やすらぎのひととき

「んーっ……」
 執務室の椅子から立ち上がり、アスベルは大きく伸びをした。視線を落とし、ようやく終わった仕事の山を眺めて、溜息をつく。書類に目を通し、判を押すという言ってみれば単純な作業だが、当然ながらただ判を押すだけでは終わらない。書類の内容を理解し、吟味し、納得できなければいけない。頭を使う作業なので、アスベルはすっかり疲れ切ってしまっていたのだった。
 凝りきった肩を叩いてほぐしながら、なんだか歳を取ったみたいだと苦笑する。思えば幼い頃父も、執務室から出てきた時に疲れた表情でそうしていたのを見たことがある気がする。幼い頃はただうるさいだけの父親だと思っていたが、自分が父と同じ立場になったことで、ようやく父の苦悩や努力、そして彼が抱いていた自分たち兄弟への思いを理解できるようになった。偉大な人だったと、目を閉じて改めて思う。
 そうしていると、突然アスベルの背の側にある窓を叩く音がした。驚いて振り返ると、そこには見慣れた少女が立っていた。紫の双髪を揺らし、軽く首を傾げている。
 アスベルはほっと溜息をついて、窓を両手で開け放った。
「どうしたんだ、ソフィ?」
「アスベル。もうお仕事は終わったの?」
 尋ねるソフィに、笑いながら頷く。
「ああ。今やっと終わったんだ」
「じゃあ、入ってもいい?」
 アスベルは部屋の入り口の方へ振り返り、誰も入ってきていないのを確認しながら、ソフィに向かって頷いた。
「ああ、いいぞ」
 許可を出すと、ソフィは軽い身のこなしであっという間に外と内の境界線を越えた。見た目は十三歳くらいの少女だが、ソフィの身体能力は同年代の少女たちより極めて高い。そのことに改めて驚いてしまい、いつも見ているはずなのにと、アスベルは内心苦笑した。
 ソフィはアスベルの机に視線を向けた。山積みになっている書類を見た後、アスベルを振り返る。
「これが、お仕事?」
「ああ、そうだ。ソフィには、少し難しいかもしれないけど」
 俺にとっても簡単なものじゃないけどな、と口の中で小さく呟くと、ソフィはふうん、と納得したように頷いた。実際、その通りだった。自分の知識不足を痛感することも多く、父が遺した過去の資料を何度も引っ張り出し、うんうんと唸りながら内容を理解することも多かった。
 身体に残った疲れから俯いて溜息を吐くと、ふとソフィが視線をこちらに向けていることに気付いた。顔を上げると、ソフィの紫の大きな瞳と出会う。その紫水晶のような美しい瞳に、何もかもを見透かされたかのような気分に陥る。
「どうしたんだ、ソフィ?」
「アスベル、来て」
 そう言うと同時に、ソフィはアスベルの手を握った。そうして再び、開け放たれた窓に向かってひょいと脚を持ち上げ跳躍し、軽々とその境界を越えてみせる。アスベルは戸惑いながらも窓際に立つと、ソフィはアスベルの手を握ったまま、「来て」と言った。
 フレデリックやケリーに見つかれば苦言を呈されるだろうな、と思いながら、アスベルは一度ソフィの手を離し、窓際に両手をついた。
「よっ、と」
 ソフィのように一回で境界を越えることはできなかったが、境界線に足を載せ、よっ、と言いながら庭に降り立つ。柔らかい土が着地の衝撃を和らげ、アスベルは小さく息を吐いた。
 ソフィはまだ育ちきっていない若い花の咲いている場所に歩いて行き、花を踏まないように気を配りながら、すっと膝を折った。アスベルを見上げて、言葉を発する。
「アスベルも、ここに座って」
「ん? あ、ああ……」
 多少服が汚れるかもしれないと思ったが、正装ではないので問題はないだろうと判断し、ソフィと向かい合うようにして膝を折った。正座をするソフィは、真正面からアスベルを見つめた後、自分の膝をゆっくりと指差す。
「ここに頭、置いて」
「え……!?」
 アスベルはそこでようやく理解する。この少女が一体何をしようとしているのかを。微かな羞恥が胸を掠め、戸惑いが表情に浮かんだ。今ここに誰の目もないことは幸いだったけれども、だからといって躊躇いが生じないわけはない。
