17.余裕なんて無い

 土浦は学食へ行こうと、一人で廊下を歩いていた。廊下はとても騒がしい。昼休みは学校にいる間の唯一の長時間休憩と言ってもいいくらいだから、そうなるのは当然のことで、そしていつものことだった。
 食堂の前までやって来た時、土浦の目にはある少女の姿が飛び込んできた。
 おろおろとして不安そうな様子だ。土浦はふっと軽く息を吐いてから、彼女に近づいていった。
「よう、冬海」
 びくりとして、少女は土浦の方に視線を向けた。そして小さく、声をもらす。
「つ、土浦先輩」
「こんなところでどうしたんだ? 今から昼飯か?」
 土浦が尋ねると、冬海は小さく首を縦に振った。土浦はふうん、と頷いて納得する。その時、ふと冬海の手に目をやると、彼女が何か袋のようなものを掴んでいるのが見えた。土浦はそれをのぞき込み、指を指して再び尋ねる。
「これ、何だ?」
 冬海は少し怯えたようにぴくりと震えた後、糸のようなか細い声で言った。
「あ、あの、お弁当です」
「弁当?」
「はい。あの、土浦先輩の分もあるんです……その、良かったら」
 最後は消え入りそうな声でそう言った。土浦は内心驚きつつ、それは嬉しい驚きだったので、笑顔を見せてそれに答えた。
「そうか、ありがとな。んじゃ、今日は暖かいし、外に行って食べるか?」
「はい」
 冬海は小さく頷いた。よし、と言って、土浦は元来た道を引き返す。歩き出すと、冬海も後ろからそれについてきた。彼女がちゃんとついてきていることを確認して、土浦はそのペースに合わせてゆっくりと歩く。騒がしい廊下の中で、彼らの周りの時間だけがゆったりと流れていくかのような感覚に陥った。
 中庭に出ると、他にも芝生の上でお弁当を広げている生徒がちらほらと目に入った。土浦はきょろきょろとしつつ、場所探しをする。冬海は昼休みに外に出たのが初めてだったのだろうか、いつものように不安げに、そして少し興味津々に、周りの様子を見ていた。
「お、あそこがいいな」
 土浦は周囲に誰もいない場所を偶然見つけ、にっと笑った。側にいる冬海に目配せし、その場所に向かって歩き出す。冬海もそれについてきた。土浦の歩幅に合わせようとしている冬海の様子を見て、土浦は微笑した。
 土浦が見つけた場所はちょうど木の下だが、陽も当たるとてもいい場所だった。何故こんなにいい場所が取られないのだろう、と少し疑問に顔をしかめつつも、いい場所が取れたことに満足する気持ちの方が大きく、すぐに土浦は笑顔に戻った。
「座るか」
「はい」
 土浦が座った後で、冬海もゆっくりと腰を下ろした。
 その途端、土浦のお腹からぐうっと音が鳴った。土浦はあ、と小さく声を上げ、冬海は不安そうな顔になった。そして慌てたように、お弁当の包みを広げた。
「すみません」
 冬海の手つきは少し頼りないが、手慣れたものだった。あっという間に土浦の前にはおいしそうなおかずとご飯が現れ、土浦は思わず唾を飲み込んだ。
「これ、冬海が作ったのか?」
 冬海は首を横に振った。土浦は目を見開き、再び質問をしようとした時、先に冬海が口を開いた。
「あの、作ってもらったんです。その、すみません」
「いや、別に謝らなくてもいいけど。じゃあ、誰かに頼んだのか?」
「はい。その、友達と食べるから、って」
 冬海の答えに納得しつつ、土浦は何か妙な引っかかりを覚える。しかしその感覚は、空腹によって全てかき消されてしまった。もう一度お腹が鳴り、土浦は冬海に尋ねた。
「これ、食べてもいいか?」
「あっ、はい」
 冬海は再び慌てたように箸を取り出し、土浦に差し出す。土浦はそれを受け取るやいなや、おかずに向かって一直線にそれを差し込んだ。それは卵焼きだった。お弁当のおかずの定番ではあるが、そうであるからこそ最もおいしいおかずの一つでもある。土浦はこれが大好物だった。
 落ちないようにゆっくりとお弁当箱の中から取りだし、口に運ぶ。口で軽く噛むと、あっという間にそれはほどけて、口の中に卵のほんわかとした食感が広がった。土浦はそれを飲み込みながら、同時に感嘆のため息をもらしていた。
「これ、うまいな」
「あっ、ありがとうございます」
 冬海は遠慮がちにそう言いながら、微笑みを見せた。その微笑みは本当に小さなものではあったが、二人の周りがぱっと明るくなるような笑顔だった。土浦はしばらく、冬海の笑顔に見入ってしまっていた。
 少し経って、そのことに気付いた冬海は、はっとなって顔を赤らめた。
「あ、あの」
「え? あ、ああ、悪い」
 土浦も我に返り、昼食を再開する。他のどのおかずもおいしく、ご飯もふっくらとしてちょうどいい柔らかさだった。時折笑みをこぼしつつ、そして笑い声を上げつつ、二人は昼食を食べ終えた。
 二人でたいらげた後の空っぽのお弁当箱を見ながら、土浦はお腹をさすった。
「はー、うまかった。ありがとな、冬海」
「あ、いえ」
 冬海はぱっと顔を赤らめる。可愛いな、と土浦はふと思い、自分のその思いに気付いて慌てて自分も顔を赤らめた。
