「はい、300ガルド、確かにいただいたよ。じゃあこれね」
「ありがとうございます」
すっかり顔なじみとなったパン屋のおかみに見送られて、ロベリアは紙袋を抱えながら外へ出た。
吐く息さえも凍りそうな夜の帝都を歩いているのは、純黒の軍服を着た見張りの軍人のみである。ロベリアは彼らの目を避けるようにして、街に点在するおぼろげな灯りを頼りにしながら歩いた。向かうは、反政府派の活動家が集まる地下酒場。軍人たちの目に付いてしまっては困る。雪を踏みしめる音にも気を遣いながら、なるべく建物の陰を選んで歩いた。
帝都の大通りに差し掛かった時、ロベリアはよく知る人物の姿を見つけて、俯きがちだった顔を上げた。
(……マリク?)
毎日会っている人物を見間違えるはずもなかった。彼は宿屋の前で、女性と何やら言葉を交わしている様子だった。マリクの表情は遠目で見る限り普段通りであったが、一方の女性の顔は上気していて、うっとりとした瞳でマリクの顔を見つめていた。
その時、偶然にもマリクとロベリアの視線が合った。心臓が跳ね上がり、ロベリアは慌てて視線を逸らした。マリクがこちらに気付いて動いたような気配がしたが、ロベリアは見なかったふりをして踵を返し、紙袋を抱え直してその場から立ち去った。
見てはいけないものを見てしまったような気分だった。急に息が苦しくなって、ロベリアは喘いだ。胸が細い糸で締め付けられたかのようだった。呼吸をする度に先程の場面が脳裏に蘇り、ロベリアの胸はますます苦しくなった。
早く暖かい酒場へ下りて、息を整えたい。ロベリアは早足で、地下酒場へと続く細い道を歩き続けた。その表情を苦渋に歪めながら。
「遅かったな、ロベリア」
酒場に下りると、同士であるカーツが笑顔で話しかけてきた。
仲間に会えたことで、ロベリアの心はやっと落ち着きを取り戻した。すぐに彼に向かって笑みを返したが、先程までの苦しげな表情を見られていたのか、カーツは眉根を寄せて、心配そうにロベリアの顔を覗き込んできた。
「どうした? 何かあったのか」
「いいえ、何でもないわ。外が寒かったから……」
「そうか。まあ、ゆっくり身体を暖めればいい。風邪だけは引かないようにな」
「ええ、ありがとう」
買ってきたパンの入った紙袋をテーブルの上に置くと、カーツは酒場の奥から赤ワインを一本とグラスを二つ持ってやって来た。カーツは紙袋の中を覗き、満足げな笑みでロベリアに向かって頷く。
「俺の好物を買ってきてくれたみたいだな」
「ええ。最後の一つだったの。あって良かったわ」
「そうか。ありがとう」
カーツはロベリアの向かいの席に腰を下ろし、慣れた手つきでワインのコルクを抜いた。二つのグラスに、赤紫色のワインが並々と注がれる。ありがとう、と礼を言って、ロベリアは一つのグラスを自分の方へ引き寄せた。
カーツは紙袋の中から好みのパンを取り出しながら、何気ない口調でロベリアに尋ねた。
「ところで、マリクを見なかったか? 先程から姿が見えないんだが」
ロベリアの心臓が跳ね上がる。先程の光景が脳裏に浮かび上がり、再び落ち着かない気分になった。ロベリアが言葉を詰まらせていると、カーツは怪訝そうな表情をした。
「どうした? マリクに何かあったのか?」
いいえ知らないわと言おうとして、喉がつかえるのを感じる。ロベリアはしばし躊躇うように視線を彷徨わせたが、やがて開き直るようにして、赤ワインで喉を潤しながら言った。
「宿屋の前で見たわ。女の人と、親しそうに話していたの」
だがカーツは意外そうな顔をするでもなく、ああそうかとあっさり受け入れて赤ワインに口を付けた。
「大方、また惚れられたんだろう。あいつは“天然タラシ”だからな」
「“タラシ”?」
聞き慣れない言葉を耳にして尋ね返すと、カーツはパンを千切りながら頷いた。
「そう。昔からなんだよ、あいつが女に好かれるのは。相手にしなけりゃ、向こうも諦めるんだろうが……あいつは来る者拒まず、だからな」
「そう、だったの……」
心が吹雪の舞うザヴェート山のように、一気に冷たくなっていくのを感じる。
ロベリアはマリクの活動家としての一面しか知らない。活動家としてのマリクは真面目そのもので、確固たる信念と、それに伴う知識と行動力を持ち合わせていた。ロベリアは密かに、そんな彼を好ましく思っていたのだ。
