フェンデル山岳トンネルを越え高原を横切り辿り着いた先は、ベラニックという名の寂れた村だった。
村の外には人っ子一人おらず、一見すれば廃村ではないかと疑ってしまうほどの寂れ具合だった。木材がすっかり古くなっているために雪の重さでぎしぎしと軋んでいる家もあれば、既に腐って崩れかけている廃屋まである。村で最も大きな建物は村の出口付近に建っている宿屋だったが、それも帝都ザヴェートのそれとは比べものにならないほど薄汚れていた。
自分が予想していた以上に酷い村の状況に、マリクは思わず顔をしかめた。改革運動の一環としてここベラニックに視察に訪れたはいいが、せいぜい村の現状を把握するだけで良いかなどと考えていたマリクは、それが甘い考えであったことを痛感するのだった。
マリクの隣に立つ金髪の女性が、口に手を当てて絶望の声を出す。
「こんな……酷い、こんなことが……」
「ああ……俺も、ここまで酷いとは思わなかった」
マリクは重々しく頷いた。
彼女は同じ改革運動に参加している仲間、ロベリアだった。フェンデル兵士と同じ黒い軍服に身を包み、金髪を後ろで結い上げている。女性ではあったが、マリクやその親友カーツと志を同じくする仲間であった。
二人はゆっくりと村の中へ歩を進めた。雪に混じって、埃っぽい匂いが鼻を突く。歩く度、積もった雪がブーツの底と擦れてざくざくと音を立てた。
改革運動に参加することで、自分は誰よりもこの国の現状を見つめている気分になっていた。だがそれが誤りであったことを、今更ながらに気付かせられた。マリクは思わず唇を噛みしめていた。
自分は何も見ていなかった。ただ帝都でぬくぬくと生活しながら、正義の味方を気取っていただけだ。自分たちが動けば、自然と地方のフェンデル国民の暮らしも良くなるものだと信じていた。だが、この現状はどうだ。彼らは今日食べる物を、そして寒さをしのぐための煇石を確保するだけで精一杯なのだ。相当な労力をかけなければこの生活が改善されないであろうことは、容易に想像がついた。
「私たちに、何か出来ることは……」
ロベリアが辛そうな口調で言う。マリクはゆっくりと歩きながら、静かに返した。
「……俺たちに出来るのは、一刻も早く改革させることだ。今はそれだけを考えろ」
「ええ……そうね」
ロベリアは小さく頷いて、開きかけた軍服の両襟を左手で握り締めた。事実マリクにも、それ以外の良策が思い浮かばなかった。
二人は一通り村の様子を見て回ったが、ついに外に出ている村人を発見することはできなかった。暗澹たる思いで宿屋へ向かう。
この村の現状を一体どのようにしてカーツらに伝えれば良いのか、マリクは考えていた。カーツなら真剣に話を聞いてくれるだろうが、他の構成員の中には、とにかく力ずくで政府に反抗すれば良いと主張するような過激派もいる。彼らは真に国民のことを考えているわけではないから、マリクたちがこの村について報告したとしても、あっさりと聞き流してしまうだろう。そうはして欲しくなかった。おそらくはロベリアも同じ思いであろうと、マリクは隣を歩く女性を一瞥した。
「いらっしゃいませ」
宿屋へ入ると、カウンターにいた若い女性が客の来訪を喜んで明るい声を出した。ところがマリクとロベリアが黒い軍服に身を包んでいるのに気付くと、途端に女性は怯えたような表情になった。
「あ、あなたたちは……」
「ザヴェートから来たマリクと申します。こちらはロベリア」
二人が頭を下げると、女性は震える声で言った。
「あ、あなたたちは、軍人さんではありませんか」
「そうです。しかし、私たちは視察に来ただけです」
「視察?」
「ええ、ですから、この村から搾取をしようなどとは微塵も思っていません」
マリクは努めて穏やかな声を出した。
女性のすっかり怯えた様子を見て、マリクは内心でため息をついていた。彼らが軍人に対し異常に怯えるのは、ザヴェートの軍人がそれだけ酷いことを村人たちにしてきたということだ。誤解を解くのは容易ではないだろうが、それでも何とか理解してもらえればと、マリクは希望の糸にすがった。
やがて女性は、少しばかり安堵した様子を見せた。自分たちが彼らに何も危害は加えないと、理解してくれたようだ。女性は口を開いて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「視察と言っても、この村にはご覧の通り何もありません。村に残っているのは老人や女子供ばかりですから」
そうして、小さくため息をつく。
