「……懐かしいな」
その場所に足を踏み入れた時、自然に洩れた感想が、この一言だった。
明るい陽光の降り注ぐ穏やかな午後。ラントの館で昼食を取った後、アスベルとソフィはラントの裏山に出掛けた。
「久しぶりに、午後からは休みが取れるんだ。どこか連れて行って欲しい場所はないか?」
傍らにいる細い身体の少女に尋ねると、少女は紫の瞳をいっぱいに見開いて、即答した。
「ラントの裏山に行きたい」
その場所はアスベルとソフィにとって特別な場所だった。初めて出会った場所であり、リチャードと三人で友情の誓いをした場所であり、更にラムダとの戦いで一度粒子化したソフィが、七年後に再びアスベルたちの前に現れた場所でもある。アスベルは最初、彼女の提案に驚いて目を見開いた。その後で、小さく苦笑を洩らす。
「もっと他に、行きたいところはないのか? 街に遊びに行くとか、何か食べに行くとか」
「ううん。あそこの花畑がいいの」
ソフィは迷うことなく、すぐに首を振った。アスベルは小さく溜息を吐いた後、優しく笑う。自分としては今まであまり彼女に構ってやる余裕などなかったから、普段行かないような場所に連れて行ってやりたいと思ったのだが、ソフィが希望したのは二人がよく知る場所だった。彼女にとっても、あの場所は特別だということなのだろうか。無論自分にとってもそうだが、彼女がそう思ってくれているなら嬉しい――アスベルは過去に思いを馳せながら、胸に温かな光が宿るのを感じた。
「じゃあ、そうしよう。昼ご飯、食べてからでいいよな」
「うん」
ソフィは頷いて、アスベルの執務室を出て行った。
残されたアスベルは、窓際まで歩いて行き、鍵を開けて窓を解放する。春の陽気がぽかぽかとアスベルの身体を包んだ。絶好のお出かけ日和だった。こんな天気の良い日に、ソフィと二人で、ラントの裏山へ出掛ける――当初の思惑とは外れていたが、アスベルは子供のようにわくわくしている自分に気付いた。
子供の頃はあの場所へ行くことを父から禁じられていたが、それ故に冒険心をそそられる場所だった。言いつけを破ってあそこへ行かなければ、ソフィに会うこともなかったろうと思うと、不思議な感覚がする。
「アスベル、もうご飯だって」
執務室の扉が開いて、ソフィが顔を出した。アスベルは振り向いて、ありがとう、と頷く。それを確認してから、ソフィは顔を引っ込めた。
アスベルはすっかり書類の無くなった机の上を満足げに見つめた後、食堂へ行くべく執務室を出た。
ソフィはゆっくりと花畑の中央へ歩いて行く。色とりどりの野花に囲まれた彼女の後ろ姿は、何故だかとても幻想的に見えた。風に吹かれて、紫の細髪がゆらゆらと揺れる。
アスベルも地面を踏みしめながら、ゆっくりと彼女の後に続いた。
友情の誓いの木。その前まで歩いて、ソフィはそっとしゃがんだ。アスベルが後ろから覗き込むと、ソフィは昔彫った三人の名前を、愛おしむように撫でていた。
「懐かしいよな、それ。覚えてるか?」
「うん。わたしとアスベル、それからリチャード……みんなで友情の誓いをしたの」
年月が経ってやや風化し始めたその名前たちを、アスベルは目を細めて見る。
「わたしの名前は、アスベルが一緒に彫ってくれた」
振り向いて見上げるソフィに、アスベルは懐かしい目をしながら微笑んだ。
「そうだったな。お前はあの時、まだ字を知らなかったから」
「うん。でも今なら、一人でも書ける」
そう言って、ソフィは地面を見回し始めた。何をするのかと思えば、ソフィは手頃な石を見つけ、過去自分が彫った名前の上から、もう一度同じ字を彫り始めた。名前が風化しないように。強く強く、力を込めて。
アスベルは思わずしゃがみこみ、後ろから彼女の手を掴んでいた。ソフィが驚いたように振り返る。
「あの時は、こうしたよな」
「うん。でも、今は一人で書ける」
「俺にももう一度、ソフィの名前を彫らせてくれよ」
アスベルがそう言うと、ソフィは少し俯いて考えるような仕草をした後、顔を上げて頷いた。
