かわいい子には旅をさせよ

「アスベル。わたし、旅に出る」
 ソフィからそう告げられた時、アスベルは驚きすぎて固まった。
 あまりに突然の出来事だった。大きな紫の瞳が、じっとアスベルを見つめている。だが、アスベルは彼女を見ているという感覚がなかった。先程まで聞こえていたはずの外の鳥のさえずりも、メイドたちが忙しく動き回る音も、何も耳に入らない。ただ呆然として、執務室の自分の椅子に座ったまま、アスベルは口をあんぐりと開けていた。
「アスベル?」
 ソフィからの呼びかけで、ようやく我に返る。だが冷静ではいられなかった。
 彼女に問いたいことはたくさんあったが、それらを整理しないまま言葉にしようとしたものだから、アスベルの喉の中でこんがらがって、うぐっ、というよく分からない声が出てしまった。
「……そ、その、旅に出るって、一体どういう」
 しどろもどろになりながら尋ねると、ソフィは少しも表情を変えぬまま答えた。
「言葉通りだよ。わたしもいつか、独り立ちしなきゃいけないから」
「ひ、独り立ち……」
 ソフィの口から出たとは思えないような言葉に、アスベルは仰天する。大方マリク辺りに入れ知恵されたか。だが今、そんなことはどうでもいいことだった。肝心なのは、話の内容だ。ソフィは独り立ちの意味をきちんと理解して使用しているのか。アスベルは咳払いしつつ、落ち着かぬ喉をなだめて言葉を発した。
「あのな、ソフィ。独り立ちって、本当に意味分かってるか?」
「うん。子供が親元を離れて、自分一人で生きていくってことでしょ?」
「……そう、だけど。けど、なんでソフィが独り立ちする必要があるんだ。ずっとラントにいればいいじゃないか」
 最後の方は懇願するような口調になる。だがしかし、ソフィは顔色一つ変えなかった。必死なアスベルに向かって、冷たく首を振っただけだ。
「それじゃ、だめなの。いつまでもアスベルのお世話になるわけにはいかない」
「そんなこと気にするなんて、お前、一体どうしたんだ……」
「リ……フレデリックが言ってたの。お嬢様も、いつかは独り立ちしなければなりませんねって」
 常に柔和な微笑みを湛えた執事の顔を思い出し、アスベルは苦々しい思いに駆られた。確かに、あのフレデリックなら言いそうだ。アスベルがソフィと戯れていると、遊ぶのも程々に、と忠言してくるのは、いつも彼の役目だった。彼はソフィを邪魔とは思わないまでも、いつかはアスベルの下を旅立つ存在として認識しているのかもしれない。普段は行き届いた気配りでアスベルの身の回りを世話してくれる彼に感謝していたが、この時ばかりは余計なことをと思わずにはいられなかった。
「今日から、旅支度をするから。アスベル、部屋に入らないでね」
 ソフィはそう言い残すと、くるりと身体を翻して執務室を出て行った。一人になったアスベルはしばらく呆然としていたが、やがて頭を抱え込んだ。
 ソフィが、旅立つ。それも突然のことだった。独り立ちするということは、もう二度とラントには帰ってこないということなのかもしれない。ソフィのいないラントでの生活など、想像もしたくなかった。
 少年の頃の、何のしがらみもないアスベルなら、ソフィの旅についていくことだってできただろう。だが今のアスベルはラント領主だ。簡単に故郷を放り出して、自分勝手な理由で旅に出ることなど許されないし、またそうするつもりもなかった。だからこそ、頭を抱えることしかできないのだった。
 必死にソフィを引き留めることもできたろう。だがそうしなかったのは、ソフィの中に強い決意を見たからだ。彼女も少しは世間を見て、自分の振る舞うべき行動を考えるようになった結果なのかも知れない。成長という観点から見ればそれは喜ばしいことであると認めつつも、アスベルはどうしてもそれを歓迎することができないでいるのだった。


 仕事が全く手に着かなくなってしまい、アスベルはふらふらと庭へ出た。いつもなら、日が暮れるまでソフィがここで花の世話をしているのだが、旅支度をすると言ったのはやはり嘘ではなかったらしく、彼女の姿はなかった。
