青い果実

 反政府組織の密かな集会場となっている地下酒場で、ロベリアは一人ため息をついていた。その右手には、白地の封筒が一つ。差出人は同じ反政府組織に属する男だった。
 ロベリアの頭の中で男の顔が浮かんで、すぐに消える。大して話をしたこともなければ、手紙をやりとりするほど親しい仲の相手でもない。そんな男から手紙が来るとすれば、用はただ一つ。それが分かっていただけに、ロベリアはまだ封を開けられずにいるのだった。
「よう、ロベリア」
 背後から聞き覚えのある声がして、ロベリアは振り返る。そこにはマリクが立っていて、ロベリアに向かって軽く片手を上げていた。彼は手紙を送ってきた男とは違い、ロベリアと志を同じくする仲間であり、共に行動することの多い相手であった。
 彼はロベリアが持っている手紙に素早く視線を走らせると、唇の端に笑みを滲ませた。
「なんだ、またもらったのか。君は本当に人気なんだな」
 触れられたくなかったことに言及され、ロベリアは小さくため息をつく。
「もう、お願いだからやめて。私たちはこんなことをしている場合ではないのに……」
 再び白地の封筒に視線を落とす。ひとたび封を開ければ、男からの切々とした想いが綴られているということを考えると、相手には悪いがそのまま封印しておきたい気分だった。手紙をもらったというだけでよく知りもしない男と付き合う気分にはどうしてもなれなかったし、何より自分たちは暢気に愛を育む時間などありはしない。政府から常に命を狙われているこの状況でそういった気分になれる方が不思議だと、ロベリアはかぶりを振った。
 マリクはロベリアの向かいの席に腰を下ろし、腕組みをしながらこちらへ視線をやる。
「で、もう読んだのか」
「……いいえ。悪いけれど、そういう気分ではないから」
 ロベリアが首を横に振ると、マリクはゆっくりと顎をさすった。
「まあ、君がそう言う気持ちも分かる。ただ」
「ただ?」
「相手の男の気持ちも、分からないでもない」
 マリクが思いがけないことを言うので、ロベリアは仰天した。マリクはロベリアがこうして男性から手紙をもらうことに対して多少からかうことはあっても、今まで相手の男の肩を持ったことは一度もなかったからである。
「あなたまで……どうして? こんな状況だというのに……」
「こんな状況だからこそ、だ。少しでも、誰かと繋がっていられる方が気が楽なのさ」
 マリクはふう、と息を吐く。まるで他人事のような口調だった。
 ロベリアは一度理解はしたものの、納得はできなかった。自分の寂しさと不安感を埋めるため、よく知りもしない女を利用しようとしているようにしか思えなかったのだ。
 ロベリアはそっと、封筒を懐にしまい込んだ。
「もう、いいわ。どちらにせよ、私には応えられないもの」
「……まあ、そうだな。俺も理解はできるが、納得はしない」
 相変わらず腕を組んだまま、マリクは目を閉じて頷いた。
 一度は相手の男の肩を持ったかに見えたマリクが自分と同じ考えであったことに、ロベリアは密かに安堵した。彼までもが、この状況下で手紙を寄越す暢気な男と同類だとは思いたくなかった。少なくとも自分と親しい間柄の者たちは、この類の無神経さは持ち合わせていないはずだと信じたかったのもある。
「ところで、ロベリア」
「何かしら?」
 ロベリアが応えると、マリクはおもむろに懐を探り、先程ロベリアが持っていたようなものと同じ封筒を取り出してきた。ただ、それは白地ではなく薄桃色で、明らかに女性から送られたものだというのは容易に推測できた。ロベリアは思わず口を手で覆っていた。
「それは……」
「そうだ。君がもらったのと同じようなものを、俺ももらった」
 マリクはあくまで冷静な口調だった。前々から彼が女性に人気があることは知っていたが、手紙までもらっていたという話は聞いたことがなかった。今度は立場一転して、ロベリアがマリクの手にある封筒を見つめる。『マリク・シザース様』と、女性らしい丁寧な字で書かれているのが目に入った。
 マリクの出方を窺うようにして、ロベリアは上目遣いに尋ねる。
「それで、どうするつもりなの。あなたは」
「俺は、一度会ってみてもいいと思っている」
 ロベリアの目が見開かれた。先程の安堵はどこかへ消え去って、急に不安が襲い来る。マリクは先程自分と同意見だと言ったばかりではないのか。ロベリアに手紙を寄越す男には理解を示さず、自分に手紙をくれた女性には理解を示すというのか。
 ロベリアはザヴェート山で採れる冷えた氷の塊を、一気に呑み込んだような気分になった。
「そう」