その彼が、実は多くの女性を取っ替え引っ替えしているような人物だったとは思わなかった。裏切られたような気分になり、ロベリアは顔を歪めて唇を噛んだ。
人づてに聞いただけだったなら信じられないわと言って流すこともできただろうが、ロベリアは既にその現場を目撃してしまっている。カーツの言葉を心では拒みたいと思いながら、思わず納得してしまった自分に気付いて悲しくなった。
「なんだ、ロベリア。お前もあいつに惚れていたのか」
ロベリアの表情の変化を読み取ったのだろう、カーツが苦笑混じりにそう言った。ロベリアは肩をびくりと震わせ、慌てて首を横に振った。冗談ではないと思った。
「そんなわけ、ないでしょう。少し驚いただけよ」
「そうか、それならいいが。……しかし、遅いな。もう帰ってきてもいい頃だと思うが」
そう言ってカーツが酒場の入り口へ視線を向けたその時、見慣れた姿の人物が階段を下りてくるのが見えた。お、とカーツは声を洩らし、ロベリアは息苦しくなって視線を逸らす。噂をすれば何とやら、マリクがやって来たのである。
酒場は多くの同士たちの話し声で騒がしいことこの上なかったが、マリクがこちらへ近づいてくる足音だけは、何故か鮮明にロベリアの耳に届いた。やがてテーブルの上に落ちた影を見て、彼が自分たちの傍らに立ったことを知った。
「よう、遅かったな、マリク」
「ああ、すまん。少し用が長引いてな……ロベリア、ここにいたのか」
自分の名を呼ばれて、ロベリアは僅かに肩を震わせる。よくよく思い返せば、自分の姿はマリクに見られていたのだった。どういう顔をすれば良いのか分からずにいると、二人の間の微妙な空気を察したのか、カーツがグラスとパンを持ったまま立ち上がった。
「さて、俺はあっちのテーブルに行ってくるよ。また後でな」
「あ、ああ」
戸惑いがちにマリクが頷く気配がした。直後、空いたロベリアの向かいの席をマリクが指差す。
「ここ、座ってもいいか」
「ええ、どうぞ」
ロベリアはやっと顔を上げて頷いた。相変わらずどんな顔をすれば良いのか分からなかったが、よくよく考えれば自分にやましいことなどない。マリクと女性の密会を目撃したのも決して覗き見したわけではなく、あくまで偶然の出来事なのだ。自分は堂々としていれば良いと心の中で決意して、ロベリアはマリクと向かい合った。
「さっき、大通りのところにいただろう」
「偶然よ。パン屋からの帰り、あそこを通っただけ」
「そうか。なら、いいんだが」
自分たちの密会をじっくり覗き見されていたわけではないと知って、マリクは内心胸を撫で下ろしていることだろう。ロベリアは何故だか腹立たしくなってきた。グラスに半分ほど残っていた赤ワインを一気に飲み干し、大きく息をついた。
少し落ち着いたら、今度はマリクのことで心を煩わせている自分が滑稽に思えてきた。何故、同じ組織に属する同士というだけの関係の男に、こんなに心乱されなければならないのだろう。自分は何も関係ない。暗示をかけるようにして、心の中でそう何度か唱えた。
繰り返しているうちに、ロベリアはだんだんと平常心に戻っていくのを感じた。もう、惑わされることはない。
微笑みすら浮かべながら、酒場の奥からもう一度グラスを取って来て、そこにカーツが開けてくれたワインを注いだ。
「どうぞ。外は寒かったでしょう」
「あ、ああ」
ロベリアが差し出したグラスを、マリクはやや驚いたように受け取った。そうして、一口。ロベリアももう一杯ワインを注いで、その香りと味を楽しむ。 マリクに買ってきたパンを勧めると、マリクは喜んでそれを受け取った。
気まずく淀んでいた空気が、徐々に動き出すのを肌で感じた。
ロベリアは酒のせいか、やや饒舌になっていた。時間を遡るようにして、今日一日あったことを話し出す。先程訪れたパン屋で、おかみが一つおまけをしてくれたこと。近いうちにベラニックの視察へ行く話が持ち上がっていること。そして、もうすぐ政府重要拠点を示した地図が手に入りそうなこと。それを話し終えると、マリクがほう、と感心したように顎をさすった。
「さすがはロベリア。それさえあれば、計画は成功するだろうな」
「ええ。もう少しだから待っていて。必ず持ってくるから」
