現の温もり

「あの子はもう死んでしまったのよ。都合の良いように考えないで」
 そう言い放った途端、アスベルは雷に打たれたように驚いた顔のまま硬直した。シェリアの心はずきりと痛んだが、それよりも、過去の幻想にすがりつこうとしている幼馴染みを心底憎らしく思う気持ちの方が勝った。
 幼かった頃、楽しい時間を共に過ごした友人たちはもういない。彼らはシェリアを除き、ただの一人も残らず外の世界へ出て行ってしまった。シェリアにはそれが耐えられなかった。一人でラントに残り過ごしていた時、内から喉を突くような寂寥感に、何度も涙を流しそうになった。あの楽しかった時があったからこそ、一人になった時の寂しさはシェリアにとって耐え難いものだったのだ。
 アスベルは知らないのだ。その時、自分がどれほど辛い思いをしていたか。だからこそ、過去の良き日々と現在がまるで変わっていることを認められずにいる。今更になって現実を見つめ、今更のように絶望している彼に対するもやもやとした思いは心の中でどんどん膨れ上がり、シェリアは無意識に素っ気ない態度を取ってしまっていた。
「シェリア……」
 シェリアの素っ気ない言動を不審がるように、アスベルが名を呼ぶ。だが彼の顔を見ていられなくて、シェリアは思わず視線を逸らした。スカートを押さえつける両手に、自然と力が入った。
 アスベルの傍らには、薄紫色の双髪に、髪とよく似たすみれ色の瞳を持つ少女が立っていて、二人の顔を覗き込んでいる。
 彼女は先程、ラント裏山の花畑で突如光の中から現れた。その姿は、幼い頃楽しい時を共に過ごした友人のそれと酷似していた。本人である以外有り得ないと、有無を言わせずそう思わせてしまうほどの存在感を持っていた。
 アスベルは口では、彼女があのソフィであることは有り得ないと言った。だがそう断定するには、彼女はあまりにも過去の少女に似過ぎている。だからこそ信じたいのだろう。その気持ちは、シェリアにも痛いほど理解できた。
 だがそれ以上に、現実的に考えて有り得ないということ、そしてその現実を無視するかのようなアスベルの甘い考えに腹が立ったのだ。今まで現実を痛感してきたシェリアには、そのような甘美な考えをすぐに受け入れることができず、それが悔しくて悲しくてならなかった。
 ――私だって、信じたい……
 心の中で呟く。
 シェリアだって、七年前自分の目に映っていたのとそっくりそのまま同じ姿をしている彼女が、親しかった友人の一人であると信じたかった。だがそれを信じようとするたび、もう一人の自分が心の中で囁くのだ。現実を見ろ。あの子は七年前に死んだ。あの子はもうこの世にいないのだと――
 ラントに帰るまでのシェリアの足取りは重かった。ソフィに似た彼女が何度か、俯く自分の顔を覗き込んできたが、どうか見ないでくれと心から願った。
 七年前とは違う。ラントも、ウィンドルも、そしてアスベルも、何もかもが変わってしまった。何もかも――そう、自分でさえも。


 フェンデル軍との戦いで傷ついた兵士を癒した後、シェリアは屋敷に戻ってきた。アスベルはかつての領主アストンの執務室におり、フェンデル軍の野営地へ夜襲をかけることを決断していた。シェリアはその奇襲作戦に加えてくれと申し出、ソフィに似た少女も含め、三人はラントを出て敵の前線基地に向かうことになった。
 アスベルの傍らに立つ少女を見ていて、シェリアは気になることがあった。彼女の傍に寄ると、思った通り、彼女の身体には僅かに土や乾いた草花の端が付着していた。
「さっきの戦いで、少し汚れたみたいね。こちらに来て」
「うん」
 彼女は素直に頷いて、差し出されたシェリアの手を握った。
 ただ手を取っただけなのに、シェリアは思わずどきりとする。その手には、確かな温もりが存在していた。死者の身体には決して存在し得ないものだ。こうして身体を動かしているのだから当たり前のことなのに、少女が生きていることを改めて実感し、シェリアは思わず涙を流しそうになった。
 執務室を出て、屋敷の中の浴室に向かう。ここの浴室は領主の屋敷というだけあって脱衣所も浴槽も広く、常に新しいタオルと良い香りのする石鹸が備え付けてある。シェリアは脱衣所の中まで少女を導くと、手を離して彼女を正面から見た。
 顔を上げた少女の大きな瞳がシェリアを見つめている。あの頃の彼女と何一つ変わらない、そう思った。
 だからこそ、苦しい気持ちになった。あの頃に戻りたいという、切ない思いが心の奥から溢れ出してくる。戻れるはずがないという現実を何度も何度も叩き付けられて、その度に身を裂かれるような思いをしたはずだったのに。
「シェリア?」
 名前を呼ばれて、我に返った。目の前の少女は、相変わらず自分を見つめ続けている。そういえば自分はこの少女に名乗っただろうかと僅かに疑問を感じつつ、慌てて笑顔を取り繕った。
「なんでもないわ。さあ服を脱いで、ソ……」
 ソフィ、と言いそうになって、シェリアは慌てて口をつぐむ。だが彼女には気付かれなかったようで、特別な反応は何も返ってこなかった。シェリアはそっとため息をついた。
 自分は結局アスベルと同じなのだ――そう認めざるを得なかった。