「ソフィ、それって……」
「アスベルは、いや? わたしのひざまくら」
「い、いや、そういうわけじゃないけど……」
 アスベルの頬が赤らみ、気恥ずかしさから髪を掻く。自分よりも幼く見える少女に膝枕をしてもらうこと。羞恥だけではなくて、どこか情けないような気持ちも現れてくる。けれどもその思いとは裏腹に、ソフィは膝の位置を直し、アスベルを受け入れる体勢をすっかり整えていた。
「本当に、いいのか?」
「うん」
 ソフィが頷くと、結われた髪が一緒に揺れた。アスベルはなおも躊躇いつつ、体勢を変えて、ゆっくりとソフィの膝へと頭を下ろす。
「大丈夫か? 足、痛くないか?」
「へいき。アスベル、あたたかい」
 ソフィの膝に頭を載せた途端、アスベルも同じ事を思った。ソフィの膝は温かさに満ちている。何もかもを包み込み癒してくれる、母の愛のような温もり。天上から降り注ぐ太陽の光に目を細めると、そのまま瞼が落ちていってしまいそうになった。
「アスベル、疲れた顔してた。だから、ゆっくり休んで」
「ソフィ……」
「お仕事も大切。でも、休むことも大切なの」
 上から降ってくるソフィの声の優しさに、思わず甘えてしまいたくなる。自室のベッドへ行かず、こんな裏庭で眠るのはどうなのだろうと思いながらも、今は暖かな陽気とソフィの優しさに包まれて、迫り来る眠気に抗えずにいた。
「ありがとう、ソフィ」
「うん」
 ソフィの顔が動く気配がして、揺れた髪がかすかにアスベルの頬を撫でる。
 そうしてアスベルの意識は徐々に、奥底へと沈んでいった。


「ケリー様、あそこに……」
 館の前の花壇に花を見に来たケリーは、メイドの声に応じて顔を上げた。メイドが指差す方向に視線を向けると、そこには薄紫の髪の少女が一人。その膝の上に、見慣れた赤い髪の青年の頭が載っている。
「アスベル、それに……ソフィ」
「お昼寝……をされているのでしょうか。アスベル様は」
 館の陰に隠れた目立たない場所で、二人の姿はまるで一枚の絵のように映った。ケリーは目を細めて二人を見守った。絶え間なくかすかな風が吹き、ソフィの長い細髪を揺らしている。
 遠くからなのでアスベルの表情はおぼろげにしか見えなかったが、とても安らいだ表情をしているように見えた。ケリーは驚くと同時に、小さく溜息をついた。アスベルが、自分の前であんな表情を見せたことはなかった。こうして大きく成長した後では尚更だ。昔から領主の跡継ぎとなるよう、厳しく躾けてきたせいかもしれない。
 けれどもそんな安らいだ表情を、あの少女はいとも簡単に引き出したのだ。思い返してみれば、アスベルはあの少女と一緒にいる時、よく笑っているような気がする。あの少女のことを、アスベルがこの上なく大切にしていることには気付いていたが、その事実を改めて突き付けられたような気分になった。
「ケリー様?」
 メイドの声で我に返ったケリーは、微かに笑った。
「そうっとしておきましょう。きっとアスベルも疲れているのね」
「はい」
 メイドは頷いた後、小さく笑いながら言った。
「あのお二人は、とても仲がよろしいのですね。いつも一緒におられるのを見る度に、温かな気分になりますわ」
「そうね」
 ケリーはそっとしゃがんで、ソフィが手入れをしているクロソフィの花に微かに触れた。花は生き生きとしていて、ソフィの手入れが丁寧で行き届いたものであることが存分に窺えた。
「時折、うらやましくなることがあるわ。私には決してできない方法で、アスベルとの心の距離を縮めてしまった、あの子が」
「……え?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
 メイドの戸惑ったような声に、ケリーは首を振って打ち消した。そうしてクロソフィの花が風の動きにそって揺れるのを見ながら、頬を緩めて穏やかに微笑んだ。
(2010.10.21)
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