03. あともう一言

 あの一件以降、冬海の土浦に対する態度は軟化したような気がする。
 冬海は男が苦手だ、という話は日野や天羽から散々聞かされていたから、ある程度心構えはしているつもりでいた。それでも自分の姿を見ただけで急におろおろされたり、逃げるように日野や天羽の後ろに隠れられてしまうのは、あまり気分の良いものではなかった。だから、土浦もわざわざ冬海と接触することなど、それまではほとんどなかったのだが。
 あの一件というのは、昼休み、冬海が森の広場で男子生徒に絡まれていた事件だ。自分の気持ちを一方的に押しつけてくる男子生徒に対し、冬海はおろおろとするばかりで、どうすることもできないでいるようだった。土浦は思わず見ていられなくなって、二人の間に割って入ったのだ。
 男子生徒を追い払った後、冬海にはいつものように逃げられてしまったが、数日後冬海は初めて自分の前で笑みを浮かべ、感謝の言葉を口にした。初めは驚き動揺したものの、冬海が自分から土浦へ感謝の気持ちを伝えてくれたことは、土浦にとって喜ばしい出来事だった。
 それ以来――勝手な思い込みでなければいいがと心の中で前置きしつつ、土浦は思う。いつも自分から隠れたり逃げたりしていた冬海が、少しずつ自分の方を向いてくれるようになったのではないか、と。


 そんなこともあったから、職員室の掲示板前に立っている冬海の姿を見かけた時、土浦は思わず声を掛けていた。
「よう、冬海」
 冬海は驚いたように、びくりと肩を震わせた。ゆっくりと土浦の方を振り返り、その姿を確認して、ぎこちない微笑みを浮かべる。
「あ……土浦、先輩」
 その笑顔に多少の違和感を感じ、寂しいような残念なような気持ちになったものの、あの事件の前よりはましだ、と自分に言い聞かせた。それまで冬海が熱心に見つめていたものへと、視線を移す。
「『オペラ公演 フィガロの結婚』……か」
 声を張り上げている最中に撮影されたと思われる女性の写真を背景に、大胆に印字されたタイトル、その下に日時等の詳細が書かれている。その女性の姿は実に印象的で、まるでポスターから高音が響いてくるのではないかと思うくらいの迫力があった。開催日時を見ていると、ちょうど来週と再来週の日曜日、近くのコンサートホールで行われるようだった。
 そういえば、と土浦は思い出す。母親が知り合いからこの公演のチケットをもらったはいいものの、その日は用事があるとかで、チケットを持て余している様子だったことを。誰にも渡すあてがないらしく、土浦も声を掛けられたのだが、さほど興味がないため断っていた。
 土浦はちらと冬海の様子を窺う。冬海は突然向けられた視線に驚いたらしく、身体を震わせた。そんなに驚かなくてもいいだろうにと、やや苛立ったような、どこか寂しいような気持ちが胸にせり上がる。一瞬躊躇ったが、何気ないふうを装って、土浦は尋ねた。
「冬海は見に行くつもりなのか? このオペラ」
 冬海は戸惑ったように視線を彷徨わせた。ややあって、頷く。
「はい。一度見てみたいと思っていたので、この機会にって……」
「そうか」
 さすがにいきなり自分の母親もチケットを持っていて云々、とは言い出せなかった。つい、言いそびれたというのが正しいかも知れない。なんとなく気まずくなって、土浦は再びポスターの方へと向き直った。
 昼休みということもあって、廊下は大勢の生徒達で溢れかえり、喧噪が響き渡っている。だが、二人の間を支配していたのは、紛れもない沈黙だった。それもぴんと張り詰めたような、破りがたい沈黙。それに抗おうと、何度か口を開いて沈黙を破ろうとするのだが、上手く喉が震えてくれない。こんな気まずい思いをしたことは今までなく、土浦はこの僅かな時間に小さな苛立ちと、苦慮を積み重ねることになった。
 だが、何もしないままでは、昼休みが終わってしまう。その恐れに背中を押されるようにして、土浦はポスターに視線を向けたまま、唇を動かした。
「俺も……実は、行こうと思ってるんだ」
 冬海がえっ、と小さな戸惑いの声を洩らすのを、土浦ははっきりと聞いた。その先にある彼女の感情が一体何であるのか、そこまでは判別できない。あともう一言。それさえ言ってしまえばすぐに終わることなのに、土浦の唇は、思うとおりに動いてはくれなかった。
「奇遇だな」
