陽が落ち、すっかり暗くなってしまったある冬の日の放課後。
土浦は、一人で静まりかえった学校の廊下を歩いていた。時折通り過ぎる教室の中を見ながら、早足で歩いていく。彼の息は弾んでいて、身にしみる寒さの中でそれは口から白く吹き出していた。
やっと目当ての教室を見つけて、土浦はまず中を覗き込んだ。中からは微かにクラリネットの澄んだ音が聞こえてくる。やはり、彼女はここにいた。土浦は安堵のため息をつきながら、同時に緊張が胸から喉へとせり上がってきた。
ふいに、先程日野に言われた言葉が脳裏に蘇る。
――冬海ちゃんのこと、好きなんでしょ? だったら告白しちゃいなよ!
土浦は目が飛び出るのではないかと思うくらい、驚いた。彼女の口から“告白”なんていう言葉が飛び出したのもそうだが、何より彼女に冬海へ抱く感情を指摘されたことに対して、心臓を掴まれたような思いがした。
日野は前々から分かっていたのだろうか。自分の気持ちが、徐々に冬海に向かって動いていたことに。いつの間にか、冬海のことが気になって仕方がなくなっていたことに。
今でも、冬海と話をしたことはほとんどない。元々彼女が引っ込み思案な性格であることに加えて、どうも男性が苦手のようだから、自分のような男はなおさら彼女にとっては恐怖の対象なのではないかという想像が邪魔して、こちらから声をかけることもできなかった。声をかけた時に彼女が怯えたような目を向けてくるのが、どうしても耐えられなかった。
しかし、今は彼女に話しかけないわけにもいかなかった。もう遅いから、彼女に練習を止めて帰るよう伝えなければならない。先程日野と話した時、土浦は「日野が行ってくればいいじゃないか」と提案したのだが、日野は顔の前で手を合わせ、ごめんね、と謝ってきた。
――私、今日はもう帰らなきゃいけないんだ。だから土浦君、お願い。ね?
それに、冬海ちゃんと二人きりだからちょうどいいじゃない。日野はさらにそう付け加えた。その後で、先程の告白云々という話をされたのだ。
目の前で頼み事をされて、仕方ないなとは言いながら、土浦は承諾した。内心、冬海と話す機会ができたことへの嬉しさも少しあった。そうして土浦は今、ここにいる。
土浦は深呼吸して心を整理した後、練習室のドアをノックした。
「冬海」
冬海がクラリネットを口から離し、びくりと驚いたようにこちらに視線を向けてきた。土浦は練習室の扉を開けて、中に入る。冬海は固まったまま、視線だけを土浦の方に向けていた。
「もう、遅いぞ。早く帰った方がいい」
「あ、は、はい。すみません」
冬海は小さな声でそう言うと、慌てて自分のクラリネットを片付け始めた。土浦はもやもやとした気持ちを中に抱きながら、その様子を見ていた。やはり彼女は怯えているのだろうか。自分なんかが来て良かったのだろうか。そんなことばかり考え、その後で、自分らしくないなと内心苦笑した。
そうしているうちに、冬海が荷物をまとめ終えたようだ。土浦の前に立って、ためらいがちに小さく口を開いた。
「あの、それで日野先輩は?」
「あ、ああ、日野は用事があるとかで先に帰っちまったんだ」
土浦がそう言うと、冬海は困ったような表情をした。
「そうですか……」
「あ、それでだ、冬海」
土浦が言うと、冬海ははい、と答えて土浦と視線を合わせてきた。冬海にまじまじと見つめられ、気恥ずかしさを覚えながら、土浦は続けた。
「もし冬海さえ良ければ、俺と一緒に帰らないか」
冬海は目を見開いた。想像通りの反応だった。その一瞬の後で、冬海は視線を彷徨わせ始めた。
「あ、あの、でも、ご迷惑なんじゃ……」
「いや、そんなことはない。どうせ俺も帰るつもりだったし、ちょうどいい」
「本当ですか?」
「ああ。それに、こんな暗い道を冬海一人で帰らせるのは心配だからな」
「あ……すみません」
彼女はぺこりと頭を下げて謝った。土浦は優しげな笑みを浮かべながら、手を振った。
「謝らなくてもいいって。今まで練習、頑張ってたんだろ?」
