邂逅

 夜のセイブル・イゾレは、不気味なほどに静まりかえっている。
 静寂の中、ソフィは一人目を覚まし、宿屋の窓から外を眺めていた。微風がソフィの頬を優しく撫でる。いつも結い上げたままにしてある双髪が、風にたなびいてゆらゆらと揺れた。
 昼間は身体の芯まで灼け尽くすような熱さに見舞われていたというのに、夜はこんなにも涼しくて心地よい。ソフィにはそれが不思議でならなかった。ウィンドルは暖かく穏やかな気候の国だから、ソフィはこうした激しい温度変化を経験したことがないのだ。
 教官に訊けば、教えてくれるだろうか。ソフィは髭面の、厳しくも温かな壮年の男性を思い浮かべた。だが直後、真っ赤な髪の世話好きな少女の怒った顔が浮かぶ。何故かシェリアは、マリクがソフィに何かを教えることに対し、あまり良い顔をしないのだった。それが何故なのか、ソフィには分からなかったけれども。
 ソフィは窓を離れて、部屋の扉の前まで歩いた。同じ部屋にはシェリアとパスカルが、それぞれのベッドで眠りについている。シェリアは規則正しい寝息を重ねていたが、一方のパスカルは乱暴に手足を投げ出し、いびきにも聞こえる大きな寝息を立てていた。ソフィは二人の様子を振り返って確認した後、音を立てないようにして、そっと扉から外へ出た。
 静まりかえった真っ暗な宿の廊下を歩き、ソフィはセイブル・イゾレの街へと出た。途端に小さな風が吹いて、ソフィは思わず二の腕をさする。昼間皆と砂漠を歩いている間は、本来涼しさを運ぶものであったはずの風さえも熱風と化し、パスカルがぶつぶつと文句を言っていた。それなのに、夜の風は涼しいどころか少しばかり寒い。ぶるり、とソフィは身体を震わせた。
 ソフィは空を見上げた。濃紺の夜空に、宝石のように光るきらきらとした物が点在している。あの綺麗な物は星と言うのだと、以前アスベルから教わったことがあった。
「星、きれい」
 思ったままの感想を洩らす。星が無数に瞬く夜空は、いつになく神秘的な雰囲気を放っていた。
 そのまま夜空を見つめ続けていると、ソフィはふとあることに気が付いた。遠くに見える黒点が一つ。あれは星ではない。怪訝に思い視線で追っていると、やがてそれが自分の方に近づいてくるのが分かった。
 同時に、その正体が判明しソフィははっとする。大きく翼を広げる竜のごとき魔物、その背に乗る、流れるような金髪を揺らめかせた黒衣の王子――
「リチャード……!」
 ソフィは無意識に戦闘態勢を取っていた。今すぐ宿へ戻り仲間たちの助けを要請することもできたが、ソフィはそうしなかった。例え一人であってもリチャードの暴走を止める。それが自分に課された使命のように感じていたからである。
 リチャードはソフィを見つけると、すっとその前へ下りてきた。ソフィはいつでも攻撃態勢に転じられるよう身構えたまま、真っ直ぐにリチャードを睨み付ける。
 だが、下りてきた彼の表情はやや疲れ気味だった。リチャードはソフィが睨み付けながら戦闘態勢を取っているのを見ると、小さくため息をついた。
「ソフィ、手を……下ろしてくれないか」
 その声を聞いた途端、ソフィは驚いて目を丸くした。思わず構えた手を下ろしてしまうほどに。
 先日ラント領主の館の前で戦った時とは、まるで雰囲気が違っていた。あの時のリチャードからは、根深き悪意と殺意しか感じられなかった。目を剥き、不気味な微笑みを浮かべるリチャードのあの表情は、今でも脳裏に焼き付いている。かつて友情の誓いをした時の穏やかな彼とは全く違う生き物のようだった。
 だが、今のリチャードは違う。穏やかで他人を思いやる心を持つ、ソフィが知るリチャードそのものだった。
 ソフィの中で湧き上がっていたはずの使命感や闘争心は、いつの間にかどこかへと消え去っていた。
「リチャード?」
「そうだよ……ソフィ。僕だ」
 リチャードが疲れた表情のまま頷くと、ソフィは首を傾げて問うた。
「どうして、ここにいるの?」
「君が見えたからだよ。正直驚いたけれど……今、アスベルも、一緒かい?」
「うん」
「シェリアさんや、パスカルさん……マリクも?」
「そう。みんな、一緒」
「そうか……」
 リチャードは顔を曇らせて俯く。それは演技などではなく、心底辛そうに見えた。ソフィは心配そうにリチャードの顔を覗き込む。
「どうしたの? 具合、悪いの?」
「いや……そうじゃない。大丈夫だ、ただ……」
「ただ?」
「いや、何でもないよ」
