16.この場に留まる口実

 雪が舞い、派手なイルミネーションに彩られた街中を、土浦は一人で歩いていた。お使いに出されて、家に帰る途中だった。
 幸せそうな笑顔を浮かべた恋人たちとすれ違うのは、もう何度目になるだろう。その度、土浦は無意識にため息をついていた。
 普段ならよそでやってくれと思うところだが、今日はそうもいかない。何しろ今日はクリスマスイブなのだ。だから街中に恋人たちが溢れかえっているこの状況も、ある意味当然といえるものだった。
 土浦は歩きながら、店のショーウインドウの前で楽しそうに話している恋人たちをちらりと見た。そのカップルはどちらかというと男の方が主導権を握っているようで、男は女の方に指差しながらあれこれ喋り、女はそれに相づちを打ちながら楽しそうに聴いているといった状況だった。
 土浦はすぐに視線を前に戻して歩を進めながら、ふつりと浮かんだある考えに小さく心が躍り、しかしすぐに恥ずかしくなって、慌てて頭の中からその考えを追い出した。
 ――もし、あれが俺と冬海だったら――
 実現の難しい願いだということは、最初から分かっていた。
 冬海というのは同じ星奏学園に通う女子生徒のことだ。一年後輩で、同じセレクションをくぐり抜けてきたある意味戦友と呼べる存在でもある。しかし実際は戦友という言葉のイメージとは程遠く、彼女はまるでこの空に舞う雪のような人物だった。美しい彩りをその身に持ちながら、しかし指に載せれば溶ける雪のように儚い。
 土浦も、最初は彼女の存在をさほど気に留めてはいなかった。同じセレクションの出場者というだけの認識でしかなかった。彼女が気になりだしたのはいつだろう、と土浦はぼんやりと考える。
 しばらく考えて、土浦が出した結論は『分からない』、だった。好きになった相手に失礼だろうとは思ったが、本当によく覚えていない。もしかしたら、冬海は自己主張というものを音楽以外のものによってすることはなかったから、初めは彼女を知りたいという好奇心からきたものだったのかもしれない。
 唐突に、彼女は今どうしているだろうという疑問が浮かんだ。その時、彼女の日常の姿が土浦の中で全く像を結ばず、土浦は苦笑した。本当に、自分は何も知らないようだ。
 だいぶ歩いたような気がして、ふと周りを見渡した。もう少しで帰れそうだと土浦は思いながら、横断歩道を渡った。
 その時、向こうから見知った存在が歩いてくるのに気が付いた。そしてすぐに、それが誰だか分かった。俯き加減に歩く姿を見せる者は、土浦の知っている者たちの中では一人しかいない。
「冬海?」
 土浦が声をかけると、その少女はびくっと肩を震わせ、顔をゆっくりと上げた。その時ちょうど信号が変わり、土浦は慌てて向こう側へ渡りきった。彼女は本当は反対方向に行く予定だったらしいが、土浦の方についてきた。
「あ、あの、土浦先輩ですか?」
 この少しおどおどした口調は、冬海笙子その人のものに間違いはない。土浦は顔を上げて自分を見つめてくる視線を受け止め、ああ、と頷いた。
「久しぶりだな。全然、会ってなかったように思える」
「はい、そうですね」
 土浦は言った後で、これでは自分が冬海に会いたくて仕方がなかったみたいではないか、と焦った。しかし冬海が普通の反応しか返してこなかったので、ある意味ほっとした。
「それより、こんな日にこんなところでどうしたんだ?」
 先程浮かんだ疑問をぶつけてみると、冬海は戸惑ったような様子を見せた。
「えっ、あ……いえ、特に深い意味はなくて、ただ、歩いてみたくなって」
「こんな寒い雪の日にか?」
「はい。あ、あの、すみません」
 ぺこりと頭を下げる冬海を見て、土浦は苦笑した。彼女はすぐに謝るくせがあるように思える。何も彼女は悪くないのにと思いつつ、それがまた土浦の目には彼女らしい行動に映って、心の中に愛しさがふつりと湧いた。
「いや、別に謝らなくてもいいが、寒いんじゃないかと思ってな」
「いえ、そんな。それより、土浦先輩の方が寒そう、です」
 言われて、土浦は自分の服装を見回す。確かに上着一つ羽織っていない状態だが、土浦はさほど寒く感じていなかった。言われてから周りの人間と比べて薄着していることに気付いたくらいだ。
「まあ、俺はそんなに寒がりじゃないから大丈夫だが――」
 土浦は言いかけ、冬海が下の方で手をしきりにこすり合わせていることに気付く。見ると、彼女は手袋をしていなかった。やはり寒いのだろうという思いに至った瞬間、思わず土浦は冬海の手をとっていた。冬海の目が驚きに見開かれ、土浦は冬海の手の冷たさに思わず声を上げていた。
「うわっ、冷たいな。俺の心配をする前に、自分の心配をするべきじゃないのか?」
「す、すみません」
