教官、あのね

 ラント西の港から船に乗り、砂漠の国ストラタへ辿り着いた一行は、身体を休めるため、真っ先にオル・レイユの宿屋へ向かった。その頃には、既に陽は傾き始めていた。
 二部屋取った後、一行は男性と女性とに別れ、それぞれの部屋に入った。マリクはアスベルと共に部屋の中へと入り、隅に荷物を置いた。
「教官はこれからどうされますか?」
「俺か。そうだな……特に出掛けたい気分でもないし、このままここでゆっくりさせてもらうか」
「そうですか。俺は少し、街の中を見て回ってきます」
「ああ、そうするといい」
「はい、行ってきます」
 アスベルはマリクに一礼すると、そう言って部屋を出て行った。
 一見したところこの街はそれほど広い街ではなさそうだったが、異国の地というだけあって、若い者は好奇心がそそられるのだろう。ここへ着いたばかりの頃、地面を覆う砂岩に驚いて、あのパスカルなどは大はしゃぎしていた。もっとも、あの娘がはしゃいでいるのはいつものことかもしれないが、とマリクは微かに笑う。
 ベッドに身体を横たわらせ、マリクは夕日色に染まった天井を見つめる。そうしてこのような異国の地に、歳の離れた若い者たちと一緒にいるという事実に、自分がさほど違和感を感じていないことに気付いた。
 ふと仲間たちの姿が脳裏に浮かぶ。騎士学校での教え子であったアスベル。彼の幼馴染みであり、面倒見の良い娘シェリア。世界中を旅しているという、お調子者のパスカル。そしてアスベルを慕う、不思議な雰囲気を纏った少女ソフィ。考えてみれば妙な集団だ。だがそこには、まるで本物の家族のような温かさがある。その温かさに浸っている自分に苦笑しつつも、悪くはない、と呟いた。既に教官でも何でもなくなった自分が、今更彼らを正しき道へ導いてやろうなどとは微塵も思わないけれども、ただ彼らのためにできることがあればそうしたい、とマリクが強く感じるほどだった。


 街中の穏やかなさざめきを心地よく聴いていると、それに混じってひときわ大きな音が聞こえた。マリクはベッドから身体を起こし、部屋の扉を見つめた。確かにノックの音がする。
 外の者に声をかける前に扉が小さく開き、桃色の細髪が覗いた。
「教官。入ってもいい?」
 ソフィだった。すみれ色の大きな双眸を覗かせて、マリクをじっと見つめている。予想外の客にマリクは驚いたが、すぐに頷いた。
「ああ。構わんぞ」
 許可を得たソフィは、扉の間から細い身体を滑り込ませてきた。つま先まであろうかという長い双髪がふわふわと揺れる。その華奢な身体で軽々と飛び回るソフィを見る度、マリクは何故だか妖精でも見ているような、不思議な気分になるのであった。
 ソフィは入ってまず、部屋の中を見回した。ゆっくりと首を左右に揺らし、そして首を傾げる。
「教官。アスベルは?」
「ああ、アスベルなら外へ行ったぞ。街の中を見てくるからと言ってな」
「そうなの?」
「アスベルに用か? なら、少し遅かったな」
 マリクがそう言うと、ソフィは意外にもかぶりを振った。
「誰かとお話がしたかったの。シェリアもパスカルも、街へ行っちゃったから」
「それで退屈を紛らわすために、ここに来たのか?」
「うん」
 ソフィは頷く。それは一人で特にすることもなかったマリクにとっても、悪い話ではなかった。
「よし、ソフィ、ここに座れ」
 マリクは歓迎の意を込めて、ソフィをベッドの上に座らせた。ソフィはこくりと頷き、ベッドの近くまで来ると、その上にすっと腰を下ろした。マリクもベッドの上に載せていた足を放り出し、ソフィの隣に座った。
「ソフィは、シェリアたちについて行かなかったのか」
「うん。なんだか、ここに来たくなったの」
「アスベルがいるかもしれないから、か?」
 ソフィは少し考え込むように顔を俯かせた後、こくりと頷いた。
 この少女は本当にアスベルのことを慕っているのだなあ、とマリクは改めて思った。聞くところによれば彼女は、アスベルが弟に完敗しラントを追い出された時も、黙ってアスベルについてきたのだという。彼が何度も帰るように促したにもかかわらず、だ。
 アスベルもこの少女に関しては、並々ならぬ思いを抱いているようだ。彼女が幼い子供に見えるということもあろうが、それを抜きにしても、特別気にかけているように感じる。
「お前は本当に、アスベルが好きなんだな」
「うん。アスベルは……大切」
 小さな声ではあったが、明確な意志の感じられる言葉を聞いて、マリクはふっと笑った。
 誰かを大切に思うということ。それは時に、信じられないくらいの大きな力を生む。大切な誰かを守るための、とてつもなく大きな力を。
「教官、あのね」
「ん、何だ?」
「教官も、アスベルのこと、すき?」
 ソフィの双髪が揺れる。マリクは力強く頷いた。
「ああ。あいつは、いい奴だからな」
「うん。アスベルは、いいひと」
 ソフィは首を縦に振った後、付け加えた。
「でも、教官も、いいひと。だから、すき」
「本当か?」
「うん」
「ははっ。そいつは嬉しいな」
 マリクは愛しいものを見るように目を細めた。ソフィの純粋な気持ちは、水面を打ったようにマリクの心に響いた。
 ソフィは決して嘘を吐かない。というよりも、そもそも彼女の中には、嘘を吐くという概念が存在しないような気がする。そう思うのは、彼女が紫水晶のような、曇りのない瞳を持っているからであろうか。それとも世の穢れを知らぬ、生まれたばかりの小鳥のような声で言葉を紡ぐからであろうか。
 つい少女の頭へ手を伸ばしそうになって、はっと我に返る。娘を慈しむような心境になっている自分に気付いて、苦笑を洩らした。
 自分が少女の頭に触れたら、少女はどんな反応をするであろうか。アスベル相手のように抵抗なく受け入れるか、それともパスカル相手のように避けるか。少しばかり、試してみたくなった。
「ソフィ」
 呼応して顔を上げた彼女の額に、自分のごつごつとした手を載せる。ソフィは微かに目を見開き、じっとマリクの顔を見つめてきた。
 その双眸には、戸惑いが宿っているようにも感じられた。当然のように受け入れるでもなく、危険を察知して避けるでもなく、戸惑い。十分予想できた反応だが、少しばかり傷ついている自分がいることに気付く。
「嫌か?」
 細髪を優しく撫でながら、尋ねる。
 一瞬の後、返ってきた反応は否定、だった。
「いやじゃ、ない」
 マリクの口からは、自然と安堵のため息が洩れていた。
「教官の手、あったかい」
 透き通った紫水晶の瞳が、明らかな好意を示していた。マリクは心の中にほのかな炎が宿るのを感じ、もう一度頭の上で手を往復させた。彼女から好意的な反応が返ってくる度、心の炎はますます強く燃え上がった。
「教官、嬉しい顔、してる」
 ソフィからそう指摘された時も、照れ隠しに否定することもなく、ああと頷いて肯定した。
「お前のおかげだ」
「わたしの?」
「そうだ。お前の」
 太い指で桃色の細髪をさらって、マリクは唇に笑みを浮かべる。
 アスベルがこの少女を大切にしている気持ちが、今少しだけ分かったような気がした。
(2010.1.16)
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