「男たちは皆、港から闘技島へ稼ぎに行くと言ったり、山を越えてザヴェートに出稼ぎに行くと言って出て行きました。……その後どうなったのかは、皆知りません」
「そんな……」
ロベリアが口を手で覆った。マリクも顔を歪ませて視線を逸らす。
その後彼らがどうなったかは、想像するまでもないだろう。闘技島は猛者揃いであり、訓練も受けたことの無いような人間が挑戦して勝利できるほど甘くはないし、備え無しにフェンデル山岳を越えてザヴェートに行くこともほぼ不可能である。マリクやロベリアが無事ベラニックに辿り着けたのは、彼らが道中出会う危険な魔物を退けられるだけの力を持ち、更に寒さをしのげるだけの煇石を所持していたからだ。
「それで、うちに泊まって行かれるのですか?」
女性がカウンターの中から鍵を二つ取り出しながら、そう尋ねてきた。マリクとロベリアが同時に頷くと、女性はそれぞれに鍵を渡してくれた。
「部屋は二階です。あなたたち以外のお客様はいらっしゃいませんから、ごゆっくりどうぞ」
事務的な返答だったが、女性の声は先程よりも暗くなっているように感じられた。
礼を言って鍵を受け取り、二人は荷物を置くため二階へ上がった。
大きな重石を抱えたような気分に陥りながら。
「マリク、ここにいたのね」
荷物を置いた後部屋を出て二階の広間で佇んでいると、ロベリアがやって来た。マリクは顔を上げて、ああ、と短く返答した。
「私、この村がここまで酷い状況だったなんて……想像もしなかったわ」
窓から外を眺め、ロベリアがぽつりと言葉を洩らす。
「そうだな。結局俺たちは、この国の現状なんて何も知らなかったってことだ」
「ええ……」
視線をマリクへと移して、ロベリアは口を開いた。
「私には、皆にこの有様を伝えるだけの言葉が……見つからないわ」
それはマリクも同じだと認めざるを得なかった。この村の現状を、『酷い』という一言で片付けることだけはしたくなかった。だがどう言葉を尽くしたとしても、この現状を皆に伝えきることはできないような気がした。
この宿屋にも、カウンターにいた女性以外の人間の気配はなかった。彼女が最初から一人で切り盛りしているのか、それとも夫がいたが、その夫も村を出て行ってしまったのか。村の話をする時、彼女がどこか寂しげな表情をしていたのが印象に残っていた。まるで大切な者を喪ってしまったかのような――
その辛さは、彼女にしか分かるまい。しかし、想像することは出来た。自分がもし、カーツやロベリアを喪ってしまったら――そこまで考えて、喉を圧迫されたような感覚に陥り、マリクは慌てて咳払いをする。反政府活動を行っている時点で覚悟しておかなければならないことではあるが、あまりにも辛すぎて、想像することすら耐えられなくなるほどだった。
「マリク、どうしたの?」
心配そうな彼女の表情を見て、マリクは首を振る。
「いいや、何でもない」
窓の前に立ち、そこから見える景色を眺めながら、マリクは決意を新たにする。
「帝都だけじゃない、この村も含めて、フェンデル国民の生活がもっと良くなるようにしなければ、な」
「ええ、そうね」
ロベリアはそっと、マリクの隣に寄り添った。
「私も貴方と同じ考えよ。だから、頑張りましょう。この国を、もっと良くするために」
「ああ……」
マリクは目を細め、いくらか穏やかな気持ちで頷いた。
同じ窓から外を見つめ、マリクは重いため息をつく。二十年ぶりに戻ってきたこの場所は、何も変わってはいなかった。止むことのない雪に覆われ、寒さに震えるばかりの村人たち。まだほんの幼い子供たちが、地面に落ちた雀の涙ほどしかない煇石を必死に拾い集めている姿を見た時は、心を握り潰されたような気分になった。
結局自分は何もできなかった。ロベリアと誓ったことすら達成できず、ただのうのうと生きながらえている。
ロベリアが今の自分を見たら、何と言うだろうか。あまりに恐ろしくて、考えたくもなかった。
不意に、フェンデルで当時流行っていた歌を思い出す。理想に燃える二人の男。しかし一方の男は、現実に絶望して去って行ってしまう。
まるで自分にそっくりではないか、とマリクははっとした。あの頃は歌詞の意味を深く取らずただ聴いていただけだった。それなのに、二十年経った今となって、これほどまでに心に響くとは――
「ロベリア……カーツ……」
かつて理想を同じくした旧友たちの名を呟き、マリクは項垂れる。
二十年前と変わることのないメロディが、頭の中で響き続けていた。