 彼女が世話して、立派に花を咲かせたクロソフィに視線を落とす。クロソフィは無邪気に花弁を広げ、太陽に向かって笑っていた。
 アスベルは思わず、くっ、と呻いて視線を逸らした。この花を見れば、きっとソフィを思い出してしまう。彼女の最も気に入っている花であるというのは当然のことだが、彼女の『ソフィ』という名前はこの花が由来なのだ。クロソフィ、という花の名を呟いただけで、アスベルの頭の中には紫の双髪を揺らして笑う少女の顔が浮かんでしまう。
 唇を噛んで花から目を逸らしていると、突然アスベルの肩を叩く者があった。
「アスベル」
「わあっ!」
 アスベルはあまりに驚きすぎて、振り返りながら大声を上げてしまった。相手は申し訳なさそうな顔をしながら、謝ってきた。
「すまない、驚かせてしまって。そんなつもりはなかったんだけど」
「リチャード……」
 アスベルは親友の名を呟いた。子供時代友情の誓いをした親友は、流れるような金髪を揺らし、穏やかな微笑みを浮かべながらアスベルと相対した。
 リチャードは父に代わってウィンドル国王となり、多忙な日々を送っていた。ラント領主となったアスベルとは公の場で数回顔を合わせる程度だったのだが、この度公務の合間を縫って、アスベルとソフィに会いにわざわざラントへ足を運んでくれたのである。アスベルもソフィも大喜びで彼を迎え、三人は改めて友情を誓い合った。
 リチャードは数日ラントに滞在する予定となっていた。彼は客間にいたはずだったが、アスベルの様子がおかしいのを見て、声を掛けてくれたのだろう。
「どうかしたのかい。君がそんな顔をするなんて、珍しいな」
「ああ……」
「良ければ、事情を話してみてくれないか。僕で力になれるなら、そうしたい」
 リチャードに促され、アスベルは一瞬躊躇う。だが、三人は友情の誓いをした仲だ。これは主にアスベルとソフィの問題だが、リチャードも知っておくべきなのかもしれない。ラントに来るだけではソフィに会えなくなるということであれば、なおのことだ。リチャードはこれからもラントを訪れたいと言ってくれていたのだから。
 アスベルは俯けていた顔を上げ、口を開いた。
「実は、ソフィのことなんだ」
「ソフィのこと?」
「ああ。さっき、突然旅に出るって言い出して……独り立ち、するとか言っていた」
 リチャードは驚いたように目を見開いた。当然の反応だろうとアスベルは思った。
 リチャードはしばらく考え込むような仕草をしながら、言葉を選びつつ言った。
「……そうか。彼女にも色々と、思うところがあったのだろうか」
「分からない。ソフィはただ、いつまでも俺の世話になるわけにはいかないって」
 言いながら、涙が溢れそうになって慌ててこらえる。うっかり飛び出しそうになった激しい言葉を呑み込みつつ、それでも溢れてくる言葉をアスベルは堰き止めておくことができなかった。
「俺が……俺がソフィをラントに住まわせていることを、ソフィは負担に思っていたのか……?」
 それが事実だとしたら、衝撃どころの話ではない。自分の立っている地面がぐらつくような感覚に陥った。
 自分はソフィに何かを押しつけているつもりなどなかった。ただ彼女に故郷を作ってやりたい、彼女と共に過ごせる時間が欲しい、そう思ったからこそ、ソフィをラントに住まわせているのだ。ある意味、アスベルの我が儘と言っても良い。
 フレデリックにある程度何かを言われた影響があるとはいえ、これはソフィが真剣に考えて結論を出したことだ。ソフィは嘘を吐かない。いつまでもアスベルのお世話になるわけにはいかない、とは、おそらく彼女の本心からの言葉なのだろう。
「俺はソフィに感謝してもらいたいわけじゃない。俺の傍で笑っていて欲しい、それだけなのに……」