マリクは笑みを浮かべながら残っていたワインを飲み干し、大きく息を吐いた。
「しかし、ロベリアは本当に優秀だな。……その上、美人だし」
途端にロベリアの心臓が跳ね上がった。酔っていても、聞き流せる言葉ではなかった。素直に嬉しく受け取ろうとして、ロベリアは先程のカーツの言葉を思い出す。
『あいつは“天然タラシ”だからな』
これがマリクの常套句なのだろうか。こうやって女性を褒めることで、女性の心を掴む――よくありそうな話だ。褒められて気を悪くする者はいないという人間心理をよく知り、利用しているように見える。
危なかった、とロベリアは心の中で安堵の息をついた。カーツの言葉がなければ、自分もころりと騙されていたことだろう。マリクに対する複雑な思いは既に自分の中で処理したはずなのに、また余計な思いに悩ませられるところだった。
ロベリアは冷静を装って、素っ気なく聞こえるように言った。
「あなたは誰にでも、そういうことを言うのかしら」
途端に、マリクはきょとんとした表情になった。
「どういう意味だ、ロベリア?」
「そのままの意味だけれど」
マリクは目を見開き、明らかに驚いている様子だった。それがロベリアの目には白々しく映った。彼はわざととぼけているのだろうか。それとも、本当に意味が分かっていないのか。彼の表情からそれを読み取るのは難しかったが、ロベリアは何も言わなかった。自分が本当に訊きたいのは、そこではない。
「……わからんな。俺は滅多に女を褒めたりしないんだが」
「そうかしら。言い慣れているようにも聞こえたけど」
ロベリアが冷たい声で言うと、マリクは分からないと言うように首を左右に振った。
「どうしたんだ、ロベリア。今日のお前は少し変だぞ」
「そうかしら……いつも通りだと思うけど」
マリクの怪訝な視線から逃げるようにして、ロベリアはワインボトルを掴む。すると下からマリクのごつごつとした手が伸びてきて、あっという間にそれを奪っていってしまった。
「あっ……」
ロベリアが手を伸ばすと、マリクは一転して厳しい表情になり、ボトルをロベリアから遠ざけた。
「もう、やめておけ。飲み過ぎているんだろう」
「そんなことはないわ。だって、まだ――」
「いいから。今日は俺が送って行く」
マリクは後ろの空いていたテーブルにワインボトルを置いた後、ロベリアの片腕を自分の背に回して立ち上がらせた。そこで初めて、ロベリアは自分の足がふらついていることに気付く。意識ははっきりしているはずなのにと、若干ショックを受けた。
マリクはほらなと言わんばかりの視線を寄越し、ロベリアの腕を背負ったまま、酒場の入り口まで歩き始めた。酔って通路にはみ出している者たちの身体を、ロベリアごと器用に避けていく。
見張りの者に声をかけてから、外をうろついている軍人に見つからぬようそっと街の外へ出た。外は凍えそうなほどに寒く、先程よりも酷くなった吹雪が頬を容赦なく叩き付けた。体勢を立て直して、マリクはロベリアの表情を窺う。
「大丈夫か? 立てるか、ロベリア?」
「ええ……平気」
ロベリアはマリクの手を押しやって、一人で立とうとした。だがすぐに足がふらつき、雪の上に倒れ込んでしまいそうになる。マリクがそれに素早く気付いて、ロベリアの身体を抱えて立て直した。
マリクの腕に支えられながら、ロベリアは次第に胸が苦しくなるのを感じていた。これ以上自分に触れられたら、気がおかしくなってしまいそうだった。
ロベリアはマリクの腕を、無理矢理振りほどこうとした。
「いいわ、送ってくれなくても大丈夫よ。一人で帰れるから――」
「何言ってるんだ、そんなにふらついているのに。いいから、お前はもう何も言うな。俺に送らせてくれ」
マリクはロベリアの両腕を掴み、ロベリアを負ぶった。突然のことに動悸が激しくなり、顔に血が集まってくるのを感じた。これが酒のせいなのかそうでないのか、ロベリアにはもう何も考えられなかった。
マリクの広い背に寄りかかり、唇を噛みしめる。騙されるな、騙されるな。ロベリアの心の声が警鐘を鳴らしている。だが一方で、もう何も考えずにこの背に身を委ねたいと思う気持ちが湧き上がるのを感じて、ロベリアは激しく動揺した。
高まる動悸に、どうかマリクが気付きませんように――ロベリアは目を閉じて、ひたすらにそれを願った。