二人のクリスマス

 年に一度やってくる、聖なる夜――世間一般的にクリスマス、と呼ばれる行事など、自分とは一生無縁だと思っていた。だが、今年はどうやらそうでもなくなってしまったらしい。
 ワイシャツのボタンを上まで留めてから息苦しくなり、やはり二つほど外す。慣れないことはするもんじゃないなと呟き、金澤は鏡に映った自分の姿を見て苦笑した。普段の自分の姿から考えれば、これでも十分きっちりした方だ。
 なんとなくすっきりしない気分ながらも、これから会う彼女の顔を思い浮かべ、あいつなら分かってくれるだろうと勝手に納得することにした。そばの椅子にかけておいた黒いジャケットを羽織り、金澤は鏡に背を向けて玄関へ向かった。
 玄関のドアノブに手をかけたところで、忘れ物があったことを思い出す。赤い包装紙にリボンをかけてラッピングしたプレゼント。デパートの店員に頼むのさえ気恥ずしかったその代物を、ここにきて忘れるわけにはいかない。
「これでよし、と」
 金澤はプレゼントを片手に、玄関を出た。
 外に出ると、既に白い妖精たちが空から舞い降りていた。雪が降っていたのだ。金澤は真っ暗な空を見上げ、へえ、と感心したように顎をさする。
「ホワイトクリスマス、ねぇ」
 世間の恋人たちはこの状況に狂喜していることだろう。今までの金澤なら、そんな彼らの姿を見て、ただ雪が降っているだけじゃないか、何を喜ぶことがあるのか、と鼻で笑っていたに違いない。だが、今日はそうではなかった。
 ――あいつ、やっぱり喜んでるんだろうか。
 クリスマスに雪が降って喜ぶ彼女の顔を想像すると、心が温かくなった。今からその顔を見に行けるのだと思うと、ますます心が躍るのを感じた。
 不思議なものだと、金澤は思う。彼女に出会い、彼女と関係を深めるにつれ、無機質なものだらけだった金澤の世界は色を取り戻し始めた。そのために、今まではなんでもないこととして流していた小さなことで驚くようになったり、感心するようになった。
 今も、そうだ。去年まではどうとも思わなかったクリスマスのイルミネーションが、とても眩しいものに見えた。
 肩に落ちてきた雪を振り払おうとして、何故か惜しいような気分になり、手を止める。その後で、金澤は思わず苦笑した。
「早く行ってやらなきゃ、な」
 金澤はごまかすように独り言を呟くと、待ち合わせ場所に向かって歩を進めた。


 待ち合わせ場所の駅前には、多くの人々の中に混ざって、既に彼女の姿があった。彼女は何よりも早く金澤を見つけると、笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。
「金澤先生!」
「おう、日野。遅れて悪いな」
 彼女――日野香穂子は、いいえと首を振った。髪に結ばれた金色のリボンが、同時にふわりと揺れる。コンサートの時と同じように髪を結い上げ、髪の色と同じ真っ赤なドレスに身を包んだ日野は、金澤が心の中で参ったなと呟いてしまうくらい、艶めかしい姿だった。コンサートで何度も見慣れているはずなのに、その時の彼女とはまるで違ったように、金澤の目には映った。
「先生? あの、私、何かおかしいですか?」
 いつの間にか、自分は日野のことをじっと見つめていたらしい。いやいや、と金澤は首を振り、彼女に手を伸ばしたい衝動を、ぐっとこらえる。
「お前さんがあまりに、――ああ、可愛いなと思ってさ」
「せ、先生!」
 顔を真っ赤に染めた日野を見て、金澤は声に出して笑った。
「はは、顔まで真っ赤なんじゃ、お前全身真っ赤っかだぞ」
「だって、先生が――!」
「はいはい。あ、それから」
 日野の抗議を軽くいなし、金澤は片目をつむりながら、唇の前に人差し指を立てる。
「今日は"先生"はナシな。学校の外なんだから」
「え、でも……」
「問答無用。さ、行くか」
 金澤はそう言って、次の目的地に向かって歩き出す。日野もワンテンポ遅れて歩き出し、再び金澤に向かって抗議の声を上げる。
「ちょっと、先生、急に――」
「だーかーら、先生はナシって言ったろ?」
 金澤が日野の方を振り向いて口を尖らせると、日野は困ったような顔をした。
「で、でも、何て呼べばいいんですか? その、金澤せ――さんのこと」
 先生、と言いかけて、慌ててさん、と言い換えた彼女の様子が、何よりも可愛らしく見えた。
「さあな。ま、俺は"金澤さん"でもいいけど」
 金澤がくくっと笑うと、日野は少し視線を逸らし、頬を赤らめながら、呟くように言った。
「じ、じゃあ、――紘人さん」
 ひろと、と彼女の声で呼ばれた途端、金澤の心臓が大きく跳ねた。
 たかが名前を呼ばれただけなのに、どうしてこうも、と苦笑しながら、金澤は日野の頭をくしゃりと撫でた。
 日野はまたしても顔を赤らめたまま、金澤を抗議の目で見た。
「ちょっと、髪、乱れちゃうじゃないですか……!」
「お前さんが悪いんだ。あんまり可愛いこと言うから」
 金澤はいたずらっぽくウインクし、再び歩き出す。
 ちら、と隣を歩く彼女の横顔を盗み見ると、日野はまだ頬を赤く染めたままだった。金澤が感じている胸の鼓動の高まりを、日野も同じように感じていればいいのに、と金澤は知らず知らずのうちに願っていた。