「分かった」
二人の手が重なり合い、文字を描いていく。彫るのが難しい曲線も、単純な直線も、二人で力を調節しながら、彫り進めていく。重ねた手から、ソフィの手の温かさが伝わってきた。
彫りにくい部分に来たところで、アスベルの手に思わず力が入る。ソフィの手に指を絡めてより強く握ると、ソフィが僅かにこちらを向いた気配がした。
「アスベル、ちょっとだけ、痛い」
「あ、ああ、ごめん。夢中になってたよ」
アスベルは謝りながら照れたように笑って、慌てて手の力を緩める。
「でも、あんまり緩めなくてもいい。アスベルの手、温かくて好きだから」
ソフィはそっと付け加えた。アスベルは驚いたが、すぐにソフィの手を握る力を強める。今度は、先程よりも弱く。けれど、相変わらず強く。ソフィはそれで満足したらしく、再び木の方を向いた。
最後のeを書いたところで、二人の手が緩んだ。ソフィが後ろを向いて、満足そうに頷く。アスベルも応えるように頷いた後、ソフィが置いた石を再び拾って、今度は自分が名前の前にしゃがみこんだ。
「じゃあ、次は俺の名前を彫るか」
そうして、過去自分が書いた字の軌跡の上に石を置く。すると後ろから手が伸びてきて、アスベルの手を上から包み込むように握った。後ろを振り向くと、そこには真剣な表情をしたソフィの顔があった。
「わたしもアスベルの名前、一緒に書きたい」
「ああ。いいぞ」
迷わず承諾して、二人は再び木に向き直った。
アスベルの名はソフィほど文字数は多くないが、それでも書くのが難しい曲線はたくさんある。時折力を入れつつ、適度に抜きつつ、自分が子供時代になぞった軌跡を彫り直していく。何もかもが懐かしく、アスベルは書きながらほっと溜息をついた。無邪気だったあの頃。不可能などないような気がしていたあの頃の自分を、懐かしくも気恥ずかしくも思い出しながら。
「よし、これでいいな」
なぞり終えて、アスベルは立ち上がった。ソフィも手を離し、アスベルの隣に立つ。アスベルの名の横にあるリチャードの名前へと視線を移した後、アスベルはソフィの方を向いた。
「リチャードも、今度呼んでやらなきゃな」
「うん。リチャードの名前も、一緒に書きたい」
「ははっ。三人で一緒に書くとなると、大変な作業だな」
リチャードの名前はただでさえ文字数が多いのだ。それを三人がかりで書く様子を想像して、アスベルはおかしくなった。軌跡をなぞるのにすら苦労して、二人でリチャードの手を握り潰すくらい力を入れてしまいそうな気がする。
アスベルは木の天辺を見上げた。
「ソフィ。俺たちの絆は、永遠のものだよな」
「うん」
「俺たち、ずっと一緒だよな」
「うん。わたしは、ずっとアスベルのそばにいる」
「じゃあ、俺がソフィを守るって言ったら?」
アスベルがソフィの方を向くと、ソフィもアスベルを見上げて言った。
「わたしが、アスベルのこと守る」
ははっ、とアスベルは軽く笑いを洩らす。彼女は出会った頃から何も変わっていない。だが、だからこそ嬉しかったのだ――アスベルは懐かしく過去に思いを馳せる。七年後故郷に帰ってきて、何もかもが変化していて驚いた時、何も変わらずただ自分の傍にいてくれたソフィの存在が、どれほど自分の救いになったことか。七年前勝手に故郷を出て、その後の変化を受け入れられなかった自分が悪いのは分かっている。だがそれでもアスベルがくじけずいられたのは、ソフィが隣にいてくれたからこそだった。
再会した時にそうしたように、アスベルはソフィの頭を撫でる。一瞬驚いたように固まった後、ソフィは嬉しそうに微笑みを見せた。
「わたし、今、どんな顔をしている?」
「ん? すごく、嬉しそうな顔してるぞ」
「そう、良かった。だって……今、嬉しいから」
ソフィはもっとして欲しいと言うように、つま先を立ててアスベルの方へと首を伸ばした。それに応えて、アスベルも彼女の頭を撫で続けてやる。
紫の細髪の感触が、この上なく心地よいものに感じられた。