 仕方がないな、と土浦は呟きつつ、冬海の手にはっと自分の息を吹きかける。冬海はびくりと手を震わせたが、土浦の手から自分の手を離そうとはしてこなかった。土浦は冬海の手に、まんべんなく息を吹きかけてやる。その度に白息が土浦の口から出て、一瞬空に昇っては消えていく。
「これで、ちょっとは暖かくならないか?」
「はい、あの、ありがとうございました」
 土浦は手を離し、冬海はその暖かさを守るように一方の手をやんわりともう一方の手で包んだ。
 改めて彼女を見ると、まるで雪を纏った天使のように見えた。先程の自分の行動を思い出しながら、土浦は内心焦りに似た気持ちを抱いていた。仕方がないとは言いながら、しかしあれは自分を満足させるためにやった行動でもある。そんな自分に気付いて、土浦は少し自己嫌悪した。
「冬海、今から帰るのか?」
 話題を変えてみた。すると彼女はいえ、と首を横に振った。
「もう少し、歩くつもりです。土浦先輩、ありがとうございました」
 冬海は微笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。そのまま冬海が行ってしまうと思った土浦は、慌てて口から言葉を発していた。
「冬海!」
 冬海は歩き出していたが、声に気付いて後ろを振り向いた。土浦は言った後で、その後の言葉を考えていなかったことに気付いた。彼女を引き止めなければという思いだけが土浦の心を揺り動かしていた。
「その、なんだ。お前がもし暇なら、どこかでお茶でも飲みながら話さないか?」
 土浦はやっとそれだけを言った。その後で何てこっぱずかしい誘い方をしたのだろう、と再び自己嫌悪が湧いてきた。
 それに、だ。そう言われれば、立場上冬海が断れるはずがない。土浦は何しろ先輩なのだ。義理でついてこられても、それはそれで悲しいではないかという思いが土浦の中に現れた。
 戸惑いとも驚きともとれる表情を見せている冬海に対し、土浦は言い訳するような口調で言った。
「いや、別に、嫌ならいいんだ。俺も帰る途中だったから。変なこと言って、悪かった」
 土浦は逃げ腰になっていた。なんとなく、この場に自分は居ない方がいいような気がしていた。しかし同時に、ここに冬海と一緒にいたいという欲望があったのも事実だ。
「つ、土浦先輩、あの」
 その時になって、冬海はやっと言葉を発した。土浦は思わず冬海の方を見つめた。
「あの、私、嫌じゃないです」
「え?」
「いえ、あの、私何も予定がないので……」
 土浦に聞き返されて戸惑ったのか、冬海はそれだけ答えて俯いた。土浦はやっと冬海の言葉の意味を理解し、急に明るい光が自分の心に差してきたような感覚を味わっていた。冬海のそばに寄り、彼女と視線を合わせた。
「本当に、いいのか? 嫌じゃないんだな?」
「は、はい」
「本心から言ってくれ。嫌なら、無理に付き合う必要はないんだぞ?」
「いえ、そんなこと……」
「そうか」
 しつこく訊いてから、土浦はやっと安堵のため息をつくことができた。その様子がおかしかったのか、冬海は微かに笑みを見せていた。
「じゃ、行くか」
「はい」
 土浦は再び歩き出し、冬海もその後ろをついていった。


 数分後、土浦と冬海は土浦がよく行く喫茶店の店内にいた。店内はいつもと変わらぬ落ち着いた雰囲気で、どちらかというと穏やかな時間を過ごしたいというカップルたちが席を占領していた。二人は店員に案内されるまま窓際の席に座った。
 注文をして少し経った後、土浦の前にはコーヒーが、冬海の前にはココアが置かれた。まずは一口コーヒーを飲んだ後、土浦は言った。
「冬海はよくこういう日に外に出たりするのか?」
「あ、いえ、今日は……たまたまなんです」
「そうなのか?」
「はい。外がとても綺麗で、雪も降っていたから」
 冬海は微笑みながらそう言った。外に降っている雪とイルミネーションを見比べ、冬海はやはり天使のように見える、と土浦は思った。照れを隠すように再びコーヒーを口にし、土浦は店内を見渡した。店内はカップルたちがそれぞれのお喋りに興じていて、とても和やかな雰囲気だった。
「今日が何の日か、もちろん知ってるよな?」
「はい。クリスマスイブですよね」
「ああ……まあ俺は独り身だから、寂しい夜を送る予定なんだけどな」
 土浦は苦笑しながらそう言い、またコーヒーを口に運んでしまう。軽く飲み終えた後で、こういう場面に用意されている飲み物というのはなんて都合がいいものなのだろう、と土浦は思った。
 冬海もココアを飲み、ほとんど音を立てずにカップを置いて小さく息を吐いた。
