酔夢

 重苦しい沈黙。
 時折軽やかに響くグラスの音と、喉を鳴らす音だけが、時の流れが正常であることを示していた。
「飲み過ぎよ、マリク」
 たしなめるような高い女性の声が、店内に響き渡る。
 帝都ザヴェートの大通りに構えている宿屋に併設された酒場。規模は小さいが、そこは若い軍人たちの憩いの場でもある。今夜も黒い軍服に身を包んだ客が二人、カウンター席に座っていた。
 女性はやや咎めるような、しかし心配そうな瞳で、先程注文したばかりの酒を一気に飲み干す男性を見つめていた。男性は飲み終えて大きく息を吐くと、グラスをカウンターに置いて口の端から垂れた酒を拭った。
「これくらい大丈夫だ。俺が酒に強いのは知ってるだろう」
「でも、飲み過ぎは身体に悪いわ。明日に響いたらどうするの」
「心配性だな、ロベリアは」
 ははっと軽く笑い飛ばして、マリクと呼ばれた男性はマスターへグラスを差し出した。
「マスター、おかわり」
「かしこまりました」
 ロベリアはあっ、と言ってそのグラスを奪い取ろうとしたが、無駄だと分かって手を引っ込めた。それを見て、マリクは再び笑いを洩らす。
「いいじゃないか、今日くらい。普段は飲みたくても飲めないんだから」
「そんなこと言っても……心配なのよ。だって――」
 ロベリアは俯いてしばらく言葉を途切れさせたが、やがて顔を上げた。
「だってそれが、自棄酒だって知ってるから」
 それまで鷹揚に笑っていたマリクの顔が、急に真顔に変わる。隣に座るロベリアの方へやや身体を向け、顔を覗き込むようにして問うてきた。
「……誰から聞いた?」
「カーツよ。何故だか今日は上機嫌だったから、訊いてみたの」
 マリクは体を引いて視線を逸らし、苦虫を噛み潰したような表情になった。そんなマリクをなだめるように、ロベリアは努めて優しい声で言った。
「負けて悔しいのは分かるけれど、練習だったんでしょう? それも、たった一回だけ。それだけじゃ、マリクとカーツのどちらが強いかなんて、判断できないわ」
 ロベリアが言い終わったちょうどその時、マスターが出来上がった酒をマリクの目の前に置いた。
「どうぞ」
「お、ありがとう」
 マリクはこれ幸いとばかりにグラスを持ち、再びそれを一気に飲み干す。彼がまるでこの問答から逃げたように感じ、ロベリアはやや不満そうな表情でマリクの横顔を見つめた。
 マリクは空になったグラスをカウンターに勢いよく置くと、前を向いたままぽつりと呟くように言った。
「分からない世界なんだよ。女には」
「そうかもしれない。けど、いくらなんでも――」
 言いかけた時、マリクが言葉を遮った。
「賭けをしたんだよ」
「賭け?」
「そう。冗談で、だけどな。勝ったらロベリアはそいつのもんだ、って」
「ええっ?」
 ロベリアは若干ショックを受けた表情で、口を手で覆った。当然の反応だろう。自分のあずかり知らぬところで、勝手に賭けの賞品にされてしまったのだから。
 ロベリアは唇を真一文字に引き締め、抗議の意味を込めてマリクを睨み付けた。彼女の険しい視線に気付いたマリクは、慌てたように言い訳した。
「そんなに怒るなよ。冗談だって言っただろう」
「冗談でも嫌よ。私は賭けの賞品になった覚えはないわ」
 ロベリアの抗議の声をかわすようにして、マリクは視線を逸らした。
「とにかく、それで俺は負け、あいつは勝ったってわけだ」
 開き直ったようにあっさりと言い放つマリクを見て、ロベリアは小さくため息をついた。
「それで、悔しくて自棄酒、という訳?」
「そういう言い方は癪だが、まあ、そういうことだな」
 随分酔いが回ってきたのだろうか、マリクはすっかり開き直ってしまっている。ロベリアはマリクに聞こえるようわざとらしくため息をついて、何となくマスターの後ろにある酒棚に視線をやった。
 冗談でも自分を賭けの賞品にするだなんて、マリクもカーツも自分のことをどう思っているのだろうか。更に勝ったら、その時は自分をどうするつもりだったのだろう。幸か不幸か、勝利したはずのカーツからはまだ何も特別なことは言われていない。むしろ、飲みに行こうと誘ってきたのは敗北者であるマリクの方だったのだが。
 ロベリアはこっそりと、マスターに作ってもらった酒をグラスの中で遊ばせているマリクを一瞥する。彼が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。顔の変化も、ほんのり頬が赤らんできた程度のもので、表情までもが変化するには至っていない。既に開き直ったから平常心でいられるのか、それとも奥底にあるものを隠しているのか。それすら、ロベリアには判断がつかなかった。
 その時不意に、頭の中にある想像が浮かんだ。彼は口では冗談だったと言っているが、こうして自棄になるほどなのだ、案外賭けも本気だったのではないだろうか。本気で戦って負けたからこそ、あれほど悔しそうにしたのではないか――
 ロベリアは急に顔が赤らむのを感じ、マリクから顔を背けた。心臓が今までにないくらい速く鼓動を繰り返していた。いつの間にか、喉までからからに渇いていることに気付く。
 気付かなければ良かったかもしれない、とロベリアは激しく後悔した。気付かなければ、自分まで余計な感情に惑わされずに済んだのに。
 自分たちが今行っている革命運動は命がけだ。その命がけの、ある種の戦場とも言える場に、不要な感情を持ち込むことなど許されない。そう考えて必死に抑えてきたというのに、少し想像が働きすぎただけで、こうもあっさりと解き放たれてしまうとは。
 気を落ち着かせようとして、俯き気味にマスターに注文する。
「マスター、私も彼と同じ物を」
「おいおい、これ、結構きついぞ。大丈夫なのか」
 横からマリクの声が入る。大丈夫よ、とロベリアは強がって見せた。本当はあまり酒は強くなかったが、今はもう、何もかもがどうでもよくなっていた。マリクと同じくらい酔えれば、自分の頬の赤みも消えるだろうと考えた。
 注文の酒が出されて、ロベリアは口を付ける。途端に、つんと鼻を突く強いアルコールの匂い。口の中に含んだ液体を飲み干すと、喉が焼け付くような感覚がした。マリクの言う通り、相当きつい酒のようだ。これを何杯も飲んで平気でいられるのだから、マリクにはある種尊敬の念を抱かざるを得ない。
「ロベリア、大丈夫か? 顔、真っ赤だぞ」
 しばらくして酒が回り、ややとろんとしてきた瞳を向けながら、ロベリアは笑ってみせる。
「大丈夫よ。平気」
「そうか……」
 マリクは納得したようなしていないような視線を向けていたが、やがて独り言を言うようにぽつりと呟いた。
「君までいきなり強い酒を頼むから、急に何かあったのかと思ったぞ……」
 ロベリアは半分以上残っているグラスを揺らしながら、首を横に振る。
「何でもないの。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと、お酒の力を借りたくなっただけ」
 ロベリアはふにゃりと、柔らかく笑ってみせる。
 戸惑うようなマリクの視線が、何故か今のロベリアには妙に心地よかった。
(2010.1.31)
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