居場所として提供してくれた。アスベルの注いでくれる愛情を、身体一杯に受け止めているという自覚があった。だからこそこの館を自分の故郷と信じ、幸せを噛み締めながら生きてこられたのだ。
それなのに、それは自分の独り善がりな感情であったというのだろうか。アスベルは密かに、自分を邪魔だと思っていたのだろうか。
ソフィの視界に映るクロソフィの細い花弁が歪む。植木鉢を持ち上げて、ソフィはそれを割れんばかりの力でぎゅっと抱きしめた。クロソフィの葉がソフィの頬に当たる。いつもならくすぐったい、と喜ぶところなのに、それは痛々しくソフィの心に突き刺さった。食いしばっていたはずの歯ががたがたと震え、口から嗚咽が漏れ出す。ひくひくと震えるしかできない自分が、情けなくて悔しくてならなかった。
ソフィは花壇に植木鉢を下ろすと、ふらふらと歩き出した。足が向かうままに歩を進める。街に出ると怪訝そうな視線を向ける人々とすれ違ったが、ソフィは気にも留めなかった。
楽しい思い出のいっぱい詰まったあの場所へ――ソフィの行く先は、一つしかなかった。
裏山の広場に出た時、ソフィの胸にたくさんの思いが込み上げた。
膝をついて、そびえ立つ大木を見上げる。昔、大切な友人たちと誓いを交わした木。傍に行かなければはっきりとは分からないが、その文字は風化せず今でも残っていることだろう。
しかし、友情の誓いは永遠のものではなかった。リチャードはラムダに寄生されていたとはいえ、自分と再度誓いを結ぶことを拒んだし、アスベルはもう、ソフィを邪魔者だとしか思っていないに違いない。
身体を倒して、草の柔らかな感触に癒されようとした。花畑に倒れ込んだソフィの目に、再び涙が浮かび上がる。視界がぼやけて、何も見えなくなった。ソフィはゆっくりと目を閉じる。これ以上悲しみに暮れるくらいなら、何も見えなくてもいい。何も見えない世界ならば、目なんて要らない。
悲しみに支配されたソフィの意識は、いつの間にか心の奥へと沈んでいった。
「――フィ、ソフィ!」
懐かしい声が聞こえて、ソフィはゆっくりと目を開けた。視界に映る、大切な人の顔。青と紫の瞳が、心配そうな表情を伴ってソフィを見下ろしている。
「アス……ベル?」
その名は、ひどく懐かしい響きがした。ソフィが手を伸ばして掴もうとすると、アスベルの手が素早く動いて、指を絡めた。彼の手はこんなにも温かかっただろうか。改めて感じる彼の手の感触に、ソフィは安堵を覚えた。
「心配したんだぞ。お前が夕方になっても戻らないから……」
アスベルから僅かに視線をずらし、空の色を見る。藍色に支配されかけた空を見つめ、もうすぐ夜なんだ、とぼんやり思った。来た時は太陽の光が燦々と降り注いでいたはずなのに、今は闇に隠れてしまっている。あれから相当時間が経ってしまったのだと、ソフィは悟った。
「一体どうしたんだ。俺に何も言わずに出て行くなんて。今までそんなことなかったじゃないか」
アスベルの問い。ソフィはその理由を思い出し、急に胸が締め付けられる感覚を味わう。強く絡められたアスベルの指を無理矢理ほどき、驚いた表情になるアスベルに向かって、呟くように言った。
「わたし、もう、アスベルと一緒にいられない」
「な……何を言い出すんだ、ソフィ!」
彼の声は、驚きよりも悲しみに満ち溢れていた。心が痛むのを感じながら、ソフィは続けた。
「わたしは、アスベルにとって邪魔だから」
「邪魔、だって……?」
悪しき響きを持つその言葉に、戸惑いを隠せない様子だった。
「そう。アスベルは忙しいのに、わたしが遊んで邪魔しているって。だから」
言いながら、ソフィは胸苦しさに喘ぐ。庇いも、同情も要らない。ただ大好きなアスベルの邪魔な存在にだけはなりたくなかった。もし自分がいることそのものが邪魔なら、このまま消えてしまっても良かった。元々自分は、ラムダを倒して消える運命だったのだ。それが少し、伸びただけのこと。
