老兵は死なず、ただ消え去るのみ

 街中を覆い尽くしている鉛の匂いに、マリクは顔をしかめていた。
 言葉では言い表せない妙な感情が、先程から心の中で渦巻いていた。母体に還ってきた安堵のような、それなのに居場所をなくした時のような落ち着かない気持ち。マリクは宿屋に併設されている酒場のカウンター席で酒をあおりながら、浮かない顔をして考え込んでいた。
 この帝都に対する様々な思いが、マリクの心の中で複雑に絡み合っていた。できればここへは二度と来たくなかったというのが本音だ。絶えず雪が降り積もる中、そびえ立つ灰色の建物を見ていると、胸が締め付けられるように苦しくなる。見張りをしている冷徹な兵士たち、フード付きの上着を羽織って寒そうに歩いている街の人々、まだ幼いというのに工場で働かされている子供たち。それら全てがマリクの記憶の糸を辿り、忘れていたはずの過去を思い出させた。
 そういえば、と、空になったグラスを置きながら思い出す。昔はよく、ここで仲間たちと改革運動について話し合った。この国の現状に憂い、困窮した国民を救うため、自分たちが取るべき行動を懸命に考えた。構成員は若い者たちばかりだったが皆真剣で、それ故に充実した日々だった。
 不意にマリクの頭に、共に改革運動に参加していた女性の顔がちらつく。
(……ロベリア)
 そういえば、ロベリアがオイゲン総統の娘であるとカーツから聞かされたのも、この酒場だった。マリクが彼女の心を深く傷付けたのも、この酒場の前のことだった。
 当時は良かれと思ってしたことなのに、今となっては後悔の念しか出てこない。せめて彼女が、今もどこかで生きていれば。マリクは手のひらを見つめ、彼女の温もりを思い出そうとする。自分の腕の中で急激に体温を失っていった彼女。自身の体温を分け与えるように、必死で彼女を抱きしめたが、その時には既に何もかもが遅かった。
「おかわりを頼む」
「はい」
 バーテンダーに空のグラスを差し出す。
 バーテンダーが酒を作っている間、マリクはぼんやりと店内を照らす灯りに目を向ける。店内は快適な温度に保たれているが、それも煇石の力が使われているからこそだ。煇石がなければ、たちまちフェンデルの国民は凍え死んでしまうことだろう。その煇石も、今はほぼ軍部や富裕層が独占している状態であり、地方に住む民たちは地面に落ちている小さな小さな煇石の欠片を拾い、燃料にする他ないのである。
 その状況を何とかして打開したいと考える若者たちによって行われた改革運動。しかしながら、この国の現状は二十年経った今も変わってはいない。結局自分たちがしたことは何だったのか、そしてロベリアは何故死ななければならなかったのか。マリクは顔を伏せ、大きなため息をついた。
「どうぞ」
 いつの間にか、酒が出来上がっていたようだ。礼を言いながら大きな氷の浮いたグラスを受け取ると、マリクはそれを一気に飲み干す。カウンターにグラスを置くと、中の氷がからんと涼しげな音を立てた。
 隣に座っていた一人の男性が会計を済ませ、腰を上げて外へ出て行った。これで店内の客は、マリク一人となった。バーテンダーはカウンターの中でグラスを磨いている。自分もそろそろ部屋に戻るか、と腰を上げようとした時、後ろから鈴のような高い声が聞こえた。
「教官、なにしてるの?」
 マリクは驚いて後ろを振り向いた。するとそこには、すみれ色の大きな双眸で自分を見つめている少女がいた。
「ソフィか。こんな夜遅くにどうした」
「パスカルの寝息がうるさいの」
 またか、とマリクは微笑する。ベラニックの宿屋に泊まった時も、ソフィはそう言って起きてきた。あの時は昔のことを思い出し暗い気分になっていたが、それでもソフィが来たことで少し気が紛れ、珍しく歌まで歌った。そのせいで次の日は声が枯れてしまい大変だったが。
 ソフィはマリクの手に握られているグラスに興味津々のようだった。
「それ、お酒が入ってたの?」
「そうだ。お前は飲むなよ。まだ子供なんだから」
 そう言って、グラスをソフィから遠ざける。ソフィはしばらく物欲しそうにグラスを見つめていたが、やがて視線をマリクの方に映した。
「教官、顔、赤いよ」
「ああ、ちょっと飲み過ぎたかもな……頭がくらくらする」
「だいじょうぶ? シェリア、呼んだ方がいい?」
「いや、大丈夫だ。それにシェリアなんか呼んだら、飲み過ぎだなんだとお小言をくらいそうだからな。そいつはできれば勘弁したいところだ」
 マリクが冗談めかして言いながら微笑むと、ソフィはそう、と言って納得してくれたようだった。
 ソフィは不思議な雰囲気を纏った少女だった。華奢な体ながら身体能力に優れ、その拳から繰り出される攻撃は、魔物を軽々と吹っ飛ばしてしまうほどの威力があった。しかし世の中のことをあまり知らないらしく、疑問に思ったことはすぐに口にした。マリクはその度に嘘を教え、仲間――特にシェリアとヒューバート――から顰蹙を買っていたが、ソフィは一切疑問を持たず何でもかんでも信じてしまうので、マリクはますます面白がって様々な冗談を言い、嘘も教えた。
