瑠璃蝶々のあこがれ

 エフィネアの高緯度に位置する国フェンデルでは、季節問わず年中雪が降り積もっている。帝都ザヴェートには政府塔を中心に無機質な建物が多数建ち並び、冷たい鉛色のパイプが張り巡らされていたが、雪のせいでその姿が剥き出しにされたことは一度もなかった。白黒の濃淡で表現されたその世界は、それ以外の色を知っている人間たちにとって、決して美しいとはいえない世界であった。ましてやこの寒さである。恨めしく思いこそすれど、情緒豊かに世界を表現しようとする者など、いるはずもなかった。
 その白黒の世界の下、赤、青、黄などの色鮮やかな瓶を並べた店先で、一人思い悩んでいる女性がいた。彼女はその瓶を一つ一つ手に取り、じっくりと眺めた後、首を傾げて戻す。それをずっと繰り返していた。時折海の方から吹いてくる風に身を震わせながら、女性は思い悩む余り、そうっと溜息をついた。
「本当にこれで、いいのかしら」
 ロベリアという名の女性は独り言を言いながら、先程も眺めたはずのオレンジ色の液体の入った瓶を取り、曇天に透かして見せた。
 蓋をされた瓶の口から、微かな柑橘類の香りが漏れる。良い香りであるとは思う。しかしながらそこに相手の男性の顔が浮かぶと、どうにも合っていないような気がして、思わずかぶりを振ってしまう。ロベリアはもう一度、瓶を棚に戻した。
「やっぱり、香水は良くなかったかしら……」
 誕生日の贈り物。その相手が誰であれ、大切な相手ならば誰もが頭を悩ませるものだ。その上、ロベリアが彼に贈り物をするのは初めてのことだった。出会って一年も経っていない相手の好みを完璧に把握しているはずもなく、さんざん悩んだ後、同僚の助言もあって、帝都に一つだけある香水の店に足を運んだのだ。
 女性用の香水に関してはそれなりに知識はあったものの、男性用の香水、ましてや相手に合いそうなものをと考えると、どうしてもすぐには決まらなかった。
 ロベリアは次に、オレンジ色の瓶の横に置いてあった紫の液体の入った瓶を何気なく手に取った。瓶の口にそっと鼻を近づけて、匂いを嗅ごうとした、その時だった。
(……えっ?)
 その途端ロベリアは目を見開き、思わず瓶をまじまじと見つめていた。急に、何故だかとても懐かしい気分になったのだ。昔、どこかでこの匂いに遭遇したことがある。それも自分が香水というものを知り始めた娘の頃ではなく、もっと幼少時のような――
「瑠璃蝶々……」
 ロベリアの頭の中に、突然幼少時の母の笑顔が蘇った。
 母は花が大好きで、いつも屋敷のあちこちに花瓶を置き、花を生けていた。その花の中には異国の花も多くあったが、その中で一つ、母が最も好きで大切にしている花があった。
 紫の花弁を控えめに咲かせた、小さな花。
「瑠璃蝶々というのですよ」
 花の名を尋ねたロベリアに、母はそう答えて微笑んだ。
「ウィンドルではロベリアと呼ばれているそうよ。お前の名前はここから取ったの。私の大好きな花から」
 自分の名の由来がこのような美しい花だと聞いて、ロベリアは喜んでいた記憶がある。
 ロベリアは改めて、香水の瓶をまじまじと見つめた。この香りは間違いなく瑠璃蝶々の香りだ。自分と母の大好きな花の香り。
「すみません、これを」
 ロベリアは手に抱いた紫の瓶を、店主に向かって差し出していた。ロベリアがさんざん迷っている様子を奥で見ていた店主は、彼女が即決したのを見て目を丸くしていたが、すぐに笑顔に戻って、白い包装紙で丁寧に包んでくれた。
 店主に礼を言って店を出た後、ロベリアは空を仰ぐ。相変わらず空には鈍色が広がり、雪がちらついていたが、その見慣れた風景すらも美しいと思える心の余裕が出来ていることに気付いた。
 あの人が気に入ってくれるといいけれど。小さく心の中で呟いて、ロベリアは帰路についた。