冬海は顔を上げて土浦を見つめ、はい、と頷いた。土浦はもう一度冬海に笑いかける。
「だったら、むしろ胸を張ってもいいことじゃないか。じゃ、そろそろ帰るか」
「あ、はい」
二人は自分の荷物を持ち、先に土浦が教室を出て、その後に冬海が続いた。廊下は先程と同じくしんと静まりかえっていて、不気味なほどだった。こんなシチュエーションなら、怪談話で語られるような妖怪か何かが出てきそうだ。
ふと、土浦は背中に何かの気配を感じてぞくりと震えた。自分の服の袖を引っ張っている。まさか本当に妖怪じゃないだろうなと思いながら、土浦はゆっくりと後ろを振り返った。
するとそこには妖怪が――ではなく、土浦の服の袖をぎゅっと握りしめた冬海の姿があった。視線が定まらず、まるで怯えているようだ。
「冬海?」
土浦が声をかけると、冬海ははっとして土浦の服から手を離した。
「あっ、すみません!」
「いや、別にいいんだが……そんなに、怖いか?」
「は、はい。あの、こんなに遅くまで学校に残ったのは、初めてで」
彼女の声はいつもにも増して震えていた。土浦は冬海に微笑みながら、思わず言葉が口から飛び出していた。
「そうか。なら、もう少し側にいろよ」
言った後で、土浦は一体何を言ってしまったのかと思いはっとした。冬海の反応は、ない。驚いているのだろうか、などと思いながらゆっくりと土浦が歩き出すと、冬海は言われた通り、ぴったりとくっついて歩き始めた。傍目から見ればまるで寄り添う恋人のようではないかと、ふと思って土浦はどきりとした。この場に誰もいないのが幸いだった。
やっと暗い学校を抜け出し、靴を履き替えて外へ出る。
外は寒さが厳しかった。制服の上に一枚コートを羽織っているにも関わらず、その寒さは容赦無しに体の中に吹き込んでくる。学校を出ても、冬海は土浦の横にぴったりとくっついたままだった。今度は怖さではなく寒さが厳しいからだろうと、土浦は思った。
「寒いな」
「はい」
冬海のか細い声が返ってくる。
少し歩くうち、土浦は日野の言葉を再び思い出した。告白したら、と日野は言った。今は二人きりなのだから、チャンスだ、とも。確かにそうだと思う。今は周りに誰もいないから、人目を気にすることはない。
だが、土浦はなかなかその一歩を踏み出すことができなかった。どんな反応が返ってくるかと考えただけで、足がすくむような思いがする。
「寒い……」
ふと、横からそんな言葉がもれた。土浦がそちらに視線をやると、寒そうに手を自分の息で暖めている冬海がいた。
「大丈夫か?」
思わず声をかけると、冬海は土浦を見て、小さく頷いた。
「はい。大丈夫です……」
しかしそれは頼りない声で、とても大丈夫そうとは思えなかった。なんとかしなければ、と土浦は思った。何故そう思ったのかは分からないが、冬海が寒そうにしている姿を見て、何もせずにはおれない気分になったのだ。
土浦は少し迷った後、あることをしよう、と心に決めた。それは生半可な覚悟ではできないようなことだったが、今ならできるような気がした。人の目がない、今なら。
土浦は自分の手をすっと伸ばし、冬海の片方の手を取っていた。冬海は驚いたように土浦に視線を向け、土浦はそれを気にしないように努めながら、ごまかすように空を見上げた。空には美しい星が瞬き、透き通るように綺麗だった。
「あれ、冬の大三角だよな」
えっ、と小さく声を上げた後、冬海も空に目をやり、言った。
「本当ですね」
そう言った後、冬海が土浦の手を少し強く握ってきたのが感じられた。冬海は自分の手を拒否しなかった。抵抗もしなかった。それどころか、自分の手を受け入れてくれた。それが嬉しくて、土浦は空を見上げながら微かに笑っていた。
――まだ、言えそうにないな。
告白のことを思い出し、土浦はふと苦笑する。だが今は、それでもいいと思った。
言う時期はどうであれ、自分の気持ちは冬海にちゃんと伝わる。そんな気がしたからだ。
二人の足がアスファルトを踏みしめる音が、小さく響き渡っていた。