そう思った刹那、乾いた音が響いた。何が起こったか分からず、ソフィは頬にじんわりと広がる痛みをただ感じていた。上を向いていたはずの視線が、いつの間にか横たわっていた。
「馬鹿! 何を言うんだ、お前は!」
ソフィはゆっくりと視線を戻し、アスベルの顔を見て目を瞠った。彼は怒っているのではなかった。顔を歪めて唇を噛み、目に水の粒を浮かべていたのだ。その粒の名を、ソフィは知っていた。先程自分が流していたのと、同じもの――
「どうして、泣いているの?」
無邪気な問いに、アスベルは悔しそうな口調で叫ぶ。
「ソフィが何も分かっていないからだよ!」
涙を拭って、アスベルは口を開く。
「ソフィがいるから、俺はいつだって笑っていられるんだ。領主の仕事が辛くても、何か苦しいことがあっても、いつもお前が傍にいてくれるから、辛い顔をしなくて済むんだ。邪魔なわけがあるか。ソフィはもう忘れたのか? ラムダの繭から抜け出した後、俺が言ったことを!」
ソフィは記憶を手繰り寄せる。ラムダ繭から抜け出した後。対消滅をしようとしたソフィに、アスベルは激しく怒った。そうするしかない、とソフィがいくら言っても、アスベルは絶対に認めようとしなかった。ソフィが消える選択をすることを、頑なに拒んだのだ。当時は何故だか分からなかった。否、分からなかったのではない。理解しようとしなかったというのが、正しい。
だが、今なら分かる。アスベルの“悲しい”気持ちが。アスベルが怒りをあらわにした理由が。
「誰に言われたのか知らないが……俺にはお前が必要なんだ。ソフィ。お前を邪魔だと思った事なんて、一度もない!」
アスベルはそう言って、ソフィの背に手を回し抱き起こした。痛いほどに抱きしめられ、ソフィの喉元に何かの思いが込み上げる。その思いは、決して悲しい類のものではなかった。
「お前が自分を邪魔者だと思わないようになるまで、何度でも言ってやる」
アスベルの声が、耳許で響き渡る。
「俺にはお前が必要だ。お前がいなければ駄目なんだ。ソフィが傍にいてくれない生活なんて、何の価値もない!」
「アスベル……」
アスベルの言葉は水面を打ったように、ソフィの心に響いた。喉元に迫るこの気持ちの正体に、ソフィはようやく気付く。泣きたくなるほど嬉しいという気持ち。
「もう、お前を失うのは嫌なんだ……」
懇願するようなアスベルの口調に、ソフィの心は完全に揺らいだ。
七年前、アスベルたちを守るために消え去ったソフィ。当時その喪失感に耐えられなかったと、アスベルが照れながら語ってくれたことがある。同時に、ソフィが帰ってきてくれて本当に良かった、とも。ソフィ自身も改めて、アスベルと共にいられる幸せを噛み締めていた覚えがある。
その時の気持ちを、すっかり忘れていた。ソフィは手をゆるゆると上げ、アスベルの背を掴んだ。愛しさが込み上げ、ソフィもありったけの力で、アスベルに抱きついていた。
「アスベル、ごめんなさい」
心の底から、彼に謝罪する。
「わたしも、アスベルと一緒にいたい。アスベルの傍から、離れたくない」
素直な気持ちが、口から溢れ出してゆく。
「邪魔者だなんて思いたくなかった。でももし本当にそうだったら……アスベルの邪魔だけは、したくなかったの。だから」
「お前は邪魔者なんかじゃない。俺にとって必要で、大事な存在なんだ」
「うん。ありがとう、アスベル」
顔がくしゃくしゃになっていくのを感じる。抱き合っているおかげで、アスベルにこの顔を見られないのが幸いだった。唇が震え、嗚咽が漏れる。アスベルの背を掴む指に、力を込めた。
「アスベル」
「ソフィ……」
互いの名を呼ぶ声に、喜悦が混じる。
ソフィは幸せを噛み締めながら、浮かび上がった涙をアスベルの背に落とした。