 出てきたのは全く意味のない、くだらない言葉――土浦は心の中で自身に悪態を吐く。冬海もはい、と答えただけで、それきり押し黙ってしまった。
 自分のあまりの情けなさに溜息を吐く。自分は果たしてこんな人間だったか、と問うて、心は即座に否と答える。傍若無人に振る舞っているつもりはないが、少なくとも相手の些細な反応をいちいち気にするようなタイプではなかったはずだ。それなのに、どうして冬海の前ではこんなにも臆病になってしまうのだろうか――
 だが意外にも、再び訪れた重い沈黙を破ってくれたのは冬海だった。遠慮がちに口をもごもごと動かしながら、それでも土浦のそれより高く細い声で、言葉を紡ぐ。
「土浦先輩は……あの、どちらの日に見に行かれるんですか?」
 震える琴線のような声に、土浦の心臓が跳ね上がる。自分を見上げる冬海の視線と出会い、やや戸惑いつつも、いつだったかなと記憶を手繰り寄せる。
「来週……だった気がするな」
 冬海があ、と小さな声を上げた。
「あの、実は私もその日に見に行くんです」
 そう言って彼女が浮かべたのは、ふわりと優しい綿のような微笑。願ってもないチャンスが到来した。
 じゃあ一緒に、と言いかけて、土浦の唇の動きが止まる。たまたま、行く日が被った。ただそれだけのことと言ってしまえば、それで終わってしまわないだろうか。冬海がもし一人で楽しむ予定だったならば、自分がそれを邪魔してしまうのは忍びない。冬海には土浦の誘いを断る理由がないのだ。彼女の性格や立場上、きっぱりと自分の誘いを断れるとも思えない。
 土浦はそっと溜息をついた。たったそれだけのことにこうも悩んでしまう自分がらしくなくて、どうにももどかしい。髪を掻き上げ、もう一度溜息。溜息をつくと寿命が縮まるという迷信があるが、あれは案外本当なのかも知れないと思いながら。
「あ……あの、ええと……」
 隣から、冬海の小さな声が聞こえた。そっと横目で彼女を窺うと、どうやら途切れてしまった会話の糸口を見つけるべく、土浦と同じように慌てて思案しているようだ。気を遣わせてしまった。その事実が、土浦の心に爪痕を残す。
 ――このままでは、いけない。
「もしかしたら、会場で会えるかもな」
 慎重に言葉を選びながら、無難な台詞を口にする。冬海は顔を上げて、ぎこちなく笑った。
「あ、は、はい。そうですね」
 だが、いつまでもこんな無難な会話を続けているようではきりがない。いい加減自分も腹をくくらねばならないのだ。
 土浦は照れと焦りに似た感情を隠すように、髪を掻き上げた。
「もしそうなったらよろしく――じゃなくて、だな」
 思い通りの言葉を紡いでくれない口にもどかしさを覚えつつ、はっきりと言い放つ。
「もしお前さえ良かったら……一緒に行かないか?」
 冬海の目がはっと見開かれた。その瞳に宿ったのは、戸惑い。直後、彼女の頬がほんのりと赤らんだ気がした。緊張を覚え、土浦は乾いた喉を潤そうと唾を呑み込む。
 冬海の視線は何度か宙を彷徨った後、はっきりと土浦を捉えた。
「あの……本当に、いいんでしょうか……私で……」
 それは、土浦の誘いそのものに戸惑う言葉ではなかった。土浦が選ぶのが本当に自分でいいのかと尋ねている。
 土浦は思わず深く息を吐いた。安堵を覚え、表情が緩む。
「嫌なら誘うわけ、ないだろ」
 冬海が再び瞠目して、次に現れた表情は――微笑みだった。唇が綻んで、冬海の心の喜びを伝えている。土浦の心臓が再び再び跳ね上がり、どこか落ち着かない気分になった。
「はい。是非、ご一緒させてください」
 それは、明確な承諾の言葉。
「あ、ああ……じゃあ、来週の日曜日、会場前でな」
「はい」
 その時、タイミングを見計らったかのように、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。彼女との話の途中に鳴らなかったことに安堵しながら、土浦は手を挙げて身体を翻そうとした。
「じゃあ、またな」
「はい」
 普通科の教室に向けて駆け出した後も、最後の冬海の微笑みが頭に焼き付いて離れない。心臓の動悸が激しいのは、おそらく走ったせいだけではないだろう――自分の心情の変化に苦笑を浮かべつつ、いつまで経っても消えない冬海の微笑みに促されるように、土浦の表情は清々しいものへと変わっていた。
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