内緒の赤い印

「そういや、今日から三月なのか」
 二月も終わり、やっと春が来るかと思ったが、まだ完全に寒さが去ったわけではなさそうだ。音楽準備室の窓を開け放った瞬間、ひゅうと入り込んできた風に、金澤は身震いする。
 今日は日曜日だ。本来、金澤は世間の人々と同じようにゆっくりと自分の時間を過ごす予定だったのだが、運悪く当番にあたってしまい、それも叶わなくなった。休日でも学校に来て勉強したり、楽器の練習をしたいという熱心な生徒がいるため、教師は交替で、開放されている学校の見回りをしなければならないのだ。
 寒い寒い、と呟きながら窓を閉め、楽譜が散乱している自分の机の上に目を向ける。散らかった机の上には、ぽつんと卓上カレンダーが置かれていた。去年の暮れに知り合いからもらったシンプルなもので、何かと便利なのでずっと机に置いていた。
 昨日まで二月だったから、まだカレンダーには二月という大きな字が書かれたままだ。こいつもめくってやらなきゃな、と思い、金澤は何の気なしにカレンダーをめくった。
 三月という字が現れたところで、金澤はあることに気がついた。一日のところに、赤いペンで印が入れてある。こんな印を自分で入れた覚えはない。はて、と考えて、金澤は犯人に思い当たる。自分以外でこんなことをしそうなのは、あいつしかいない。
「日野か……」
 金澤の庭とも言えるこの音楽準備室に気軽に入ってこられるのは、日野香穂子しかいなかった。
 三月一日に何があったろう、と金澤は思い出す。雛祭りは三日だし、そもそもそんな行事に縁はない。日野の誕生日かとも考えたが、よくよく考えれば、金澤は日野の誕生日を知らなかった。日野が自分の誕生日に気付いてもらいたくて印を残したとも考えられるが、赤丸の印だけでそれを金澤に知らせるのは無理がある。
「誕生日ね……」
 そこまで呟いたところで、金澤ははっと思い当たり、ぽんと手を叩いた。
「おっ、そういえば、今日は俺の誕生日か」
 随分遠回りしたような気分だったが、自分の誕生日を間違えることはない。金澤は今この瞬間、今日が自分の誕生日だということを思い出したのだった。
 日野に自分の誕生日を知らせたことがあっただろうか、と思い返したが、日野には最強の情報屋がついている。大方、報道部の天羽菜美が彼女に知らせたのだろう。
「それで印、ねぇ」
 人差指で赤丸をなぞり、思わずにやりと笑む。
 彼女が自分のために印を残したのか、それとも金澤のために印を残したのかは分からなかったが、自分の誕生日を覚えていたということが、嬉しいと同時に微笑ましかった。教師と生徒という立場を盾に、彼女とは一線を引いているつもりなのだが、どうもこういうことをされると弱い。金澤の頬は意に反して緩んでしまう。
 しばらくにやにやとしたまま、くるくると指を動かした後で、ふう、と金澤の口からはため息が洩れた。現実という名の波が金澤の心に押し寄せ、幸福な気分を取り去ってしまう。
 本来、こんな印がここにあってはならないのだ。
 そもそも、音楽準備室への立ち入りを口では禁止しつつも結果的に許してしまっている時点で、一線を引いているなどと到底言えるものではない。金澤は緩んでしまった頬を引き締め直した。その後でもう一度、大きく息を吐いた。
「いかんよなあ、これじゃ」
 机を離れ、窓から外を見る。
 日曜日のため、当然ながら校内は実に静かなものだった。春になったばかりの暖かな日差しが眩しい。それでも冷たい風が吹いていることは先程体感したから、もう窓を開けようという気にはならなかった。
「誕生日……か」
 金澤のカレンダーに印を付けるほどだ、こんなイベントを、日野が見逃すはずもない。きっと――自惚れかも知れないが、いや自惚れであればどんなに良いかと金澤は思ったが――日野は自分へのプレゼントを用意しているだろう。そしてそのうちここへ来て、それを金澤に渡すのだろう。満面の笑みを浮かべて。
 そうなれば、頑なに日野を拒む自信が、今の自分にはない。
 悲しい顔をして、悩んだり溜息をついたりする日野の姿を、もう見たくなかった。
「やれやれ」
 鬼になりきれない自分に、金澤は苦笑した。


