繊細なヴァイオリンの音に誘われるように、金澤は講堂の扉を開けていた。
その音色が誰のものか、金澤は知っている。この数ヶ月、嫌でも聴かざるを得なかった、そして聴かずにはおれなかった音色。
扉を開けると、そこには案の定彼女がいた。講堂のピアノの隣で一人立ち、まるで大いなる何かに動かされるように弓を操っている。金澤は静かに扉を閉めると、その様子を見守った。
フォーレの「夢のあとに」。金澤にとっては、因縁の深い曲だった。失った恋人とのもうひとときを夢見て書かれたという、自分を重ねずにいられない作品。
そして、日野が秘めた思いを告白してきた時、弾いてくれた曲。
それを今、日野は意識的にかそうでないのか、あの時と同じように弾いていた。
彼女は選んだ、自分と共に歩む道を。たとえそれが茨の道と言われようと、彼女の心は止められなかった。
人を再び愛することを恐れていた金澤にとって、彼女の真っ直ぐな瞳は、何よりも辛く鋭く金澤の心を貫いた。そんな瞳から逃げたくて、金澤は日野から目を逸らそうとした。だが、できなかった。自分が思っている以上に、金澤は日野の姿を追いかけていることに気付いたのだ。
もう、遅い。金澤は諦めて、自分の思いに屈した。再び傷つくかもしれないと思いながら、もう日野なしの生活は考えられなくなっていた。
彼女が静かに弾き終えた後、金澤は手を叩きながら講堂のステージに向かって歩いた。その音は講堂中に響き渡り、日野は驚いたようにはっと顔を上げた。
「先生……」
「上手くなったな、日野」
ステージの下に立ち、金澤はにやりと笑む。日野はしばし戸惑ったような表情を見せた後、金澤に向かって微笑んだ。
「先生のことを思って、弾いていたんです」
その言葉を聞いた瞬間、金澤の中で、何かが爆発する音を聞いた。金澤は大きくため息をつき、日野を睨んだ。
「……馬鹿、そういうこと、平気で言うな」
そんなことを言われて、自分が何も思わないわけがないのに、日野はそれを知らないのだろうか。それとも、自覚がないのか。掴みきれないもどかしい思いを持て余し、金澤は再び溜息をついた。
そんな金澤を見て、日野は申し訳なさそうに頭を下げた。
「す、すみません」
「謝る必要はない。けどな、言葉には出すなって、言ったろう」
金澤はそう言って、静かに唇の前に人差し指を立てる。
秘密は言葉にしてはならない。あくまで心に秘めたままでいなければならない。
それに耐えられない時だけ、人は、秘密をあらゆる芸術にのせて伝えることが許されるのだ。
日野は金澤の言葉の意を汲んだのか、こくりと頷いて、再びヴァイオリンを構えた。
「じゃあ、先生。もう一曲だけ、聴いてくれますか?」
「ああ、いいさ。どうせ暇なんだ」
彼女のためだけに使える暇だとは、決して言葉に出さぬまま。
金澤が見守る中、日野は再び弓を操り、美しい音色を奏で始めた。
その曲にも、金澤は聴き覚えがあった。最終セレクションが終了したその日、彼女のヴァイオリンが奏でていた曲。自分のためだけに奏でてくれた曲。
エルガーの、愛の挨拶。
なあ、いいよな、日野。
お前さんの前だけ、教師じゃなく、ただの金澤紘人でいても。