 芝生の上で空を仰ぎ、土浦は陽の眩しさに目を細めた。日中だから陽は強く、二人に向かってさんさんと降り注いでいる。土浦は徐々に視線を下げながら、今度は冬海の方を向いた。冬海は視線を下げていて、芝生を眺めているように見えた。
 何か話をしようとして、土浦は口を開ける。が、すぐにそれを閉ざした。話題がないわけではなかったが、開けた瞬間なんとなく話をしようという気分が薄れていったのだ。土浦は冬海の横顔を見つめ、小さくため息をついた。
 彼女に触れたい、と思う。しかしそれはいつも叶わない。手を伸ばしては引っ込め、思いを持て余したままため息をつく日々だ。
 冬海が徐々に自分に気を許し始めていることは、なんとなく気が付いていた。そうであればいいという土浦自身の願望が強いせいもあるだろうが、しかし打ち解け始めていることは事実だ。冬海は最初ほとんど何も喋らなかったのが、徐々に言葉数が増えてきている。
 それが嬉しくて、土浦はことある事に彼女に話しかけた。たとえそれが微かなものであっても、反応が返ってくるということは何にも勝る喜びだった。
 しかし、そこから先は何もしていなかった。できなかった、という方が正しい。冬海は小さくて、華奢で、少しでも力を入れれば壊れてしまいそうなくらい脆い存在だったのだ。そして土浦はそんな彼女を傷つけてしまうことを、そして今の関係が崩れ散ってしまうことを何よりも恐れていた。
 そんな危うい状態を維持しようと、土浦は心を砕いてきた。自分でもこんなに人に対して繊細な心遣いができるものかと驚いた程だ。そんな関係だったから、最初から余裕なんてこれっぽっちもありはしなかった。
 余裕があったなら、今土浦は平気で彼女の髪に触れていられただろう。彼女を傷つけたり壊すことを恐れずに、彼女を腕の中に迎え入れることができただろう――。
 気付かぬうちに、長い間彼女を見つめていたらしい。冬海が視線に気付いて、土浦の方に顔を向けてきた。
「土浦先輩?」
「あ、いや、何もない」
 土浦は我に返り、再びため息をついた。その間も、彼女の不安げな視線が土浦を捉えている。
 その不安げな視線を見るたびに、土浦はなんて脆いものを手にしてしまったのだろうと思う。彼女は怯えているのか、それとも戸惑っているのか。彼女の儚げな表情から、それを読みとることはいつも困難なことだった。
「冬海」
 唇の掠れる感覚を残しながら、土浦は彼女の名を呼ぶ。彼女は目をきゅっと見開いて、土浦を真っ直ぐに見つめた。
「土浦先輩……」
 冬海がそう発したその瞬間、土浦の視線は冬海の唇に注がれた。言葉を紡ぐために小刻みに震えるその唇は、土浦の心の何かを揺さぶった。その動きは決して艶めかしいと呼べるほどのものではない、しかしそれに、土浦は心を奪われてしまった。
 そうっと、手を伸ばす。冬海は不安げな視線をその手に向けた。土浦はそれに構うことなく、手をそのまま冬海の髪に触れさせた。さらりと髪が落ち、土浦の手にくすぐったい感覚を残す。
 冬海の体は震えていたが、拒絶はしてこなかった。彼女が激しく土浦を拒絶することはない。しかし、冬海は今拒絶したくて震えているのではないと、何故か土浦にははっきりと分かった。
 土浦の視線は相変わらず彼女の唇に注がれている。冬海の唇は今も小刻みに揺れている。
 もし、何も恐れなくてもいいのなら――
 土浦の心の中にせき止めていた何かが溢れだし、その途端、土浦は行動に移っていた。
「土浦先――」
 冬海の口からこぼれ出た言葉をすくい上げるかのように、土浦は彼女の唇を奪った。ふわっとした温かい感触が、土浦の唇を包む。
 これが、触れたくてたまらなかった冬海なのだ――。
 冬海は見た目通りの女の子だった。優しくて、小さい。でもそれだけではないと土浦は思った。彼女には何かを受け止める大きな器があるような気がしてならない。今も土浦が先取ったような形ではあるが、本当は彼女に受け止められている方ではないだろうかと思った。
 土浦は冬海から顔を離し、じっと冬海の顔を見つめた。冬海の顔は真っ赤に染まっていて、思わずこちらまで赤面してしまいそうだった。二人の間の時間が、止まったような気がした。
 その時、学校中に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、二人の時間はあっという間に動き出した。同時に校舎の方を振り返り、二人は慌てて立ち上がる。服についた枯れ草を払いながら、まず土浦が先に歩き出した。冬海はお弁当箱を持ち、慌ててその後を追う。
 歩きながら、土浦は何度も考えを巡らせていた。遠くの生徒たちの騒ぎ声を聞きながら、ふと土浦は天を仰いだ。そして、小さく笑う。
 ――余裕なんてない、と呟きながら。
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