 少女が全ての服を脱いで、生まれたての姿を晒す。こうして見ると本当に華奢で、少しでも力を加えればぐしゃりと潰されてしまいそうだった。七年前は背伸びをしてやっと届くくらいの身長だったのにと、思わず過去に思いを馳せてしまう。
 シェリアはそろそろ彼女を見るのが辛くなっていた。彼女を見れば、どうしても過去を思い出してしまうからだ。それでもぐっと耐えて、少女を浴槽へと連れて行った。
「身体を洗ってあげるから、じっとしていてね。いい?」
「うん」
 少女は双髪を揺らしながら、こくりと頷いた。
 風呂場に備え付けてあるはずの石鹸を探すが、見当たらない。少し待っていてと言うと、シェリアは脱衣所に戻り、石鹸を探した。棚にはどこの店でも売っているような普通のものから地方限定の珍しいものまで、様々な種類の石鹸が置かれている。こんなに種類が豊富なのは、ケリー夫人が花の香りのする石鹸を好んでおり、いくつか地方から取り寄せているからだ。
 シェリアは何の気なしに、一番手前に置かれていた石鹸を手に取った。やや紫がかった色の石鹸。それが何の種類であるかなどは、ほとんど気に留めなかった。
 風呂場に戻ると、少女がこちらを振り向いた。シェリアの手に握られている石鹸を見て、微かに首を傾げる。
「それ、なに?」
「石鹸よ。身体を綺麗にしてくれるものなの」
 そう説明して、壁に掛けられているタオルを手に取り、石鹸をこすりつける。少しずつ水に溶かしながらこすりつけていると、やがてタオルが泡立ってきた。同時に花の良い香りが漂い始める。
 シェリアの隣でその光景を見ていた少女が、鼻をくんくんと鳴らし始めた。そうして、ぽつりと言葉を洩らす。
「……クロソフィの匂い」
 シェリアははっと顔を上げた。思わず隣の少女を振り返ると、少女はじっとシェリアの手元を見つめたままだった。クロソフィ。その花の名を知らないはずがなかった。何故なら、その花は――
「どうして、知っているの?」
 唇がわななくのが自分でも分かった。有り得なかったはずのことが、現実味を帯びていく。少女は少し黙った後、静かに首を横に振った。
「わからない。でも、とても懐かしい匂いがする」
 彼女はそう言って、もう一度くんくんと鼻を鳴らした。
 シェリアの手から、石鹸が床に零れ落ちた。確かにそれは、クロソフィの花の香りだった。何の気なしに選んできた石鹸が、まさかクロソフィのものだったとは――
 シェリアは少女の背に手を回し、少女を抱きしめていた。少女の長い双髪がシェリアの肩に当たる。彼女の身体に存在する確かな温もりを感じながら、シェリアの瞳からは緩やかに涙が零れ落ちていた。
「あなただったのね……やっぱり、あなただったのね……」
 懐かしい友の香り。少女は自身の気に入った花――クロソフィから、ソフィという名を得た。もし彼女が別人で、全ての記憶を失っているとするなら、その花の香りと名称など知るはずもないのだ。それを知っているということは、やはりこの花に縁のある人物だということなのだろう。そのような人物を、シェリアはただ一人しか知らなかった。
「帰ってきてくれたのね……」
 涙が止めどなく溢れ出る。少女の身体から伝わる温もりを、永遠に失いたくないと思った。もう二度と、七年前のような思いはしたくない。
 シェリアは嗚咽を漏らしながら、ずっとソフィの温もりの中で涙を流していた。


「ねえ……」
 風呂上がりの少女の髪を結い直しながら、シェリアは顔を赤らめて呼びかける。少女が少しだけ振り向くと、シェリアは恥ずかしそうに笑いながら言った。
「さっきのこと……アスベルには言わないでね。私が泣いていた、なんて」
「うん。わかった」
 少女はこくりと頷いた。ほっと安堵のため息をついて、シェリアは髪結いを再開した。
 きちんとした確証もないのに、クロソフィの香りに反応したというだけで、彼女をソフィだと思い込んでしまった。思い込んでしまったが最後、溢れる涙をこらえきれずに彼女を抱きしめてしまったのだが、あれは早計だったとシェリアは反省していた。
 目の前にいる少女がソフィだという確かな証拠はまだないのだ。クロソフィの花なんて、どこにでも咲いている。少女がそれを知っていたとしても、何も不思議なことではない。
「うん、終わったわ。アスベルやみんなを待たせちゃいけないから、外へ行きましょうか」
「うん」
 髪を結い終えた後、少女と手を繋いで浴室を出る。途端に風呂の中のむせ返るような湿気から解放されて、シェリアは思わず深呼吸した。すると隣にいる少女も、シェリアと同じように深呼吸した。すう、と息が小さな口から漏れる。
 シェリアは無意識のうちに、目を細めて少女の横顔を見つめていた。何故だか分からないが、この少女に愛着が湧き始めていることに、シェリアは薄々気が付いていた。少女がたとえあのソフィではなくとも、この身体に宿る温もりは守ってやらなくてはならないと、シェリアは密かに決意した。
「アスベルが待っているわ。行きましょう」
「うん」
 ソフィが頷くのを見てから、シェリアはアスベルの待っている執務室へと足を向けた。その顔に、何年かぶりの心からの微笑みを浮かべながら。
(2010.1.21)
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