寝台に灯る薄明かりを、ロベリアはぼんやりと眺めていた。
ロベリアの頬はやや上気し紅色に染まっていた。小さな口からは艶やかな息が洩れ聞こえ、室内の冷えた空気のせいで、それは白息となって暗闇に散る。
横たわったままゆっくりと身体を起こすと、素肌が曝され肌寒さを覚えた。その寒さを凌ぐようにして、ロベリアは静かに真白いシーツを自分の方へ引き寄せた。
部屋の中は静まりかえっている。ロベリアは身体を伸ばして、灯りの下に置かれた銀時計に目をやった。午前一時。既に誰もが眠りに就いている時間である。
垂れてきた前髪を掻き上げてふと傍らを見やると、先程までずっと動いていたはずの男が、無防備に寝顔を晒していた。
「ねえ、マリク」
呟くような声で、傍らの男を呼ぶ。反応はない。
「マリク」
シーツの海へ身体を滑らせて、耳許で名を囁く。やがてもぞもぞと鼻が動いて、瞼がゆっくりと開かれた。自分が顔を寄せていることに驚いたのか、その喉から太い声が飛び出す。ロベリアがいたずらっぽく微笑むと、彼は安堵したように溜息をついた。
「……なんだ。まだ起きていたのか」
「マリクこそ、もう眠いの?」
「ああ……朝が早かったからな」
欠伸を一つ。マリクはゆっくりと身体を起こして、無造作に頭を掻きむしる。その傍らに、ロベリアはそっと身を寄せた。粉雪のような白い腕と、躍動感溢れる褐色の腕が触れ合う。明らかに性質の違う二種類の肌が交わり、ほのかな温もりが生み出された。
マリクは手探りで、ロベリアの指と自分の指を絡めた。とくんとロベリアの心臓が跳ねる。
「……なんだか、変な感じがするわ。こんなことになるなんて、思ってもみなかったから」
「ああ……そうだな」
ぼんやりと虚空を見つめるマリクへ、上目遣いで尋ねる。
「後悔、している? もしかして」
「まさか。ただ……考えもしなかっただけだ」
マリクの見つめる虚空へ視線を移して、ロベリアは数時間前のことを思い出す。
強い酒を何杯も飲んだせいで、二人ともしたたかに酔っていた。原因はそれぞれに複雑で、その感情の正体が一体何であったのか、ロベリアはもう思い出せない。気が付いたら同じ部屋にもつれ込んでいた。酒のせいで普段の理性を失っていた二人は、互いの心に秘めた感情に素直なまま、肌を重ね合った。
酔っぱらった勢いで。先刻の行為を、一般的にはそう表現するのかもしれない。だが、ロベリアはそのような粗略な言葉で片付けたくはなかった。マリクに対し好意を抱いていたのは事実であり、彼の腕に抱かれることは、心の奥底で密かに切願していたことであったからだ。たとえそれが、独り善がりな感情であったとしても。
マリクの横顔をそっと覗き見る。瞳の色から、その感情を窺い知ることは難しかった。マリクはいつもそうだ。ロベリアは彼と最も近しい位置にいながら、今まで一度も彼の真意を知ることができなかった。視線を送れば返してくれるが、その奥底までは覗かせてくれないのだ。
だが今夜、ロベリアの白い肌を抱きながら、マリクは何度か愛を囁いてくれた。マリクの発する一言一言はじんわりと胸に沁みわたり、心地よい痺れと共にロベリアの心を悦びで満たした。それで足りないわけではない。足りないわけではないのだが、どうしても確実を求める思いがロベリアを急かす。
ロベリアはマリクの指を手のひらへ僅かに引き寄せながら、口を開いた。
「ねえ、マリク。一つ訊いてもいいかしら」
「何だ?」
虚空を見つめていたマリクが、ゆっくりとこちらへ視線を戻す。
「ただのたとえ話よ。たとえ話だけど……私がオイゲン総統の娘だと言ったら、どうする?」
明らかに吃驚した表情で、マリクはロベリアの瞳を見つめた。ロベリアの動悸が速くなる。これはある種の賭けだった。自分が彼にとってどういう存在なのか確かめるための、それも命がけの。
突然何を訊くつもりなのだと、マリクは仰天していることだろう。突然このようなことを尋ねれば、誰だって驚くに違いない。オイゲンとはここフェンデルを束ねる国家の最高指導者だが、その娘が身近にいることなど、軍部の人間含め一般民衆は想像もしないからである。ましてやマリクは改革派の人間。敵の娘が近くにいるなど、ますますもって有り得ない、否、あってはならないことなのだ。
だが残念なことに、ロベリアが語ったのはただのたとえ話ではなかった。それだからこそ、命がけなのだ。一度疑いをかけられれば、ロベリアは組織を追われることになる。自分の意志で改革運動に参加している以上、その事態だけは避けたかった。
だがそのリスクを負ってでも、尋ねたかった理由がある。
マリクは何度か瞬きをした後、眉を顰めた。
「妙なたとえ話だな。さすがの俺も、一瞬胸がひやっとしたぞ」
「本当に、ただのたとえ話よ。もし私がそうだったら、ということ」
真実を述べるのがまずいとは言えど、嘘を吐いている罪悪感に心の中で喘ぎながら、ロベリアはマリクの肩へと頭を預ける。触れた頬からマリクの温もりが伝わってくるけれど、この心地よさに浸っていられるのはいつまでかしらと、ロベリアは切なく考えた。
すると突然、身体ごと逞しい腕に引き寄せられ、ロベリアの心拍数が上昇した。横から抱きすくめられて、ロベリアの顔は胸板に押しつけられる。頭上でマリクが息を吐く。全身が先刻と同じように、再び熱を持ち始めた。
「――ロベリアは、ロベリアだ。他の誰でもない」
ロベリアは唇を噛みしめる。
「だから、お前の生い立ちがどうであろうと、俺は……」
その先は、必要なかった。ロベリアは顔を上げると、マリクの唇を塞いでいた。
自分でも、何故このような大胆な行動に出られたのか分からない。ただ心の中で罪悪感と喜悦がない交ぜになって、動かずにはいられなくなっていた。
マリクから離れると、彼の目は驚きに見開かれていた。その視線から避けるようにして、ロベリアは身体を縮こまらせて俯く。後悔という感情はなかったが、気恥ずかしさで顔が合わせられなかった。
ややあって、マリクの太い指が、ロベリアの上気した頬を優しく撫でた。そのまま顎のラインをなぞり、自らへと引き寄せていく。ロベリアは目を見開いたが、そのままマリクの真摯な瞳に吸い込まれるようにして、口づけを交わしていた。既に知り尽くしたはずの互いの口腔へと、再び侵入していく。
見つめ合った後、ロベリアはおもむろにマリクの背に手を回す。岩のようにごつごつとした、逞しい背の感触を指に染み込ませながら、先程は言えなかった言葉を囁いた。
――もう既に、それは独り善がりなものではないと知ったから。
「マリク……ずっと、貴方が好きだったの」
これまでもずっと、そしてこれからもずっと。
マリクがそれに応えるように頷いて、ロベリアの背骨を人差し指でなぞる。
ロベリアは再び彼の腕に抱かれながら、悦びの溜息を洩らした。