 次の日。反政府派組織の集会場となっている地下酒場に顔を出したロベリアは、真っ先にマリクの姿を探した。
 マリクは酒場の隅にあるテーブルの前に座り、腕を組んで目を閉じていた。何か考え事をしているのか、暇故にそうして時間が過ぎるのを待っているのか。何にせよ集会が始まるまで、まだ時間があった。
 ロベリアがそうっと彼の方に近づくと、その気配を察したのか、彼はすぐに目を開けてロベリアを見つめた。
「ロベリアか。おはよう」
「ええ、おはよう、マリク」
 一通り挨拶を交わした後、ロベリアは次の言葉を探す。
「ええと、マリク……確か今日、誕生日だったわよね」
「そうだったか……あまり覚えていないが」
 言いながらマリクは壁に貼り付けられたカレンダーへ目をやり、日付を確認して頷いた。
「ああ、確かにそうらしい。よく覚えていたな」
「ええ。この間、もうすぐ誕生日だって話してくれていたから」
「そんなこともあったか……で、それがどうかしたのか?」
 ロベリアは白い包装紙にくるまれた贈り物を、マリクに差し出した。
「これ、ちょっとしたものだけど……あなたへと思って」
「俺に?」
 マリクは少し驚いたように目を見開き、それを受け取った。
「あなたが気に入ってくれるかどうか、分からないけど……」
 急に気恥ずかしくなって、ロベリアは視線を逸らす。香水で、しかもロベリアの選んだ物で本当に良かったのか、という思いが頭の中を巡った。だが、今更後悔しても遅い。既に購入して、それをマリクに手渡してしまったのだから。ロベリアは後悔の気持ちを取り消すことにして、再び視線を戻した。
「なあロベリア、開けても――」
 マリクが言いかけたその時、酒場の入り口の方で集会を始める声が聞こえた。二人同時にそちらへ視線を向け、また同時に戻す。マリクはロベリアからのプレゼントをテーブルの上に置き、視線で合図をした。
「先に向こうへ行くか」
「ええ、そうね」
 ロベリアも頷いて、仲間たちが集まっている場所へと早足で歩き出した。


 それから数日間、ロベリアは政府塔での仕事が続き、なかなか地下酒場へ顔を出すことができなかった。
 忙しい中でも時折、マリクに贈った香水のことを思い出して胸の奥がきゅっとなった。もうあれから何日か経っているのだから、マリクは既にその包装を解いていることだろう。ロベリアが贈った香水を見て、不思議そうな顔をするマリクが浮かんだ。彼が気に入らなかったらどうしよう。その不安に襲われるたび、ロベリアは落ち着かなくなった。彼の反応を知りたいという気持ちはもちろんあるが、知ることで落ち込むくらいなら知らない方が良いのかもしれない、という相反する気持ちが心の中でせめぎ合った。
 上司の部屋に書類を届けるため、ロベリアは政府塔の廊下を早足で歩いていた。これが終われば、また別の書類を一から書かなければならない。山積みになっている仕事のことを思い出し、ロベリアは暗い気持ちになった。いつになったら、仲間たちのいる暖かい地下酒場に顔を出せるのだろう。全ての仕事が片付くまでが、永遠に長い時間のように思われた。
 俯きがちに歩いていたその時、廊下の向こうからやってくる人物の姿を認めて、ロベリアの心拍は急上昇した。
 マリクであった。ロベリアと同じ黒の軍服に身を包み、静かにこちらへ歩いてくる。
 反政府派の仲間と政府塔で会う事は何度もあったが、互いに言葉を交わす事はほとんどなかった。それは自分たちが改革派の仲間であることを軍部に知られてはならないからである。知られれば、たちまち組織は潰される。反政府派と格好をつけてみても、所詮は若い者たちで集まっただけの小さな集団だ。軍部から直接圧力をかけられれば、壊滅は免れなくなる。
 だから、ロベリアは気を引き締め直し、きりと唇を真一文字に結んだ。マリクとすれ違っても、一言も話をしてはならない。一瞬の安堵感は得られても、双方のためには決してならないからだ。
 小さな躊躇いを抱きながらも前へ歩き、彼の領域へと踏み込んだ、その時だった。
 ロベリアは思わず目を見開いた。心臓の鼓動がますます速まっていくのを感じる。何かの間違いではないのかと、もう一度小さく息を吸い込んだ。
(瑠璃蝶々の……)
 懐かしい香りが、胸一杯に広がるのを感じた。母体に還った来た時のような安堵を覚え、ロベリアはその場に立ち止まっていた。
 その中に微かに混じる、男性の香り。それに気付いた途端心を鷲掴みにされたような気分に陥り、ロベリアは思わず振り返っていた。何事もなかったかのように歩き続け遠ざかっていく彼の後ろ姿を見ながら、心が落ち着かなくなるのを感じた。
 間違えようもなかった。彼は確かに、あの香水を身につけていたのだ。思わず涙がこぼれそうになる。言葉を交わす機会がないから、彼の心の内は知りようもない。しかし、その贈り物を嫌がったのではないことだけは、はっきりと分かった。
(マリク……ありがとう)
 心の中で、そっと感謝の言葉を口にする。彼が自分の贈り物を、しかも自分の名前の由来でもある花の香水を付けてくれたことが、とてつもなく嬉しかった。
 周囲を見回し、やや取り乱した自分の姿を見られていない事を確認してから、ロベリアは軍服を整えて再び歩き出す。今まで自分の頭を悩ませていたものから解放されて、足取りは自然と軽くなった。早足で上司の部屋に向かいながら、ロベリアの表情には笑みが滲んでいた。
(今日は早く仕事を終わらせて、酒場に顔を出しましょう。必ず)
 密かな決意を、その胸に抱いて。
(2010.2.16)
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