 自分はこんな声が出せたのかとロベリア自身が驚くほど、素っ気ない声が口から飛び出した。それは信用したはずの人間が裏切りにも等しい行為を見せたからというだけではなくて、それとは異なる鬱陶しいもやのような感情が心に渦巻き始めたせいだと、ロベリアは薄々感付いていた。
 マリクは目を動かして、ロベリアの様子をちらと窺う素振りを見せた。直後、持っていた手紙を再び懐にしまい込んだ。
「君は、分かりやすいな」
 唐突な言葉に、ロベリアは戸惑った。マリクの言葉が、一体自分の何を指しているのか分からなかった。落ち着かない様子で視線を彷徨わせていると、マリクは唇の端に苦笑を滲ませた。
「君がそんなふうに、あからさまに不快そうな顔をするのは初めて見たぞ」
 指摘されて、ロベリアは顔を赤くした。軍人たるもの、いかなる時でも落ち着きを失わず、平静さを保たなくてはならない。士官学校で最初に教えられる教訓だ。それなのに、自分はまだ、それが実行できていなかったとは。あらゆる意味での悔しさに唇を噛む。同時に羞恥が波のように押し寄せ、ロベリアはマリクから視線を逸らさずにはいられなくなった。
「安心してくれ。俺も君と同意見だ。理解はするが、納得はしない」
 直後、何事もなかったかのように、マリクはさらりと言い放った。
 ロベリアは溜まっていたものを吐き出すかのように、大きく息をついた。再びの安堵、その後マリクへの恨めしい思いが胸へと湧き上がる。ロベリアは上目遣いにマリクを睨み、彼の先程の言動を咎めた。
「じゃあ、一度会ってみてもいいと言ったのは、嘘だったのね?」
「ああ。君がどんな反応をするのか、試してみたくなってな」
 悪びれる様子もなく肯定するマリクに対し、ロベリアは柳眉を逆立てる。
「酷いわ。結局、私を手のひらで転がして遊んでいたのね」
「そういう言い方はないと思うが」
「同じ事よ。あなたがそんな人だとは知らなかった」
 マリクから顔を背けた直後、何故か目尻から涙が溢れそうになって、慌ててこらえる。
 結局からかわれていただけだったという事実が腹立たしいという理由ももちろんある。だが、それだけではなかった。もしマリクが本当に女性と会う決意を固めていたとして、それを平常心で見過ごすことが、果たして自分には出来ただろうか。結果的に、先程マリクに指摘されたような表情をしてしまうような気がする。だが何も出来ずに唇を噛みしめて、必死に心の痛みに耐えて――結局、無力な自分を思い知るに違いない。
 それが現実ではなかった事への安堵。そして、己の無力さを思い知った事への落胆だった。
「悪かった。君がそこまで怒るとは思わなかった」
 マリクの謝罪の言葉。ロベリアはゆっくりと視線を戻し、その言葉の真摯さを窺う。
「本当に、反省しているのね」
「ああ。すまなかった」
 ロベリアは首を振った。
「もう、いいわ。取り乱した私も悪かったから……ごめんなさい」
 言いながら、新たな感情が心の中に湧き上がり、ロベリアの顔が急激に熱を帯びた。胸に手を当てて、鼓動が普段より速まっていることに気付く。先程から、マリクを見ると落ち着かないのは何故だろうか。このような思いに陥ったことなど、今まで一度もなかったのに。
「さて、そろそろ行くか」
 マリクがおもむろに立ち上がる。つられて視線を動かし彼の顔を見ると、表情がいつもより緩んでいるような気がした。
「じゃあまたな、ロベリア。――ああ、それから」
 別れの挨拶の後、マリクの唇に笑みが浮かぶ。
「さっき、君があんな顔をしてくれて……少しだけ、嬉しかったぞ」
「えっ……」
 咄嗟にマリクの言葉の真意が掴めず、更に尋ねようとロベリアは立ち上がった。
「待って、マリク!」
 だがそれよりも早くマリクは地下酒場を去っていた。ロベリアの声も、酒場にたむろする同志たちの声にあっという間にかき消されてしまった。ロベリアは肩を落として再び席に座り込んだ。
 自分は確かに、不快感を露わにした表情をしていたはずだ。それなのに、それが嬉しかったとはどういうことだろうか。たとえ自分に向けられたものでなくとも、不快さの滲み出た表情など、誰も見たくはないだろうに。ロベリアはしばらく真剣に考え込んだが、結局答えは出なかった。
 次に彼に会ったら、尋ねてみよう。ロベリアは密かにそう決意した。


 その後、彼がカーツに告げられて自分の生家を知ってしまうことなど、ロベリアには知る由もなかった。
(2010.2.5)
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