 その時、音楽準備室の扉が叩かれた。金澤は驚いて、思わずびくりと肩を震わせる。悪い予感が的中してしまったのか、それとも別の生徒が何かを訊きに来たのか。複雑な思いを抱きながら、金澤は声を出した。
「はい、どちらさん?」
「あの、日野です。先生、中へ入ってもいいですか?」
 金澤の悪い予感は、的中してしまったようだ。思わず溜息が洩れる。
 一瞬どうしようか迷ったが、拒むことなどできないと、金澤は続けて言葉を発していた。
「ああ、いいぞ」
 ぎぃ、と鉄の扉が軋みながら開き、日野香穂子が現れる。案の定、日野の右手にはラッピングされたプレゼントらしきものがあった。
「先生、あの、お誕生日おめでとうございます」
 日野ははっきり通る声でそう言った。金澤は唇の端をつり上げて、笑う。
「ああ、ありがとさん。本人も忘れてたようなこと、ちゃんと覚えてたんだな?」
「忘れてたんですか?」
 日野が目を丸くする。金澤はああ、と笑って、印の付けられた卓上カレンダーを指差した。
「これをめくったからな、かろうじて思い出せたってとこだ。お前さんだろう? これに印を付けたのは」
 日野は笑みを浮かべて、頷いた。
「はい。先生の誕生日を聞いたばかりの時に。印を付けておかなきゃ、忘れると嫌だからと思って」
「お前さんなあ、このカレンダーは一応俺のだぞ」
 金澤は苦笑する。
「ま、結果的に俺が思い出せたんだから、いいっちゃいいのかもしれないが」
 金澤は独り言を言うように呟いて、卓上カレンダーを見つめる。
 自分の誕生日に付けられた、赤い印。記念日に無頓着な金澤にとっては、誕生日も同じで、大して気に掛ける必要もない行事だった。だが、ぽつんと付けられたその印は、何か特別な意味を持っているかのように、金澤には映った。
 もっとも、日野が来た時点で、今日というこの日は特別な意味を持ち始めていたのだけれども。
「それで、先生。これ、プレゼントです」
 日野は淡いブルーの包装紙にくるまれたプレゼントを、金澤に差し出す。何の気なしに受け取ろうとして、ふと、現実の波が金澤の思考を侵食する。このまま受け取ってしまって良いのか。素直に受け取ってしまえば、先程の自身の葛藤が無駄になってしまう――
 だが、金澤は理性の囁きに反し、プレゼントに手を伸ばしていた。それを掴んだ瞬間、日野の目が驚いたように見開かれた。
「……ありがとな」
 微笑み混じりに、金澤は感謝の言葉を口にする。
「はい!」
 日野は笑顔になり、込み上げる嬉しさを噛みしめるように、胸に手を当てた。
「早速だが、開けても構わないか?」
「はい。気に入ってもらえるといいんですけど」
 日野の許可を得て、金澤は丁寧に包装を解いていく。セロハンテープを爪ではがし、ゆっくりと包装紙を取り払うと、一つの箱が出てきた。更にその箱を開けると、中にはマグカップが入っていた。金澤が音楽準備室で愛用しているものとほぼ同じ大きさのマグカップだ。包装紙と同じ、淡いブルーに、猫の絵が描かれている。
「ほう。可愛いじゃないか」
「気に入ってもらえました?」
「ああ。ありがとな、日野」
 素直に感謝の言葉を口にすると、日野はまた嬉しそうに微笑んだ。


「さて、せっかくだし、コーヒーでも淹れるかね」
 金澤はそう呟くと、出したばかりのマグカップをコーヒーメーカーの側まで持っていった。いつものように挽いた豆を入れてセットし、コーヒーができるのを待つことにした。
「そういや、お前さんの誕生日はいつなんだ?」
 自分がいつも使っているマグカップを棚から出しながら、金澤は何気なく尋ねた。
「そういえば、言ってませんでしたね。私の誕生日にも、印付けておきましょうか?」
「そのカレンダーにか? ……まあ、お前さんに任せるよ」
 そう答えた後、金澤は二つのマグカップをコーヒーメーカーの隣に置いて、再び日野の方に向き直った。直後、部屋中にコーヒーの良い香りが漂い始めた。
 日野は金澤の机の向かいにあった椅子に座ったまま、机の上に転がっていた赤いペンを取り、卓上カレンダーをめくった。その後、きゅっとペンの音がした。日付に丸をし終えたようだ。
「印だけで、分かるかな」
 日野の独り言に、金澤は答える。
「ま、多分思い出すだろ。このカレンダーに書き込むのは、おそらくお前さんくらいのもんだろうから」