 この少女と対面していると、まるで娘と会話しているような気分になることがあった。マリクはその度に心の中で苦笑していた。娘なんていたこともないし、ましてや家庭を持ったこともないのに、不思議なこともあるものだと。
「教官、ちょっとだけ辛そうな顔、してる」
「はは、そうか」
 ソフィに言い当てられて、マリクは笑って誤魔化す。彼女は人の表情の移り変わりに人一倍敏感だ。
「また、昔のこと……思い出してたの?」
「ああ、ちょっとな……もう随分昔の話だよ。ソフィ、この間歌った曲を覚えてるか?」
「うん。今も歌えるよ。ほら」
 そう言って、ソフィはメロディを口ずさみ始めた。一度歌っただけなのにここまで覚えているかと思うほど、ソフィの小さな口が奏でるメロディは実に正確だった。
 優しさに満ちたメロディの中に、時折悲しげな音が入る。マリクはそのメロディと共に歌詞を思い出し、胸が詰まるような感覚に襲われた。理想を追い求める二人の男。理想を失い国を出て行った自分と、最後まで追い求めようとした、自分の親友だった男――
「教官?」
 いつの間にか、ソフィは口ずさむのをやめていた。心配そうな顔をして、自分の顔を覗き込んでくる。マリクは慌てて手を振り、なんでもない、と告げた。
「なあ、ソフィ。お前には、守りたいものがあるか」
 唐突な質問。ソフィは小首を傾げてしばらく考え込んでいたが、やがてこくりと頷いた。
「あるよ。アスベル、シェリア、ヒューバート、パスカル、それから、教官。みんなのこと、守りたい」
「そうか」
 自分もその対象に入っていることを密かに嬉しく思いながら、マリクはソフィの額を撫でた。ソフィは始めきょとんとしていたが、少し嬉しそうにして、桃色の唇に微笑みを浮かべた。


「教官!」
 その時、背後から今度は男の声が聞こえた。マリクとソフィが同時に振り向くと、そこにはアスベルが立っていた。アスベルもマリクと同じ部屋で寝ていたはずなのだが、パスカルの寝息が隣の部屋まで響いたのか、起きてきたようだ。
 アスベルはソフィの姿を認め、驚いたように目を丸くした。
「ソフィまで……一体どうしたんですか。まさかソフィにお酒を?」
「いや。俺は一滴も飲ませていないぞ」
「うん。のんでない」
 アスベルはやや安堵したように息を吐いた。
「そうですか。それはともかく、こんな時間まで飲んでおられたんですか。明日に響きますよ」
「ああ、すまないな。もう部屋に戻ろうと思っていたところだ」
 次、アスベルはソフィに視線を移す。
「ソフィは? もう寝たんじゃなかったのか」
「パスカルの寝息がうるさいから、起きちゃったの」
「そうか。でも、もう部屋に戻った方がいいぞ」
「はあい」
 ソフィはパスカルの真似をして、片手を真っ直ぐに上げて返事をした。その後、素直に階段を上り、部屋へと戻っていった。
 グラスの中で少し溶けた水を飲み干し、部屋へ戻っていくソフィの姿を見つめながら、マリクはアスベルに話しかけた。
「なあ、アスベル」
「何ですか」
「お前には、守りたいものがあるか」
 アスベルは唐突な質問に、えっ、と小さな声を洩らす。だがすぐに、真剣な顔をして頷いた。
「もちろん、あります」
「あのソフィが、そうか」
「はい。彼女には借りがあるんです」
「借り?」
「まだ幼い頃、彼女は私の命を救ってくれたんです。それで、今度は自分がソフィを守らなければと思いました」
「なるほどな」
 彼らの過去の話は以前にも少しだけ聞いたことがあった。アスベルが騎士学校に入ってまで強くならなければならなかった理由。それを尋ねた時、アスベルは誰かを守るための力が欲しいからです、とはっきり言い放った。彼らが体験した七年前の出来事は、何よりも強くアスベルの心に残っているようだった。
 マリクは自分の過去を顧みる。守りたいという思いすら口に出来ないまま、死なせてしまった愛しい女――ロベリア。アスベルにはそのような後悔をして欲しくない、とマリクは思った。こんな思いをするのは、自分だけでたくさんだ。
 マリクはやや強い口調で、アスベルに言った。
「お前がソフィを守ると決めたなら、最後まで守り切れ。たとえ何があってもだ。そして――」
 マリクはやや目を伏せて、重々しく言った。
「あの子が望むなら、ずっとお前の側に置いてやれ」
 自分は最後までロベリアの側にいることも、守りきることもできなかったから。
「教官……?」
 アスベルははじめ、怪訝な目でマリクを見つめた。だが、マリクの表情を見て何か思うところがあったのだろう、力強く頷いた。
「はい。この剣に誓って」
「ああ。それでいい」
 マリクは頷いて、再びグラスを持ち上げた。そうしてすっかり小さくなってしまった氷を、口の中で勢いよく噛み砕いた。
 若き者たちに幸あれと、心の中で呟きながら。
(2010.1.26)
Page Top