 苦渋に顔を歪めているのは明らかなのに、リチャードは何も話そうとしなかった。ソフィの心の中には無数の疑問が湧いたが、どれも口にしないままリチャードの表情を見つめる。リチャードの表情には、あの時感じたどす黒いオーラなど微塵も感じられなかった。あの時見ていたのが夢なのではないかと思わせるくらいに。
「リチャード、どうして」
 様々な疑問が一つの形になって、ソフィの口から飛び出す。リチャードは苦渋に歪めた顔を、無理矢理笑顔の形にして見せた。
「……もっともな、疑問だね。でも、僕はまだ……君に……」
 リチャードは言葉を濁すばかりだった。その苦しそうな表情を見て、ソフィの心も傷付けられたようにちくちくと痛み始めた。
 何か彼のためにできることはないのだろうか。彼と自分が、元のように戻るためには。ソフィの思考があらゆる回路を通り、様々な考えが頭を巡った。
 しばしの後、ソフィの目が何かを閃いた時のように見開かれる。
「リチャード。友情の誓い、しよう」
 唐突な提案に、リチャードの口から驚きの声が洩れた。ソフィはおもむろに、リチャードに向かって手を差し出した。
「はい。友情の誓い」
 リチャードの視線が、しばし戸惑うように彷徨った。きっと彼は思い出しているのだろう。かつてソフィと友情の誓いをしようとして、その手が触れられなかった時のことを。ソフィも決して忘れているわけではなかった。だが今のリチャードとなら、友情の誓いができるような気がしたのだ。
 リチャードはやがて、ゆっくりと片手を上げた。その手をソフィの手のひらへ、真っ直ぐに落として行く。
 手のひらと手のひらが触れ合った途端、温かな気持ちが心の中に広がるのを感じた。以前こうした時は、触れることすらできなかったというのに――ソフィの表情が緩んだ。リチャードの表情は未だに驚いたままで固まっていたが、次第に優しさを取り戻していった。


 これでリチャードは正気に戻ってくれたと、ソフィは安心しきっていた。だがそれは、直後誤りであったことが判明する。
 突然、重ねている双方の手に、鋭い痛みのようなものが走った。
「っ!」
「うっ!」
 二人は同時に手を離し、己の手を見る。ソフィの心の中に、あっという間に悲しさが広がっていく。あの時と同じだ。誓いをしようとして、できなかったあの時と――
「リチャード……」
 対するリチャードもまた、悲しそうな苦しそうな表情でソフィを見つめていた。まるで何かに耐えているようだった。
「う……ソ、フィ……」
 リチャードの身体中から、憎悪に満ちたオーラが少しずつ漏れ出ているのに気付いた。刹那、ソフィの心の中の闘争本能に火が付く。素早く一歩下がって構えると、リチャードは顔を苦渋に歪めながら、従えている竜の背に必死ですがりつこうとしていた。
「駄目だ……僕は、僕は……」
「リチャード……」
「駄目だ、このままじゃ……僕は」
「リチャード!」
「頼む、ソフィ……近寄らないで、くれ」
 必死に名を呼ぶソフィを、リチャードは歯を食いしばりながら拒絶する。途端にソフィの身体から力が抜け、その場に座り込んだ。リチャードは竜の背に必死ですがりつきながら、竜の腹を蹴り、飛び立つようにと命じていた。
「うおおおぉぉ……!!」
「リチャード、だめ……!」
 頭を抱え、身体を左右に揺らしのたうち回る。そんな“ともだち”の姿を、ソフィが見過ごせるわけがなかった。だが、何かしようにももう遅い。竜は翼を力一杯にはためかせ、既に手の届かないような上空へと飛び立っていた。ソフィは瞳に悲しみの色をたたえ、その場に立ち尽くすしかなかった。
 やがて、竜はリチャードを乗せて遙か彼方へ飛び立っていった。以前教官が教えてくれた、水の都ユ・リベルテの方角。小さくなっていくリチャードを見つめながら、ソフィは目を伏せて呟く。
「せっかく、友情の誓い……できたのに……」
 もう、その友情は戻らないというのか。ソフィの頭の中に、悲しそうな顔をするアスベルが浮かんだ。アスベルもきっと、今の自分のような気持ちを抱えているに違いない。そう思うと、もっと悲しくなった。自分の大切なともだちがこんなふうになるなんて、誰も望んでいないのに。
「リチャード……」
 既に見えなくなった空へ向かって、ソフィは呟くように言葉を発する。
「わたしたち、ともだちだよね……?」
 夜の静寂の中に、ソフィのか細い声だけが虚しく響く。
 答えが返ってくることは、なかった。
(2010.2.9)
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