 冬海の一連の仕草を見つめた後、再びコーヒーカップを口に持って行こうとした時、急にズボンのポケットから振動が伝わった。土浦は慌ててコーヒーカップを置き、すぐに携帯電話を取り出す。携帯電話は振動と同時に派手な光を振りまき、電話が来たことを知らせていた。
「はい、もしもし」
 答えながら、土浦は目の前にいる冬海に悪いな、と口の動きだけで伝えた。冬海は微かに笑みを見せて、小さく首を振った。
「え? あ、いや、今どこって……いや、しばらく帰れそうにないんだ……え? い、いや、誰っつってもな、別に関係ないだろ」
 電話を持っていることを知らなければ、まるで独り言を言っているようにさえ見えるだろう。土浦は少し焦った口調になっていた。
「誰って……あー、そうだよ、悪いか? ……ち、ちょっと待てよ……いや、もしもし、おーい」
 土浦はそこで携帯電話を離し、画面に向かって舌打ちをした。再び元あった位置に携帯電話を戻した後、土浦は今度は声を出して謝った。
「ごめんな。今、姉貴から電話があってさ」
「あ、いえ。気にしないでください」
「悪かった。そういや俺、買い物頼まれて帰る途中だったんだよな。すっかり忘れてたよ」
 土浦が笑い声を入れつつそう答えると、冬海が心配そうな表情を見せた。
「それじゃ、早く帰った方がいいのでは……」
「あ、いや、いいんだよ。大した買い物でもないし。気にしないでくれ」
 土浦は笑って手を振った。冬海もとりあえず安心したのか、表情を緩めた。その後で、今度は土浦が心配そうな表情をし、冬海に言った。
「俺、しばらく帰れそうにないとか言ったけど、冬海こそ帰らなくても大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫だと思います」
「そうか。良かった」
 土浦は安堵の表情を見せ、冬海も小さく笑った。
「まあ、俺の方も多分大丈夫だ。姉貴にはなんかその、勝手に恋人と一緒にいるとか勘違いされたらしいから」
 最後は照れたような表情を見せながら言った。冬海は驚きの表情になり、土浦をじっと見つめた。冬海の視線に耐えかねたように、土浦は慌てて言葉を続ける。
「あ、いや、向こうが勝手に勘違いしているだけだから、あんまり気にしないでくれ。ごめんな、勝手に言われて迷惑だよな」
 土浦が冗談半分といった調子でそう言った後、冬海が心なしか頬を赤らめたように土浦には見えた。どうしたのだろうと思いながら、心の中は何かの期待で躍っていた。彼女の本心はどうなのだろう。誤解されて、本当はどう思っているのだろう。
 迷惑じゃないと言われることを知らず知らずのうちに期待してしまっている自分に気づき、土浦は内心苦笑した。
 しばらくした後、冬海がためらいがちに口を開いた。
「私、そんな……迷惑じゃないです」
「え?」
「あ、い、いえ、その……」
 冬海はそこまで言って口を閉ざした。先程よりもはっきりと、冬海が顔を赤らめているのが分かった。土浦は期待が当たったような気がして、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じていた。
 ――冬海、俺はその言葉を良い方向に解釈してもいいのか。
 土浦は心の中でそう尋ねた後、笑顔を取り戻して外を見た。外は相変わらず雪が降っていたが、イルミネーションの光に照らされて映え、様々な色に変化しているように見えた。
「雪、綺麗だよな」
 冬海は一瞬遅れて外を見、小さく頷く。
「はい、そうですね」
「明日も降ってたら、ホワイトクリスマスってとこか」
 土浦はしみじみと言った後、冬海の方を向く。
「冬海、明日暇か?」
「え? あ、はい、何もないと思いますけど……」
「そうか。じゃあ明日、どこか行かないか?」
 冬海は明らかに驚きと戸惑いの混じった表情を見せた。土浦は内心心臓が破裂しそうになるのを感じながら、じっと冬海の答えを待った。要するに土浦は今、デートの誘いをしている。先程の冬海の反応を見て、少し大胆な行動に走った結果であるが、これはある意味賭けとも言える行動だった。
 そして、しばらくの後。
 冬海は頬を紅く染めながら、こくりと頷いた。
「はい」
 その返事を聞いた途端、土浦は思わず大きく息をついていた。それは安堵のものでもあり、新たな嬉しさを受け止めるためのものでもあった。
 土浦はコーヒーを飲み干してから、再び店内を見渡した。先程と少々人々が入れ替わっているが、カップルが多いことには変わりない。穏やかな時間の中で流れている人々を見ながら、土浦は思っていた。自分たちも、こんなふうに見えているのだろうかと。
 今年のクリスマスは、とても楽しい日になりそうな気がした。
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