ただ一つの確かなこと

「先生。ここにいらしたんですね」
 音楽室の戸締りをしていた金澤は、その声に気付いて入口の方に顔を向けた。そこにはヴァイオリンケースを抱えた日野が立っていて、金澤をじっと見つめていた。
 秋の夕方六時ともなると外はもう暗く、山あいから漏れ出たわずかな夕日が部屋の中に差し込むのみだ。そんな薄暗い音楽室の中で、彼女の濃い髪の色だけが妙にはっきりと浮き出ていた。
 金澤はため息をつき、日野の方に体を向けた。
「何やってんだ、日野。生徒はもう帰れって、放送があっただろう?」
「はい。でも、……あの」
 ためらうように言葉を詰まらせる日野を見て、金澤は面倒臭そうに首の後ろをぽりぽりとかいた。
「なんだ? はっきり言えよ」
「あの、ここでもう少し、練習してもいいですか?」
 顔を上げて、日野はよく通る声でそう尋ねた。
 金澤は面食らった後、口の中で参ったな、と呟いた。それが単なる口実にすぎないことを、金澤は知っていた。
 彼女は、自分に教師として以上の感情を抱いている。更に言えば、それが日野の独りよがりな感情ではないことも、金澤は自覚していた。
 金澤は日野の真っ直ぐな目に弱い。何の迷いもないその瞳で見つめられると、どうにかなってしまいそうになる。危ういバランスの中で自分という人間が成立していることを、嫌でも認めざるを得なくなる。
「……ああ、いいぞ」
 一瞬迷ったものの、金澤は即座に許可していた。日野はほっとしたように息をつき、微笑んだ。
「良かった」
 日野はヴァイオリンケースを床の上に置くと、慣れた手つきで留め金を外し、ヴァイオリンを取り出した。そのまま、顔の前で構える。
 ちら、と送られてきた彼女の視線を受け止め、金澤は合図するように頷いた。
 合図と同時に、彼女の腕は滑らかに動き始めた。G線上のアリア。それが、日野の弾く曲の名だった。知名度が高く、定番ともいえる曲だが、それだけに耳によく馴染む。日野はこの曲が好きなようで、よく弾いているのを金澤は耳にしていた。
 弾き終えられた後、金澤は日野に拍手を送る。日野は嬉しそうに笑ってヴァイオリンを下ろし、頭を下げた。
「どうでしたか?」
「どうでしたか、って言われてもな。お前さんは元々それ、得意だろ」
「はい。得意だから、弾きました」
 そう言って、日野は笑いながら頷いた。それにつられて、金澤も自然と微笑んでいた。こうして彼女と笑っていられる時間が、金澤の何よりの喜びだった。
 だがその後で我に返った金澤は、ぽりぽりと頭の後ろをかいた。正直なところをいえば、彼女ともう少し一緒にいたいという思いは確かにある。だが、時間と規則はそれを許してはくれない。金澤は教師だ。日野に帰らなければならないと諭すのは、何より自分の役目なのだ。
「あー、そうだ、日野」
 金澤が日野と視線を合わすと、日野が怪訝そうな顔をした。金澤は外にわざとらしく視線をやり、言葉を続けた。
「もう暗いし、お前さんが一人で帰るのは危ないからな。俺が送っていってやろう」
「本当ですか?」
 まるで待っていたと言わんばかりの口ぶりに、金澤は苦笑する。これだから困るのだ。あくまで学校の中で、金澤と日野は教師と生徒。本心を見せるような言葉を交わしあってはならないと、いつか日野に諭したはずだったのに。
 それでも日野の本心を垣間見れたと思うと嬉しくて、金澤は怒る気も失せていた。
「じゃあ、校門の前で待っててくれ。戸締りしたら、行くから」
「はい」
 日野はヴァイオリンケースの中にヴァイオリンをしまい、鞄と共に持ち上げると、金澤に一礼して音楽室を去って行った。金澤は軽く手を振って、それを見送った。


 誰もいない音楽室は、火が消えたように静かだ。
 昼間は多くの音楽科の生徒が出入りし、ひっきりなしに楽器の音が聞こえてくるというのに、夜になるとこうも姿を変えるとは――金澤は改めて驚いていた。いつもはそんなことを考えもしないのに、考えに至ってしまったのは、先程日野に会ったせいかもしれない。
 金澤は全ての窓に鍵をかけたことを確認して、ポケットから音楽室の鍵を取り出した。ぴたりと音楽室の扉を閉めてから、鍵をかける。
 校門に行けば日野が待っている。嬉しそうに金澤が来るのを待っている日野を想像すると、金澤の心まで晴れてくるような思いだった。こんな気分は久しく味わったことがなかった。
 教師と生徒という立場の隔たりは、思ったよりも大きい。どうしても、普通の恋人同士のように接するわけにはいかない。そのせいで、何度自己嫌悪と後ろめたさに悩まされたか分からない。
 それでも、金澤は、悩みながら日野を愛する選択をとった。それは日野も同じだった。自分が周囲から冷たい目を向けられると知っていても、金澤といることを選んでくれた。
 音楽室の鍵のついたキーホルダーを人差し指で回しつつ、暗い廊下を歩きながら、金澤は知らず知らずのうちに鼻歌を歌っていた。曲は、先程日野が弾いた「G線上のアリア」だ。頭の中に、日野の弾く姿を思い浮かべながら。
 だが少し歌ったところで、喉に痛みが込み上げる。金澤は喉に手を当て、静かに溜息をついた。
「……やっぱりな」
 自分はもう、歌えない。そんなことは自分が一番よく知っていたはずで、もう諦めていたというのに、日野に出会ってから変わった。もう一度この声で、音楽を紡ぎたい。素人から、あそこまで人に聴かせる音楽を作り上げた日野のように、自分ももう一度、と考えるようになってしまったのだ。
 日野と、自分の声。その二つのことを考える時、金澤の思考は負の方向へ向かう。らしくないと思いながら、自分がいかに危うい人間であるか、嫌というほど思い知らされる。
 自分の周りには不確かなもので溢れていて、いつも確かなものを探そうとしては絶望する、その繰り返しだ。
 そのせいで金澤はもう、確かなものを探すのをやめてしまった。これ以上の絶望感を味わうのは、耐えられないから。


 ただ、それでも、願わずにいられないことが一つだけある。
 自分の周りにある確かなものの一つが、日野の愛であれば良いと――
「らしく、ねえよなあ」
 金澤はそこまで思って、自分自身の考えに苦笑した。
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