「えっ? 先生、カレンダーに予定書いたりしないんですか?」
「ああ。だから思い出せる。多分、な」
「多分……」
 明確な物言いを避ける金澤に、日野はやや不安そうな表情を見せる。金澤はそんな日野の頭にぽんと手を置いて、微笑んだ。
「そんな顔、するな。今はお前さんに、"絶対"なんて言葉を言うわけにはいかないんだ。分かるだろ?」
「でも……」
 金澤の言葉の甲斐もなく、日野の表情がだんだんと暗くなっていく。それを感じ取った金澤は、努めて優しい声で言った。
「じゃあ、俺も印を付けておこうか?」
「えっ? 印って、どこに――」
「ここに」
 驚いたように目を見開く日野の頬に、金澤はそっと口付けた。
 金澤の唇が触れた場所にくっきりと、赤い印が現れる。日野は顔を上気させ、金澤を見上げた。
「せ、先生……」
「これで、いいか?」
 金澤はにやりと笑った。
 その後、日野に背を向けて、もうすっかり部屋中をその香りに染めてしまったコーヒーを取りに行く。背中に日野の視線を感じながら、コーヒーをカップに注いでいると、日野が声を出した。
「先生」
「ん?」
「信じてますからね……先生」
「あぁ」
 コーヒーを注ぎながら、金澤は答えた。
 元々金澤が使っていたカップと、先程日野がプレゼントしてくれたカップ。二つにコーヒーを注ぎ終えたところで、金澤は元々使っていた方のカップを日野に渡した。白い湯気が、コーヒーの香りとともに二つのカップから立ち上る。
「早速これ、使わせてもらうな」
「はい」
 日野はカップを受け取り、自分のプレゼントしたカップを持っている金澤を嬉しそうに見つめた。
 まずは一口、金澤はコーヒーをすすって、あまりの熱さに顔をしかめつつも、満足げに笑った。
「ん、うまいな。ほれ、お前さんも飲んでみ」
「あ、はい」
 日野は金澤に倣って、同じようにカップに口を付けた。だが、笑顔だった日野の顔が、みるみるうちに歪められていった。それがあまりにおかしくて、金澤はこらえきれず笑い声を洩らす。
「ははは、熱かったか?」
「それもありますけど……」
「けど?」
「先生、お砂糖かミルク、ありませんか?」
 金澤はもう一度声に出して笑った。
「残念だが、俺は常にブラックだからな」
「そんな……」
 カップの底の闇を見つめ、日野は絶望したような声を出す。金澤はもう一口、自分のカップからコーヒーを飲んだ後、にやにやと笑いながら言った。
「ま、お前さんにはまだ早かったってことだな。大人の味は」
「……そう、みたいですね……」
 強がりで負けず嫌いの日野が、こうもあっさりと負けを認めるとは。金澤は少し意外に思ったが、そんなところも可愛いよななどと考えながら、もう一度コーヒーをすすった。
 その後、金澤は自分のカップを机の上に置くと、日野のカップをさらった。
「あ……」
「飲めないお前さんの代わりに、今日は特別に飲んでやろう」
 金澤の言葉を聞いて、日野は心底ほっとした表情を浮かべた。
「先生、今度は砂糖とミルク、置いておいてくださいね」
「今度ってお前さん、またここにコーヒー飲みに来るつもりなのか?」
「……いけませんか?」
 微かに不安げな色を宿す日野の瞳を見て、かなわんな、と金澤は息をつく。
「じゃ、その印の付けた日だけ、特別に開放してやろう」
 卓上カレンダーを指しながら、金澤がそう言うと、日野の顔がぱあっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ」
 頷いた後で、自分の甘い発言に内心苦笑したが、日野の嬉しそうな笑顔を見ていると、罪悪感も薄れていく気がした。
 一日くらいなら構うまい――金澤はそう思って、自分を納得させることにした。そうすると、驚くほどに気が楽になった。
「約束ですよ、先生」
「多分な」
 今度は明確な表現を避けても、日野は文句一つ言わなかった。その代わり、先程金澤が付けた印にそっと触れ、金澤を真っ直ぐに見つめた。
「信じてますから」
「ああ」
 その約束だけは、信じててもいいぞ――金澤は目で、そう告げた。
(2009.3.1)
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