思考が闇へと堕ちてゆく。
本当は少しだけ、そう、過去を懐かしく振り返るように、軽い気持ちで思考を動かしただけなのに。
どん底だった頃の自分を思い出し、不意に泣きたい気分になる。酒を浴びるように飲まなければ、とてもではないがやっていけなかった、あの頃。そして自分の唯一の武器であったはずの、声を失ったあの頃。
負の感情が泉のように溢れだし、金澤の心を蝕んでいく。それに抗おうとしながらも屈してしまっている自分が情けないやら辛いやらで、金澤の思考はますます負のスパイラルに巻き込まれていった。
自分の中に潜むトラウマが思ったよりも強い爪痕を残しているということを、金澤は嫌というほど思い知らされることになったのだった。
「先生!?」
遠くから、心配そうな日野の声が聞こえる。金澤が顔を上げると、ばたんとドアが開いた。刹那、日野が息をのむのがわかった。
「先生! どうしたんですか!?」
日野が駆け寄ってくる。金澤は情けない思いに打ちのめされながら、必死に声を絞り出した。
「はあっ、は……香穂、香穂子……」
苦しい息に混じって、金澤は日野の名前を呼んでいた。助けを求めるように手を伸ばすと、日野はすぐにその手を自分の手に絡めてくれた。
金澤の体を支え、日野は心配そうに顔を覗き込む。金澤の大きな背を必死でさすり、息を整えようとしてくれた。
「駄目だな、俺は、っ、思い出した、だけなのに……」
金澤の途切れ途切れの言葉を拾い、日野は金澤の発作の原因が何かを悟ったようだった。
「先生、大丈夫、大丈夫ですから……」
日野が背をさすりながら言ったその時、金澤の体がゆらりと揺れた。金澤の重い頭が日野の方へ傾き、日野はバランスを崩してしまった。
「きゃ……!」
重力に逆らえず、二人の体はソファに転がった。
それでも金澤は動く気力もなく、ただ日野の方へ体を傾けたままでいた。日野は何も言わず、それを受け止めてくれた。
「先生……」
「日野、俺は、今、」
途切れ途切れに、金澤は言葉を発する。
「自分が情けなくて、しょうがないんだ……」
生徒の前で醜態をさらしている自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。まして、相手は日野だ。日野に自分の過去を話すことはあっても、このような姿は決して見せまいと思っていた。何よりもう、自分は過去のことは過去のことだと、割り切れた気でいたのだ。それなのに――
「先生は、情けなくなんかありません」
日野は金澤の背をさすりながら、そう言った。
「辛い時は、誰かに胸を借りて泣けばいいんです」
金澤は荒く息を吐き出しながら、はは、と乾いた笑いを洩らした。日野に、そんなことを言われるとは、思ってもみなかった。
「なかなか、言うじゃないか、お前さんも」
「だって、そう言ってくれたのは先生だったじゃないですか。私が魔法のヴァイオリンを失った時。そう言って、私が先生の胸で泣くのを、許してくれた」
「そんな、ことも、あったな」
日野が涙を目にいっぱい溜めて、それでも決して流すまいとこらえていた時。金澤はそんな日野を見ていられなくて、ぽんと頭に手を置いた。
――泣けばいい。思いっきり泣け。お前さんの気が済むまで。
その瞬間、日野は涙をこぼした。嗚咽を漏らし、金澤の胸にすがって泣いた。金澤はそれを優しく受け止め、背をさすってやった。日野が泣きやむまで、ずっとそうしていた。
「だから、泣けばいいんです。思いっきり。私以外、誰も見てませんから……」
日野の言葉が、一条の光となって金澤の闇を照らす。金澤は次第に息を整え、ふ、と笑った。
「ありがと、な……」
刹那、つうと、金澤の頬に涙が伝った。