 うっすらと涙声になったアスベルの肩を、リチャードはなだめるように優しく叩いた。その自然な行為に、アスベルはますます涙を誘われる。こらえきれなくなって、アスベルの頬を一筋の涙が伝った。それをリチャードに見られまいと顔を伏せつつ、アスベルは溢れ出る思いを、どうすることもできずにいるのだった。
「アスベル、君の気持ちはよく分かる」
 リチャードが努めて優しい声を出そうとしているのが、アスベルにも伝わってきた。
「親しい人が自分の前を去っていってしまうのは、確かに悲しいことだ。けれど、これはソフィが成長した証と捉えても良いんじゃないかな」
「理屈では、分かってるんだ。分かってるんだけど……」
「……そうだね。けれど、きっとソフィも悩み抜いて出した結論なのだと思う」
 それはその通りだ、とアスベルも頷いた。
「君はソフィを引き留めなかったんだろう? それはきっと、ソフィが真剣なのを君も分かっていたからなんじゃないか?」
 リチャードに指摘されて、アスベルははっとした。親友がそこまで見抜いているとは思いもしなかったからだ。間違いなく、彼の指摘するとおりだった。アスベルは涙を拭って顔を上げた。隣で微笑みを湛えたリチャードが、優しい眼差しでアスベルを見つめていた。
「一生会えなくなるというわけじゃないだろう。だから今は、彼女の成長を優しく見守ってあげよう」
「ああ……そうだな。ありがとう、リチャード」
 心から感謝の意を伝えると、リチャードは首を振った。
「このくらい、大したことはないよ。君の力になれて良かった」
 リチャードはそう言ったが、アスベルは心底リチャードに感謝していた。彼がいなければ、自分は気持ちに整理のつけられないまま、ずっともやもやとした気持ちを抱えるはめになっていたかもしれない。そうなれば、悩み抜いた上で旅に出ることを決意した彼女を、気持ち良く送り出すこともできなかったかもしれない。
 アスベルは空を仰いだ。抜けるような青空に向かって、ソフィを笑顔で見送ることを誓いながら。


 その日の夜、一通り仕事を終えて、アスベルは自分の部屋に向かった。
 だが途中で、旅支度をするから入らないで欲しいと言っていたソフィの言葉を思い出した。アスベルとソフィは部屋を兼用で使っているから、そうなると自分の部屋には入れない。
 扉の前で立ち止まって、しばらく悩んだ挙げ句、アスベルは一階の客間へ行ってみることにした。客人であるリチャードの部屋にいきなり乗り込むのは気が引けるが、仕方ない。
 そう思って、踵を返しかけた、その時だった。
「アスベル、遅いね」
 中からソフィのくぐもった声が聞こえてきた。だがそれは独り言ではなく、誰かに話しかけているような口調。アスベルが怪訝に思って扉に近づくと、意外な人物の声が聞こえてきて、アスベルは仰天した。
「そうだね。けれど、アスベルはかなり悩んでいたようだからね。もしかしたら今日は、ここに帰ってこないかもしれない」
「リチャード……!? 何で……」
 アスベルの口から思わず声が洩れる。続いて、ソフィの声。
「そう……少し、やり過ぎたかな」
「けど、ソフィ、君の目的は達成できたんだろう? だったら、良かったじゃないか」
「うん。……嬉しかった」
 小さくて聞こえづらかったが、それでも喜んでいるとはっきり分かる声だった。
 アスベルは我慢できなくなって、勢いよく扉を開いていた。その瞬間、中にいた二人の視線が一斉にこちらを向く。部屋は整理されたままで、ソフィの荷物らしき物はどこにも見つけられなかった。信じられないような思いで、アスベルは二人を見つめていた。
「二人とも、何で……」
 その先の言葉が見つからず黙ってしまったアスベルに、リチャードは微笑みを浮かべながら言う。
「やあ、アスベル。遅かったね」
「うん。待ってた」
 ソフィがその後に続く。口をぱくぱくさせることしかできないアスベルに、リチャードは苦笑を浮かべ、ソフィを振り返る。
「アスベルは随分驚いているみたいだ。ソフィ、君から説明した方がいいんじゃないかな」
「うん。じゃあ」
 ソフィは頷いて、一歩進み出た。アスベルは呆然としつつ、ソフィに尋ねた。