 今日はクリスマスだ。街中が人でごった返している。人の波にのまれそうになりながら金澤は日野の姿を何度も確認した。
「日野、大丈夫か?」
「は、はい」
 その声を聞いて一応は安心するも、安心しっぱなしではいられない。人の波はあちこちから押し寄せてきて、いつはぐれてもおかしくないような状況なのだ。
 どうしたもんか、と思ったその時、金澤の手が何かに引っ張られる感触がした。感触のした方を振り向くと、そこには日野の白い手が伸びていた。だが見えるのは手だけで、日野の姿が見えない。
「日野!?」
 金澤は思わず声を上げていた。離すまいとして、彼女から伸ばされた手をしっかりと掴み返す。
 なんとか日野を手繰り寄せようと手を引っ張ったその時、突然人々の中から日野が現れた。日野を引く勢いが強すぎたせいで、日野はそのまま金澤の腕の中へ飛び込んできた。
「きゃあっ!」
 どさっ、と音がして、二人の体は人々の波から外れ、日野の顔が金澤の胸に押し付けられる。日野は慌てたように顔を上げ、金澤から離れた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「俺は平気だ。お前こそ大丈夫か? 悪かったな、引っ張ったりして」
「いえ、私は――」
 そこまで言いかけて、日野は自分の手がまだ金澤の手を離していなかったことに気付いたらしい。あっ、と小さな声の後、日野の手がぱっと開いて金澤から離れようとした。
 だが、それを金澤が掴んで引き戻した。日野の目が、驚きに見開かれる。
「ひ、紘人さん……?」
「お前さんさえ嫌じゃなきゃ、俺はこのままでいいんだが」
 にやり、と笑う。日野はあっ、と声を洩らした後、こくりと頷いて、手を握り返してきた。
「はい。じゃあ、このままで」
「よし。ま、こうしてりゃ、お前さんを見失わずに済むしな」
 日野の手は冷たくて、金澤はそれをなんとか温めてやりたいとさえ思った。こう冷たくては、ヴァイオリンも満足に弾けないだろう。これからヴァイオリンを弾きに行くわけではないが、金澤はそれが少し気にかかった。
「手、冷たいな。大丈夫か?」
「はい。だって、紘人さんの手があったかいから」
「……お前なあ」
 日野の口からためらいもなく出た言葉に、金澤の心臓がまたしても跳ね、金澤はため息をつく。
 彼女にはためらいがない。金澤が立場や年齢を気にして出せずにいる言葉を、日野はいとも簡単に紡ぎ出してくる。それが金澤にとっては嬉しくもあり、悩みでもあった。
「ま、いいか。今日はクリスマスだし、俺はただの金澤紘人。そうだよな」
 クリスマスの賑やかな声に紛れて、金澤は独り言を呟く。都合のいいことに、その声は誰にも聞かれずに済んだらしい。金澤はほっと息をついた。
 これから日野と向かうのは、クリスマスのコンサート。有名なヴァイオリニストがゲストとして招かれており、ちょうどいいと思って金澤はチケットを取ったのだ。人のために苦労してチケットを取ることなど久しかったが、日野の喜ぶ顔を見た途端、その苦労はどこかへ飛んで行ってしまった。
 コンサートの会場前に着いた時、手を繋いだまま、日野が金澤の方を向いた。
「あの、紘人さん」
「ん? なんだ」
「今日はありがとうございました。このコンサート、すごく競争率が高いって聞いたんです。なのに、わざわざ取ってくださって……」
 金澤はふっと笑う。
「そりゃあ、今日のヴァイオリニストの演奏はお前さんのためになるだろうと思ったからな。……それに」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
 金澤は言おうとして止めた。
 全てを抜きにして、彼女とただ出かけたかったなんて、言えるわけがない。
「ちょっと! そこでやめないでくださいよっ」
「なんでもないって言ってるだろー。さ、早く行かないとコンサート、始まっちまうぜ」
「もう!」
 怒ったように声を上げる日野の手を握ったまま、金澤は再び歩き出した。
 数分後、美しい音色で埋め尽くされるはずの空間に、日野と二人で行くために。
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