「ソフィ、お前、旅に出るから旅支度をするんじゃなかったのか?」
 信じられないことに、ソフィははっきりと首を横に振った。驚きに目を見開くアスベルに向かって、ソフィは口を開く。
「あのね、アスベル。今日は何の日か、知ってる?」
「今日? 今日は――」
 何かの記念日だったろうか。自分の誕生日でも、リチャードの誕生日でもない。思い当たることがなくて眉間に皺を寄せていると、ソフィが大きな瞳で見つめながら言った。
「えいぷりるふーる、だって」
「エ……エイプリル、フール?」
 言葉を呑み込むのに時間がかかった。ようやくその言葉を理解してはっとなった時、後ろのリチャードが進み出て、口を開いた。
「そういうことだ。僕が少し、ソフィに入れ知恵をしたんだ。どうか彼女を責めないであげて欲しい」
「リ、リチャードが?」
 アスベルは再び驚きに目を見開く。彼は決してユーモアを解さない人間ではないが、こういったふざけた行事の類に参加するような性格の人間ではないと思っていたからだ。リチャードはソフィの肩に手を置きつつ、言葉を続けた。
「彼女たっての頼みでね。ソフィがアスベルの気持ちを知りたい、と言ったから」
「ソフィが……」
 ソフィに視線を戻すと、ソフィは少し頬を赤らめつつ、頷いた。
「ここに来て、一年くらい経って……アスベルは、わたしのことをどう思ってるのかなって、急に気になったの」
 アスベルはよたよたと彼女に近づいた。そうしてリチャードの目も気にせず、しゃがんで彼女を抱き締める。ソフィの温もりが、腕を通してアスベルに伝わってきた。
「こんなことしなくても……俺に訊いてくれれば、いくらでも言うのに」
「アスベルの本当の気持ちが知りたかったの。でも、アスベルを驚かせてしまった。ごめんなさい」
 いいんだ、とアスベルは首を振る。事実、ソフィが本当に旅立つ気がないと分かっただけで、落ち込んでいたアスベルの心は既に救われていた。
「ソフィ。頼むからもう、いきなりどこかへ行くなんて、言わないでくれよ」
「うん、言わない。わたしはずっとアスベルのそばにいるから」
「二人とも、良かった」
 立って二人を見下ろすリチャードが、心底そう思っているというような口調で言った。途端にアスベルはリチャードがいることを思い出し、ソフィの身体から手を離して立ち上がる。決まり悪そうに視線を逸らして頬を赤らめるアスベルに、リチャードは優しく声を掛けた。
「僕のことは気にしなくていいのに。僕は二人がこうなることを、心底望んでいたんだから」
「いや、でも」
「じゃあ、僕はもう眠るから、下の部屋に戻るよ。それじゃ、二人とも、また明日」
 リチャードは小さく手を振った後、自然な動作で二人の横をすり抜けていく。
「うん。おやすみ、リチャード」
「ああ、おやすみ。ソフィ、そしてアスベル」
 ソフィが小さく手を振り返すと、リチャードは僅かに身体をこちらへ向けて、微笑みを残して去っていった。
 扉がぱたんと閉まった後、アスベルは頭を掻きながら、ソフィの方を振り返る。
「いや、しかし騙されたな。真剣に悩んでいたのが恥ずかしいよ」
「ごめんなさい。でも、嬉しかった。リチャードに聞いたの。アスベルが、わたしに傍で笑っていて欲しいって言ってた、って」
 庭でのリチャードとの会話を思い出し、アスベルは頬を赤らめる。あの時流した涙も、結局は無駄だったと言うことか。しかしアスベルは、あながち無駄とも言い切れないような気がしていた。
「わたし、ずっとアスベルのそばにいるから。アスベルが望むなら、ずっとそばで笑ってるから」
「……ああ。俺は、ソフィがそうしてくれているだけで嬉しいんだ」
 アスベルは頷いて、もう一度ソフィの身体を抱き締める。今度はソフィも腕を伸ばして、アスベルの服を掴んだ。
 互いの温もりを感じながら、二人はいつまでも笑みを浮かべていた。
(2010.4.1)
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